土曜日, 12月 29, 2007

カラヤン ブルックナー8番(1957年)

ブルックナー:交響曲第8番ハ短調 WAB108(ハース版)[86:57] 
録音時期:1957年5月23~25日(ステレオ) 
録音場所:ベルリン、グリューネヴァルト教会

ウェーバー:歌劇『魔弾の射手』序曲[10:25]
メンデルスゾーン:序曲『フィンガルの洞窟』[10:13]
・ワーグナー:歌劇『さまよえるオランダ人』序曲[10:58]
ニコライ:歌劇『ウィンザーの陽気な女房たち』序曲[09:00]
録音時期:1960年9月(ステレオ) 
録音場所:ベルリン、グリューネヴァルト教会 

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 
ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮)

 8番は2枚組になっていて、第4楽章とウエーバー以下がカップリングされている。いまどき一気に聴けないのが少し鬱陶しいが、2枚に分けざるを得ないくらい遅めの演奏である。
 その遅さとともに、ベルリン・フィルの音色は、重く、かつ暗い。運行はまことに慎重で、与えられた時間にどれだけ充実した内容を盛り込むことができるかに腐心しているようだ。よってリスナーにとってはとても疲れる演奏である。しかし、このハシリのレコードが日本におけるブルックナー受容の先駆けになったことは事実で、ながらく8番といえばこのカラヤン盤ありとの盛名を轟かせた演奏である。

 俗っぽい見方かも知れないが、この8番を聴くとカラヤンがフルトヴェングラーのブルックナー演奏を徹底して研究していたのでないかと感じる。そのフルトヴェングラーには1949年に同曲についてベルリン・フィルとの名録音がある。以下はそれについてかって書いた自分の感想。

ーー聴く前に深呼吸がいるような演奏である。これから音楽による精神の「格闘技」に立ち会うような気分になって・・・。フルトヴェングラーのブルックナーの8番は数種の入手が可能だが、1949年3月14日録音の本盤の録音がベストと言われる。ライブ録音ながら、雑音が少なく比較的柔らかな響きが採れているとはいえ、しかし全般に音はやせており、金管も本来の咆哮ではないであろう。緊張感をもって、無意識に補正しながら聴く必要がある。

  その前提だが、演奏の「深度」は形容しがたいほど深く、一音一音が明確な意味付けをもっているように迫ってくる。それゆえに、テンポの「振幅」は、フルトヴェングラー以外の指揮者には成し得ないと思わせるほど大胆に可変的であり、強奏で最速なパートと最弱奏でこれ以上の遅さはありえないと 感じるパートのコントラストは実に大きい。

  しかしそれが、恣意的、技巧的になされているとは全く思えないのは、演奏者の音楽への没入度が凄いからである。これほど深遠な精神性を感じさせる演奏は稀有中の稀有である。根底に作曲家すら音楽の作り手ではなく仲介者ではないかと錯覚させる、より大きな、説明不能な音楽のエートスを表現しようとしているからであろうか。ーー

 カラヤン盤は、かのウォルター・レッグのプロデュースによる初期ステレオ録音でこの時代のものとしては良質で新鮮な音色である。フルトヴェングラーと比較して、いわゆるアゴーギク(Agogik)やアッチェレランド(accelerando)はけっして目立たせず、テンポは滔々と遅く意識的にほぼ一定を保っている(8番に関してこれはほかのカラヤン盤でもかわらない)。
 音の「意味づけ」はスコアを厳格に読み尽くして、全ての音を再現せんと神経質なくらい慎重になされている印象だが、その背後には「冷静な処理」が滲み、フルトヴェングラー的感情の「没入」とは異質である。しかし、そこから湧出する音色は、オーケストラの個性なのか冒頭書いたように重く、暗く透明さは増しているが、なおフルトヴェングラー時代のブルックナー・サウンドの残滓を強くとどめているように感じる。
 象徴的に言えば、フルトヴェングラーは、この曲を舞台に自らの「精神」の格闘技を演じたが、カラヤンはそのフルトヴェングラーの「亡霊」との格闘技を行いつつ自己実現を図っているようだ。その強烈なモティベーションがあるゆえか、この演奏の緊張感は実に強く、カラヤン的な濃密な音楽空間を形成しようと全力を傾けており、よってリスナーは興奮とともに聴いていてなんとも疲労する。
 後年のベルリン・フィルとの正規盤(1890年ノーヴァク版、録音年月日:1975年1月20~23日、4月22日、録音場所:フィルハーモニーザール、ベルリン)では、そうした肩の力のぬけた自信に満ち一点の曇りもないといった堂々たる風情だが、1957年盤の歴史的な価値とは、フルトヴェングラーからカラヤン時代への過渡期のおける<緊張感>に満ちた演奏といった観点からも十分にあると思う。

土曜日, 12月 22, 2007

クナッパーツブッシュ ブルックナー選集

ブルックナー
・交響曲第3番(録音:1954年10月11日)バイエルン国立歌劇場管弦楽団
・交響曲第4番(1944年9月8日)     ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・交響曲第5番(1956年6月)       ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団
・交響曲第7番(1949年8月30日)    ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
・交響曲第8番(1951年1月8日)     ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・交響曲第9番(1950年1月28日)    ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

 この選集が良いのは3番から9番までのラインナップに加えて、録音時点ではもっとも早い4番(1944年)から5番(1956年)までの12年間の軌跡を追えること、そして3つの楽団での演奏が聴けることだろう。
 3番についてはウイーン・フィル盤(1954年4月スタジオ録音)と同年の演奏、その後ウイーン・フィルとは有名なライヴ盤(1960年2月14日、ムジークフェライン大ホール)がある。このライヴ盤についてのHMV レビュー が両者を比較しているので以下、参考までに引用しておこう。

 「有名なDECCAのスタジオ盤の6年後におこなわれた演奏。一連のクナッパーツブッシュのブルックナー録音と同じく、ここでも改訂版が用いられていますが、この作品の場合、小節数が最も一般的なノヴァーク第3稿と同じこともあり、さほどの違和感はありません。第8番と同様に原典版との差が比較的少ないため、安心してクナの音楽に浸ることが可能です。
 拍手嫌いのクナらしく、ここでも聴衆の拍手が鳴り止まないうちに演奏が開始されます。冒頭からリズムの良い実にクナらしい進行で、ウィーン・フィルの弾力ある弦と味のあるウィンナ・ホルンの絡みが絶妙。音質が生々しいため、荒々しく巨大な第1主題部と、気持ちのこもった美しい第2主題部のコントラストも強烈で、クナッパーツブッシュの第3が特別な存在であることをすでに十分過ぎるくらいに印象付けてくれます。
 第2楽章と第3楽章は、スタジオ盤に較べて少々テンポの速くなっている部分で、演奏に独特の勢いの良さがありますが、第2楽章第2主題部などの美しい旋律は徹底的に歌いこまれているため、ここでもやはり強いコントラストが感じられます。スケルツォ主部での豪快かつパワフルな演奏も見事。トリオも実に愉快です。
 第4楽章は、スタジオ盤に較べて、より柔軟なアゴーギクが印象的。しかもウィーン・フィルの豊麗なサウンドが非常に効果的に作用しており、第4楽章第2主題でのとろけるような美しさや、コーダの圧倒的なスケールなどこのコンビでなければ不可能な深い味わいがたまりません」。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/1918899

 なお、3番についてはこのほかにミュンヘン・フィルを振ったライヴ盤(1964年1月16日)もある。本収録盤はバイエルン国立との協演であるところが聴き所だろう。
 4番はベルリン・フィル(1944年)だが、これはウイーン・フィル盤(1955年3月)のほうが一般的には有名。
 5番はウイーン・フィル(シャルク改訂版、1956年ステレオ録音)で比較的新しい。その後、ミュンヘン・フィルとのライブ盤(収録:1959年3月19日 ミュンヘン)がリリースされ大きな話題となった。これもミュンヘン盤について、HMV レビュー を一部引用しておこう。

 「・・演奏は全体に、ライヴのクナッパーツブッシュならではのアクティヴな音楽の表情、強烈なコントラストと味のあるアゴーギクがたいへんに効果的なもので、第1楽章冒頭のピツィカートから、ドスの効いた低音と動的な表情がたまりません。第3主題も素朴な逞しさと無垢な美しさが並存する見事な演奏であり、絶妙すぎるテンポ・ルバートと共に忘れがたい感銘を与えてくれます。
 クナッパーツブッシュが愛好した『シャルク改訂版』による演奏のため、原典版に慣れた耳には驚く個所もいくつかありますが、第4楽章フーガおよび二重フーガにおけるティンパニ追加や、コーダでの賑やかな打楽器追加など、演奏が良いためむしろ効果的と思える部分も少なくないのが面白いところです」。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/1259358

 7番もウイーン・フィル(収録:1949年8月30日、ザルツブルク[ライヴ])。7番では新しいケルン放送交響楽団盤(収録:1963年5月10日)もあり。
 さて8番だが、有名なのはなんと言ってもミュンヘン・フィル盤(1963年)。スタジオ録音とライヴ盤の2種がある。本収録盤はベルリン・フィル(1951年)とだが、ほかにバイエルン国立(1955年12月)とのコンビ盤もあり8番はいろいろな演奏が楽しめる。本8番と次の9番のカップリング盤についてのHMV レビュー を以下、引用しておきたい。

 「クナッパーツブッシュ/ブルックナー第8&9番 1951&1950年録音。
 正規の音源によるため、モノラルながら年代の割に音質が良いのが朗報(特に8番)。演奏の最大の特徴は、両曲ともに、改訂版を用いているという点。周知のように、ブルックナーの取り巻きたちによって、後期ロマン派風に変質させられたこのヴァージョンは、劇的な効果を追求した結果としての“改変”が随所に見受けられ、原典版に慣れた耳には楽しい驚きの連続ですが、骨の髄からワグネリアンであったクナッパーツブッシュには、あるいは自然なことだったのかも知れません。何しろ、残された数多くの録音のすべて(第3・4・5・7・8・9番)が、改訂版使用による演奏なのですから。
 そのクナ自身も、後年、ミュンヘン・フィルとの第8番(ライヴ、スタジオ共に)では、ここまで過激なことは行っておらず、終楽章第3主題部など、実に大きな差があります。ちなみに、曲尾のティンパニは、ミュンヘン盤が、クナ独自仕様の三和音叩き分け型、ベルリン盤は、楽譜通りのトレモロ型です」。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/503940

 最後は上記でもコメントされているベルリン・フィルとの9番(1950年)。これもミュンヘン・フィル盤(収録:1958年2月10日)やバイエルン国立盤(1958年2月録音)もある。

金曜日, 11月 30, 2007

トスカニーニ ベートーヴェン 交響曲第9番

ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調 op.125『合唱』 
■アイリ-ン・ファーレル(ソプラノ) ナン・メリマン(メゾ・ソプラノ) ジャン・ピアース(テノール) ノーマン・スコット(バス) ロバート・ショウ合唱団(合唱指揮:ロバート・ショウ) 
NBC交響楽団 アルトゥーロ・トスカニーニ(指揮) 
■録音時期:1952年3月31日、4月1日(モノラル) 
■録音場所:ニューヨーク、カーネギー・ホール オリジナル・プロデューサー:リチャード・モア オリジナル・レコーディング・エンジニア:ルイス・レイトン / MONO

 フルトヴェングラーのバイロイト盤と双璧をなす最高峰の演奏。演奏時間はフルトヴェングラー盤(約74分)より10分も短く、とにかく速くそして切れ味が鋭い。これよりも速い第9は大所ではミュンシュ(約61分)くらいではないか。  

音にさまざまな「想念」が付着し思索的で粘着度の強いフルトヴェングラー盤に対して、こちらは明燦でかつ「からり」と乾いた感じの音楽であり、純粋な音響美を彫刻していく印象である。しかし、その集中度、燃焼度は凄まじくリスナーは音の強靱無比な「構築力」に次第に圧倒されていく。そこからは「第9とはこういう曲だったのか」という新鮮な発見がある。どの音楽も最高に聴かせるトスカニーニ流とは、スコアから独自の音を紡ぎ出す専門的な技倆と言ってもいいかも知れない。なればこそ、高度な音楽技能者として、その後の指揮者に与えた影響は絶大だったのだろう。

 第4楽章を聴いていて、ベートーヴェンが管弦楽法の究極を追求するために、「楽器としての人声」を独唱と合唱をもって置いたのではないかという仮説をトスカニーニ盤ほど実感させてくれるものはないだろう。第3楽章までの完成されたポリフォニーでリスナーは十分に管弦楽曲の粋を聴き取り、それが第4楽章ではじめて肉声と融合しさらに一段の高みに到達する瞬間に遭遇する。しかもそれは宗教曲の纏のもとではなく世俗的な詩を語ることによって表現される。そうしたアプローチは、ドイツ精神主義とは対極のものかもしれない。しかし、そこには作曲家のひとつの明確な意図が伏在していると感ぜずにはおかない強い説得力がある。トスカニーニ盤は、その意味でも普遍性を意識させるし今日的な輝きをけっして喪っていないと思う。

日曜日, 9月 30, 2007


チャイコフスキー:弦楽セレナーデ ハ長調作品48
●ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
■録音年月日:1966年10月6日
■録音場所:イエス・キリスト教会、ダーレム
■録音:ステレオ
■スタッフ:P:オットー・ゲルデス、D:ハンス・ウェーバー、E:ギュンター・ヘルマンス
■原盤所有社:ドイツ・グラモフォン


チャイコフスキー:バレエ《くるみ割り人形》組曲作品71a
●ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
■録音年月日:1966年10月13日、12月26日
■録音場所:イエス・キリスト教会、ダーレム
■録音:ステレオ
■スタッフ:P:オットー・ゲルデス、D:ハンス・ウェーバー、E:ギュンター・ヘルマンス
■原盤所有社:ドイツ・グラモフォン


http://www.karajan.info/cgi/index.cgi?sort=up32&keys3=%81s%82%AD%82%E9%82%DD%8A%84%82%E8%90l%8C%60%81t


 これも下記と同じく100円で購入。カラヤン嫌いの人にとってはこのいわゆる「甘美さ」が厭なのだろうが、ロッシーニと聞き比べると実に面白い。「甘美」というステロタイプな言い方とは違うが、確かに音色とメロディづくりをカラヤンは作曲家によって変化させているように感じる。ロッシーニの抜群の明解な切れ味に対して本盤の特色は!?

 チャイコフスキーはかって、大枚を叩いてドイツ直輸入のカラヤンの高価な全集を買った。高校生の当時、何度も聴いたけれど、どの曲にも通底し一貫したメランコリイさがある。この2曲にももちろんある。メランコリイというと「女性的」、いまでは避けるべき用語かも知れないが「女々しく」響くかも知れないが、そうではない。名状しがたい「憂愁」とでも言うべきか、でも気怠いアンニュイとも違う。「憂国」的な政治的なニュアンスとも異質。時に自己韜晦し、時に雄々しく孤独に耐えようとする「憂愁」かな!?言葉では解析がむずかしい、そういう音をベルリン・フィルから自在に出させるところがカラヤンのほかにはない魔術かも知れない。

ロッシーニ:序曲集([1]歌劇《どろぼうかささぎ》序曲、[2]歌劇《絹のはしご》序曲、[3]歌劇《セミラーミデ》序曲、[4]歌劇《セビリヤの理髪師》序曲、[5]歌劇《アルジェのイタリア女》序曲、[6]歌劇《ウィリアム・テル》序曲)
●ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
■録音年月日:1971年1月2、5、6日
■録音場所:イエス・キリスト教会、ダーレム
■録音:ステレオ
■スタッフ:P:ハンス・ヒルシュ、D:ハンス・ウェーバー、E:ギュンター・ヘルマンス
■原盤所有社:ドイツ・グラモフォン

http://www.karajan.info/cgi/index.cgi?sort=up32&keys3=%81s%83A%83%8B%83W%83F%82%CC%83C%83%5E%83%8A%83A%8F%97%81t

近くの古CD屋さんのバーゲン。毎日少しずつ安くなり今日は1枚100円。申し訳ないような価格で購入。通俗名曲と侮ることなかれ。どれも天空を駆ける名駿馬の如くの演奏。

土曜日, 9月 29, 2007

シャイー プロコフィエフ 「アレクサンドル・ネフスキー」

プロコフィエフ/カンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」op.78 

リッカルド・シャイー(指揮):クリーヴランド管弦楽団、クリーヴランド管弦楽団合唱団(合唱指揮…ロバート・ペイジ)、イリーナ・アルヒポヴァ(メゾ・ソプラノ) 
1983年3月録音 (収録)
1.モンゴルの制圧にあえぐロシア、
2.アレクサンドル・ネフスキーの歌、
3.プスコーフの十字軍士、
4.めざめよ、ロシア人民、
5.氷上の戦い、
6.死の原野、
7.アレクサンドルのプスコーフ入城   

「アレクサンドル・ネフスキー」(1939年作曲)は、1242年の氷上の戦いでドイツ騎士団を壊滅させたネフスキー大公(聖人)の物語を通して、ファシズムへの憎悪を表現したといわれる。エイゼンシュテインの映画音楽として当初作曲され、のちに生まれ変わった作品。  
アレクサンドル・ネフスキー(1220-1263)はウラジーミル大公国の大公だった実在の人物。中世ロシアの英雄と讃えられ、東方正教会の聖人に列せられている。アレクサンドルの敵はドイツ騎士団とスウェーデンであり、彼はモンゴル帝国のバトゥを味方に付けてドイツ騎士団等と対峙し,ノヴゴロド公だった1242年には襲来したドイツ騎士団を「氷上の戦い」と後世形容されるチュド湖上の戦いで撃破する。  
その戦闘をセルゲイ・エイゼンシュテインが1938年に映像化したのが映画「アレクサンドル・ネフスキー」で、その音楽を担当していたのがプロコフィエフであり、翌年、それを転用してカンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」を作る。  
プロコフィエフとエイゼンシュテインは、同世代のロシアの芸術家で、「アレクサンドル・ネフスキー」のほか「イワン雷帝」第1部・第2部を共作した。彼らはともに、革命後の一定期間を外国で過ごし、ソ連に帰還している。プロコフィエフは、ロシア革命(1917年)直後に出国し、ソ連帰国(1936年)。エイゼンシュテインは、「ストライキ」(1924年)、「戦艦ポチョムキン」(1925年)、「十月」(1927年)、「全線」(1929年)と映画史上に残る無声映画の傑作を製作後、1929~32年の間、アメリカ、メキシコに滞在。そのエイゼンシュテインが初めて完成させたトーキーが本作であった。「氷上の戦い」を軸としたこの映画は、明確に時代を反映したものであり、日独の脅威が迫っていた当時、映画で描かれるキプチャク・ハーン国(モンゴル)は日本に、騎士団はナチス・ドイツになぞらえて理解された(実際、1939年に日ソはノモンハン事件で衝突し、41年には独ソ戦が勃発する)という。   http://www.tmso.or.jp/j/news/ivan.php  

さて、シャイーの演奏だが、オルフ「カルミナ・ブラーナ」を彷彿とさせるダイナミックな表現力が魅力である。シャイーはほかにもショスタコーヴィチ「ジャズ音楽集」、「ダンス・アルバム 」やメシアン「 トゥーランガリーラ交響曲」などを得意としているが、こうしたメリハリの利いた民族色豊かな曲に魅力を感じているようだ。メゾ・ソプラノのアルヒポヴァの声も奥行きがありながら柔らかく陶然たるもの。

金曜日, 8月 31, 2007

ジュリアード弦楽四重奏団 ベートーヴェン中期弦楽四重奏曲

 インバルのブルックナー全集を(9番を除き)連続で聴いて、さすがに別のジャンルを引っぱってきたくなった。ジュリアード弦楽四重奏団のベートーヴェン中期弦楽四重奏曲にする。。82年アメリカ合衆国国会図書館クーリッジ・ホールで行われたベートーヴェン全曲演奏会のライヴ録音である。
 今度も3枚組を続けて聴く。① 第7番ヘ長調「ラズモフスキー第1番」、② 第8番ホ短調「同第2番」、 第9番ハ長調「同第3番」 、③ 第10番変ホ長調「ハープ」、 第11番「セリオーソ」の5曲を所収。
  この当時のメンバーは、第1
ヴァイオリン: ロバート・マン(Robert Mann)、 第2ヴァイオリン: アール・カーリス(Earl Carlyss)、ヴィオラ: サミュエル・ローズ(Samuel Rhodes)、 チェロ: ジョエル・クロスニック(Joel Krosnick) である。

 「Juilliard String Quartetは、
アメリカニューヨークジュリアード音楽院の校長だった作曲家、ウィリアム・シューマンの提唱により、ジュリアード音楽院の教授らによって1946年に結成された弦楽四重奏団である。ヨーロッパ出身の弦楽四重奏団のような民族色はないが、完璧なアンサンブル、緻密で明快な音楽解釈、高度な統一感のもたらす音楽表現の広さにより、現代の弦楽四重奏団の最高峰の一つとされている」 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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 ぼくはこの四重奏団の演奏はたいへん現代的だと思う。劇的な表現力にすぐれテンポは早くけっしてだれない。緊張感をこれほど持続させることができるのは、4人の演奏者間相互で生み出す驚異的な集中力ゆえだろう。まして、これはライヴ盤であり、張りつめた会場の雰囲気まで伝わってきそうな迫力である(聴衆の拍手も入っている)。
 ベートーヴェンはラズモフスキー伯爵によって弦楽四重奏曲の依頼を受けた。そのため3曲の弦楽四重奏曲は「ラズモフスキー四重奏曲」Op.59として出版された。

 しかし、あたりまえだが、「標題」と「曲想」は全くの別もの。ベートーヴェンはここでひそかにさまざまな管弦学法の実験をしているようだ。一定のルールのうちながら、メロディの流れを自由に変えてみたり、大胆な変調を試しているのでは、と感じることがある。そのあたりの綾は十分に折り込んでのジュリアードの面々である。全般にクリア・カット、切れ味がよく、おそらくはベートヴェンの意図を現代的に翻訳した「スリリングさ」を聴かせてくれる。

木曜日, 8月 30, 2007

インバル ブルックナー8番

 インバルでブルックナーの交響曲全集を毎日順番に聴いている。3,4番については既に下に記した。
 00番はめったにかけないが、聴く場合はインバル盤を標準としている。インバルの0~2番は特にコメントすべき点なし。1番、2番ともいつもはヨッフム/ドレスデンを聴く。インバル盤もけっして悪くはないが、ヨッフムのブルックナー演奏への熱い思い入れとメローディアスな美しさには及ばない。5~7番も標準的な演奏だが、なかでは6番が見事。6番では、なかなか良い演奏に巡り会わないがこれは素直に心に響く1枚。9番は第4楽章付きだが今回はパスするので最後にこの8番。
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 ここも、まずフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用。8番は遺稿問題が複雑でインバルはよく初稿での演奏を行ってくれたと思う。ただ、3,4番の初稿と改訂版の非常に大きな乖離に比べると、もちろん違いはあるが8番での違和感の落差は、相対的には小さくなっている。
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 「作曲者自身による作曲・改訂の経緯からみると、この曲はまず1887年に完成され、のち1890年に改訂された。前者を1887年版または第1稿、後者を1890年版または第2稿と称する。・・・第1稿と第2稿を比較すると、全楽章で多数の相違がある。第1楽章は、第2稿を基準にすると、第1稿では続きがあるように聞こえる(第1主題に基づくフォルティッシモが戻り締めくくられる)。第2稿では削除された経過句やオーケストレーションなどの相違も多い。
なお、第1楽章で、第1稿では139~143小節にトランペットが重なっており、このトランペットは第2稿では採用されていないが初版(改訂版)では採用されている。これをもって、初版に高い正当性を見出す見解を示す意見もある(初版については、弟子が勝手に改竄したと評価されることがしばしばある)。
ハース版出版以前は、もっぱら初版(改訂版)が演奏に用いられた。ハース版出版後しばらくは、ハース版が演奏の主流であったが、現在ではノヴァーク版第2稿の使用頻度が高い。ハース版に対する、ノヴァークの否定的見解も、その一因と思われる。ただし、朝比奈隆ギュンター・ヴァントをはじめ、音楽的な内容から、ハース版を支持する演奏者も少なくない。
第1稿はめったに演奏されず、指揮者でもこれを録音した人はエリアフ・インバルゲオルグ・ティントナーぐらいである」
 「第1稿(1887年稿)については、ノヴァークによる校訂版が出版される以前に、第1楽章のみ1954年5月2日ミュンヘン1973年9月2日ロンドンハンス・フーベルト・ツェーンツェラー指揮で初演された。ノヴァーク版第1稿を用いての初演は、エリアフ・インバル1980年2月29日フランクフルト・アム・マインにて行われた。インバルは1998年7月8日には東京都交響楽団を指揮して日本初演も行っている。
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 フランクフルト放送交響楽団は現地でもなんどかライヴで聴いたし東京公演にも行った。フランクフルトは、戦後アメリカに統治され米軍基地もあることもあってか、この楽団は、幾分くすんだようなドイツ的な音響ではなく、アメリカのオケのような透明度の高い音を出し、機能主義的な印象が強い。ただこの8番では金管の音がなぜか前面にですぎて、やや耳障りである(これは初稿演奏とは別の次元の問題かも知れないが)。
 以下は先人のコメントの引用だが( 「クラシックCD聴き比べ」氏による)、ちょっと辛口ながら今日聴いて同様な感想をもった。
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 「インバル/フランクフルト放響(82)は、初稿を初めて音にしたという意味で画期的だが、 従前のブルックナー演奏に一石を投じている点も画期的。 小節数でいうと1869と第2稿の1701~1753に比して大幅に増えているにかかわらず 演奏時間が75分で終わってしまっている。
 同じ初稿のティントナーは89分、D・R・デイヴィスは80分。 この盤で初稿を初めて聴く際注意しなくてはならないのは、「初稿」+「インバル」が合体、 つまりインバルの独自の表現が入っているため、初稿だけの評価は難しいということ。 それは初稿のほかの演奏と比較すれば歴然とする。 インバルは唸り声を上げながら(ほんとに入ってます。少し耳障り)音をざくざく切り、 ある意味なぎ倒しながら推進する。最初は面白いと思ったが少し一本調子で単調か。
 この人の特質なのか、オケの音色なのか音が無機的な棒のような感触がある。 これはこの人のほかのブルックナーのみならずマーラーの全集でも感じたこと。 また、録音のせいなのかダイナミックレンジも狭く、よって表現の幅が薄まっている。 美しいppがあって初めて爆発的なffが活きるということがあまり感じられない。 アダージョがその意味で犠牲になっているが、一方終楽章の勢いやコーダの迫力は火のよう。 このチャレンジ精神は大いに買える。
14:01  13:25  26:46  21:08  計 75:20 」http://karajan2.blog101.fc2.com/

水曜日, 8月 29, 2007

インバル ブルックナー4番

 インバルでブルックナーの全集を聴いている。3番につづき4番を回す。1982年の録音、1874年(初稿:ノヴァークIV/1版)による演奏。何事にも先達はいる。以下は「作曲家の森」からの引用

 「1874年の第1稿に基づく演奏は、1975年にクルト・ヴェスが「世界初録音」して以来、現在までに少なくとも7種類はリリースされています。 ロぺス=コボス盤は国内盤でも入手できますが、この演奏は第4楽章のリズム処理に問題があってあまりおすすめは出来ません。できれば譜面通りに演奏しているインバル盤かギーレン盤を、輸入レコード屋さんで探した方が良いでしょう。 最近出たデイヴィス盤も、精度という点では不満が残ります」。
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 本演奏も異色だが、第1稿の「変形」版として、ロジェストヴェンスキーの4番も聴く(別ブログ「織工/名指揮者」を参照)。その演奏の特質について、以下、『ウィキペディア(Wikipedia)』の4番の楽曲解説から引用。
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 「ロジェストヴェンスキー指揮ソビエト国立文化省交響楽団によるブルックナー交響曲全集で使用されていることで名が知られるようになった楽譜である(1984年録音)。
 CDの解説書によると、これは出版されている楽譜ではなく、1900年1月28日のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団定期演奏会のために、マーラーが当時の出版譜(第3稿、初版)に手を加えたものであり、残されたパート譜からロジェストヴェンスキーがスコアに編纂して上記録音に使用したものであるとのことである。このマーラー版の最大の特徴は、第4楽章に極端なカットがなされていることである」。
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 さて、3番、4番とインバルを久しぶりに聴いて、第1稿をオリジナル重視の観点から高く評価することには個人的にはいささかの疑問を禁じ得ない。もちろんブルックナー・ファンとして、埋もれたメロディがいわば「原石」として随所に発見できる喜びはある。また、後の整序された演奏にくらべてブルックナーの創作の苦しみを感じる部分もあり、タイム・スリップしてそれを追体験できる醍醐味もある。
 しかし、ブルックナー本人がその後の研究を重ねて、苦心惨憺のうえ改訂した作品はやはり完成度の点では高いと思う。ハースやノヴァークらの地道な改訂の努力もあって、後の版のほうがはるかにスッキリと聞こえる。
 どの版をとるかどうかにもよるが、全般に改訂実施後の作品にくらべて、初稿においては、メロディの洗練不足、不要なまでのくり返し、変調の際の不自然さなどがどうしても気になってしまう。交響曲としてのまとまりからは、少なくとも初稿のほうが良いと感じる部分はほとんどないように思われる。
 その一方、この4番の第3楽章のように結果的に抹殺されてしまった(ボツになった)音楽はなんとも「勿体ない」と思う。せめて、この第3楽章だけ独立に改訂4番の前に「序曲」として演奏してもそう違和感はないのではないかと勝手に思う次第である。

土曜日, 8月 25, 2007

インバル ブルックナー3番

  昨日からインバルのブルックナー交響曲全集を00番から順番に聴いている。以下は引用中心。まず3番についてのデータから。

■曲名    :交響曲第3番 ニ短調 WAB.103
■作曲時期 :1872/73(76/77,88/89改訂)
■初演    :1877-12-16 @ ウィーン(第2稿) 、1890-12-21 @ ウィーン(第3稿) 、1946-12-01 @ ド
レスデン(第1稿)
■楽章構成 :Gemassigt, misterioso : ニ短調 2/2拍子、Adagio:Feierlich : 変ホ長調 4/4拍子、
Scherzo:Ziemlich schnell-Trio:Gleiches Zeitmass : ニ短調 - イ長調 3/4拍子 、Finale:Allegro : ニ短調 2/2拍子
■楽器編成  :Fl:2; Ob:2; Cl:2; Fg:2; Hr:4; Tp:3; Tb:3; Timp; Str
■インバル盤 :Eliahu Inbal/Radio s.o. Frankfurt 1982-09録音
(演奏時間)24:00、18:52、6:07、16:14 計65:13
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 次は、第3番校正について、 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』からの引用。
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 「1878年および1890年、レティッヒ社から「初版」が出版された。前者は1877年稿を、後者は1889年稿をもとにしているが、弟子の校訂が加わっているとも言われる。
ローベルト・ハース主導の国際ブルックナー協会の第1次全集編纂においては、この第3交響曲の校訂譜を残せないまま、ハースが失脚し、主幹校訂者がレオポルト・ノヴァークに移ることとなった。ただしその際、ハース校訂譜の版権が
東ドイツに残った関係から、戦後エーザーが東ドイツにて、ハースの意志を受け継いでこの第3交響曲の校訂を行った。これはエーザー版と呼ばれ、通常、第1次全集の範疇に含められる。この楽譜はヴィースバーデンのブルックナー出版から出版された(1950年)が、現在絶版である。このエーザー版は、第2稿を元に校訂していた。
国際ブルックナー協会の校訂作業がノヴァークに代わった後、ノヴァーク校訂によるこの曲の楽譜が次々と出版された。まず1959年に、第3稿に基づくノヴァーク版が出版された(ノヴァーク版第3稿)。つづいて1977年にノヴァーク版第1稿、1980年にはアダージョ第2番、さらに1981年にノヴァーク版第2稿が出版された。(アダージョ第2番は1876年に作曲されたと思われる、緩徐楽章の異稿であり、第1稿と第2稿の中間段階のものと思われる)。ノヴァークの死後レーダーが1995年に校訂報告書を出版し、異稿問題は一応の学問的決着をみた」
 「全集録音を行った指揮者の中には、版・稿の問題にこだわった指揮者もいる。たとえばエリアフ・インバルは、第3、第4、及び第8の交響曲の第1稿に基づくノヴァーク版を世界初録音している」
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 上記のとおり、インバルは世界ではじめて初稿(1873年版、ノーヴァク版第1稿)による演奏の録音を行った。いま聴いているCDはそれである。この稿の特色について、最近、話題のシモーネ・ヤング&ハンブルク・フィルが録音。そのPR文章からの抜粋は以下のとおり。
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 「この第1稿は『詩と音の芸術の前人未到の世界的に顕著な優れた大家であるリヒャルト・ワーグナー閣下に、深甚の敬意をもって』献呈されたいわゆる初稿。 トリスタンやワルキューレなど、ワーグナーからの引用がいくつか見られるもので、ワーグナーは気に入ったといわれており、1982年録音のインバル盤以降、確実に人気を高めており、現在では、エリアフ・インバル(2種)、ケント・ナガノ、ロジャー・ノリントン、ジョナサン・ノット、ゲオルク・ティントナー、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー、ヨハネス・ヴィルトナー、ヘルベルト・ブロムシュテット、マルクス・ボッシュなど、すでに10種類のCDがリリースされています」
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 それでは、初稿におけるカットされたワーグナー的な旋律とは?「トロンボーン吹きによるクラシックの嗜好」さんのケント・ナガノ指揮ベルリン・ドイツ交響楽団harmonia mundi HMC 801817 (したがって文中の時間はインバル盤とは異なるが)に関する次の記事が参考になる。
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 「変更点の最大の関心事はワーグナーの諸作品からの引用部分でしょう。第 1 稿にはあからさまなものから暗示的なものまでワーグナーの引用がありましたが、第 3 稿では直接的な引用はほとんど削除されています (2 楽章の終わりに聴かれるワルキューレの『ブリュンヒルデの魔の眠り』の動機は残っています)。単に引用部分をカットするだけでなく、主要主題ごとまるまる変えたりもしています。するとその主題を展開していた部分も新しい主題を移植せねばならないという、大掛かりな作業がなされています。
 第 1 稿にあるワーグナーの引用部分がどこなのか、とりあえず私が把握しているものを挙げておきましょう。第 1 楽章では展開部から再現部に移る部分 (16'41") の《ワルキューレ》の『魔の眠りの動機』。そして 2 楽章は第 1 稿最大級の見せ場が金管のファンファーレで現れます (13'21")。オーケストラが《タンホイザー》の華麗な伴奏を模倣する中、《ローエングリン》の『エルザの大聖堂への行進』のモチーフが一瞬高らかに鳴らされます (《タンホイザー》の巡礼の動機という人もいますが、旋律の雰囲気としては肯けるものの、オクターブ上行跳躍+半音階下降というラインはやはり違うと思う)。その後コーダ手前 (15'50") で再び『魔の眠りの動機』が出てきます。あと 2 楽章で《トリスタンとイゾルデ》からの引用 (1'57" あたりかのことか) や、4 楽章で《ワルキューレ》の『魔の炎の音楽』が聴こえるとしている解説もありましたが、どこなのか確認できませんでした。また CD の解説には1 楽章第 2 主題のホルンの対旋律 (5'04") が《マイスタージンガー》的と書いてありましたが、確かにこんな感じのパッセージが《マイスタージンガー》にあります」

水曜日, 8月 15, 2007

カラヤン ベートーヴェン9番

ベートーヴェン:交響曲第9番ニ長調作品125《合唱》

エリザベート・シュワルツコップ(S)エリザベート・ヘンゲン(A)ユリウス・パツァーク(T)ハンス・ホッター(Bs)
ウィーン楽友協会合唱団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音年月日:1947年11月3~6日、12月10~12日、14日
録音場所:ムジークフェライン・ザール、ウィーン
録音:モノラル
スタッフ:P:ウォルター・レッグ、E:ダグラス・ラーター
原盤所有社:イギリス・コロンビア
マトリックス番号:CHAX321~36、383、4
タイミング:I:15:59、II:10:11、III:15:43、IV:6:29、3:21、14:59

http://www.karajan.info/cgi/index.cgi?sort=up32¬29=P&keys3=%81s%8D%87%8F%A5%81t
より引用

 カラヤン30代の初録音の第9である。当時の新進気鋭、最高のメンバーを集めての意欲作で、SPで発売されたもの。録音は数回に分けて行われ慎重な処理もなされているが、聴いているとライヴ盤のような熱気に包まれている。
 古いモノラルながら、驚くほど各パートの音がクリアに拾われており、高音部は音が割れるのは仕方ないとしても、聴いていてそう痛痒は感じない。ウォルター・レッグという秀でた音楽ディレクターの才能ゆえか、また、カラヤンはその録音技法において、レッグから大きな影響を受けたことも 想像にかたくない。
 演奏は立派である。絶妙に細かいリズムを刻みながら途切れさせない集中力、メローディアスな部分の濃厚な美しさ、低音部の深みある表現ーー既に後年のカラヤンらしさを感じさせるし、白熱の燃焼度も高い。生硬な感じもなくはないが、それ以上にその音楽の構成力には迸る才能が横溢している。

カラヤン ヴェルディ「レクイエム」









◆ヴェルディ:レクィエム ヒルデ・ツァデク(S)マルガレーテ・クローゼ(Ms)ヘルゲ・ロスヴェンゲ(T)ボリス・クリストフ(Bs) ウィーン楽友協会合唱団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 録音年月日:1949年8月14日 録音場所:旧祝祭劇場、ザルツブルグ 録音:モノラル タイミング:88:27 

http://www.karajan.info/cgi/index.cgi?sort=up32&keys3=%83%94%83F%83%8b%83f%83B%20%83%8c%83N%83B%83G%83%80&not3=%8eB%89e%95%97%8ci&print=10&tid=&did=&p=0 から引用

いま聴いているのはヴェルディの「レクイエム」の最も初期の録音。これは一度、東京のライヴで接している。小生のカラヤンのライブ体験は5回ある。


1970年 ベルリン・フィルハーモニー 

・ベートーヴェン/交響曲第4番、第7番

5月9日:大阪フェスティバルホール


・ブラームス/交響曲第3番、第2番

5月16日:東京文化会館


・オネゲル/交響曲第3番

・ドヴォルザーク/交響曲第8番   

5月17日:東京文化会館 

  

1979年 ベルリン・フィルハーモニー

・ヴェルディ/レクィエム

10月24日:普門館 

     

これに加えて、最後に聴いたのは1986年のザルツブルク音楽祭での「カルメン」だった。さて、この49年の「レクイエム」だがライヴの迫力満点で、実演でしか感じられないだろう厳しい緊張感が伝わってくる。自分が聴いた普門館でのコンサートは、あまりに会場が大きく音響が拡散してしまって残念ながらそう印象に残っていない。それにひきかえ、このザルツブルクでのウィーン・フィルとのライブの激しく、そして美しさは絶品である。

カラヤン ストラヴィンスキー「かるた遊び」

ストラヴィンスキー:バレエ《カルタ遊び》
フィルハーモニア管弦楽団
録音年月日:1952年5月3、5日
録音場所:キングズウェイ・ホール、ロンドン
録音:モノラル
スタッフ:P:ウォルター・レッグ、E:ダグラス・ラーター
原盤所有社:イギリス・コロンビア
マトリックス番号:XAX250
タイミング:23:15

http://www.karajan.info/cgi/index.cgi?sort=up32&keys3=%81s%83J%83%8B%83%5E%97V%82%D1%81t
から引用
 カラヤン唯一の録音だが後のストラヴィンスキーの秀演を予感させるにたる演奏。抜群のリズム感とさまざまな楽器の音色が、出番を待って入れ替わり立ち替わり前面にでてくるような演出ともに面白い。

火曜日, 8月 14, 2007

カラヤン ベートーヴェン3番(2)

◆ ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ短調 作品55《英雄》
プロイセン(ベルリン)国立歌劇場管弦楽団
録音年月日:1944年5月
録音場所:ドイツ帝国放送協会大ホール、ベルリン
録音:モノラル
原盤所有社:ドイツ帝国放送協会(RRG)
発売:KOCH SCHWANN他
タイミング:I:15:11、II:15:24、III:6:01、IV:11:50
http://www.karajan.info/cgi/index.cgi?sort=up32&keys3=%81s%89p%97Y%81t 
から引用

  下記の演奏を聴いて、さらに時計を戻して若き日のカラヤンの3番を聴く。基本的には、この段階からカラヤンの解釈が変わっていないことがわかる。敗戦直前の時期であり、オケの合奏力には乱れも目立つが、全体構成を考えぬき、個々の楽奏を冷静にスタイリッシュに整えるカラヤン流の片鱗は既にここにある。


 3番は、この①44年(ベルリン国立歌劇場O)のほか、下記の②52年(PO)以降、③53年(BPO)[L]、④62年(BPO)、⑤69年(BPO)[L]、⑥70年(BPO)[L]、⑦71年(BPO)[F]、⑧76年(BPO)、⑨76年(BPO)[L]、⑩77年(BPO)[L]、⑪77年(BPO)[L] 、⑫82年(BPO)[F]、⑬84年(BPO)[F]、⑭84年(BPO)といった数多いリリースがあるが、カラヤン得意の演目であった。

 ところで、第二次大戦直後のドイツでは、コンサート、レコーディングなどでその演目は慎重に選ばれていたように思う。当時のソ連、米国、フランスなどの進駐の影響もあってか、チャイコフスキー(5番、6番「悲愴」)、ドボルザーク(8番、9番「新世界から」)、バルトーク、ストラヴィンスキーなどの頻度が高い。これらの演目では、フルトヴェングラーは戦前から「現代音楽」の取り上げには積極的であり、「なんでもござれ」であったろうが、これに加えて、いわゆるフランスものや軽い序曲集なども含め、カラヤンの「高純度アプローチ」はあらゆる演目に有用であった。

 しかし、ドイツ・オーストリア圏内では、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、ワグナーなどは必須アイテムであり、なかでもベートーヴェン、とりわけ3番「英雄」や9番「合唱」はこの時代にあって、ナチズムとの決別、新生イメージの醸成からも重要な演目であったろう。

 表記の演奏は滅び行くナチズムの最後の頃の録音、下記の(1)は新生後のものだが、演奏スタイルには大差はない。しかし、そこに集う聴衆の思いはもちろん連続ではありえない。「葬送行進曲」の重さの受け止め方にも違いがあったろう。そんな思いで「聞き比べ」をする価値もあるかも知れない。

カラヤン ベートーヴェン3番(1)

◆ 交響曲第3番変ホ長調 op.55『英雄』 
フィルハーモニア管弦楽団 
録音年月日:1952年11月20~22日、12月1日
録音場所:キングズウェイ・ホール、ロンドン
録音:モノラル
スタッフ:P:ウォルター・レッグ、E:ダグラス・ラーター
原盤所有社:イギリス・コロンビア
マトリックス番号:XAX264、5
タイミング:I:14:33、II:16:26、III:5:47、IV:11:47

 もしもこれ以降のカラヤンの演奏を知らずに、そして目隠しで一般のリスナーにこの演奏を聴いてもらったとする。原盤はモノーラル録音だから、そこは如何とも隠しようがないが、この壮年期のカラヤンの「エロイカ」には、たぶん現代の若者も唸り、感動し、惜しみなく賛辞を送るだろう。それくらい、この「上出来ぶり」は大変なものだ。1952年の頃のカラヤンは、その実力に比して不遇な時代。イギリスでシュワルツコップの旦那さんのウォルター・レッグにお世話になっていた時代である。

 フルトヴェングラーはドイツでなお王者として君臨し、カラヤンのベルリン復帰を決して許さなかった。それをおそらく強烈に自覚しつつも、カラヤン、この時代のフィルハーモニア管弦楽団との演奏は生気に溢れ素晴らしいものが多い。清新さ、溌剌さの一方、音の陰影のつけ方も巧みである。暗い音の「深み」には特有の凄さすらがある。テンポは全般に早い。時に自在に動かす場合もあるが恣意的な感じは与えない。リズミックさは抜群で切れ味の鋭さこそカラヤンの身上。

 再度!もしも、これしかカラヤンのエロイカの録音がなかったとしたら、多くのリスナーはもっとこの演奏に注目するかも知れない。しかし、カラヤンはこの後、幾度も録音をくり返し、そのディスコグラフィを書き換えていく。だが、本盤がこの時代にここまで完成された形で残されている意味は覚えておいて良い。数多の名演に対していまだ、その「
拮抗力」は十分である。

日曜日, 8月 12, 2007

テンシュテット マーラー6番

 マーラー:交響曲第6番『悲劇的』テンシュテット指揮ロンドン・フィル1991年11月、ロイヤル・フェスティヴァル・ホールでのデジタル録音。
 「どこをとっても感情の込めぬかれた、ライヴならではの過激な演奏で、テンションの高さには驚くばかり。第4楽章のハンマー打撃は三度目無しの通常スタイルで、一度目よりも二度目が強く、二度目の衝撃の強さはかなりのものです。http://www.hmv.co.jp/product/detail/1513595 」

 6番について、マーラーは5番までの作品を聴いた理解者しか、その特質はわからないだろうと語ったとのことだが、3楽章まではそれ以前の作品との連続性も強いと感じるながら、第4楽章に入ると、古典的なソナタ形式に対するアンチテーゼの思いが横溢しているようだ。「形式」が崩れゆく有り様は、強い芳香を発する熟れすぎた果物のような感をもつ。ハンマーが破壊の象徴であれば、なおのことその感を倍加する。

 テンシュテットの特質である豊饒な音楽の拡散感がこの4楽章に実にマッチしている。しかし、それが「だれない」のは、音楽へののめり込み、集中力が少しも途切れないからだろう。交響曲という名称が付されながら、その実、「交響」の意味は複雑で多義的で、それは、かっての積木をキチッと組み上げていくような律儀な「形式美」ではなく、雪崩をうって積雪を吹き飛ばすような「崩壊美」に通じるように思う。第3楽章の美しいメロディに浸ったあと、音の雪崩が突然と起こり、それに慄然とする恐懼がここにある。

 テンシュテットには、そうした効果を狙ってタクトをとっているような「作為」がない。テクストを忠実に再現していく過程で、崩壊美は「自然」に現れると確信しているような運行である。こうした盤にはめったにお目にかかれない。稀代の演奏と言うべきだろう。 

コンヴィチュニー ブルックナー8番

 コンヴィチュニー指揮ベルリン放送響の演奏(1959年12月のスタジオ収録)。これについては以前も書いた。再度、聴き直してやはり良いなあ、と思う。なによりも、大曲8番を前に妙に「構えた」感じがない。十八番にしているブルックナーをいつもどおり堂々とやろう、といった平常心の落ち着きがある。

 1959年といえば、同じベルリンで同番について、カラヤン/ベルリン・フィルの名盤が世に出された年である。これは、かってのフルトヴェングラーの演奏を意識し、カラヤン流儀でこれを凌駕しようとするような意欲作で、緊張感溢れた素晴らしいものであった。

 コンヴィチュニーも、日本で知られる以上に当地にあっては「大御所」であり、馴染みのファンも多かったろうし、本盤もその演奏の質量は充実している。しかし、それ以上にブルックナーという「素材」を存分に理解しその最良な部分を聴衆に伝えようという地味ながら、厳しいプロ意識が伝わってくる。「けれんみ」や「気負い」がないところが聴いていてかえって心地よい。ある意味、ベイヌムやレーグナーと共通するものがある。曲そのものをナチュラルに楽しんで聴ける良い演奏である。

(参考)昨年の9月8日の記録(織工Ⅱ)
 コンヴィチュニーのブルックナーも魅力的である。金管が山脈の稜線を野太く辿るように高みで鳴り響き、それがこの盤の最大の特色ともいえる。実に雄々しく鳴らせている。原典版を使用しているが、解釈はオーソドックスでテンポも安定しており、多くの同番を聴いてきた者からすれば「重量感がある見事な演奏」というのが次の感想ではないだろうか。弦楽器は録音の関係もあるかも知れないが控えめな印象をぬぐえないけれど、アンサンブルは悪くはない。1000円以下というのが信じられない価値ある1枚である。

日曜日, 8月 05, 2007

バーンスタイン マーラー1番

 このジャケットの衝撃はいまも忘れていない。「シュール」という言葉はいまや古語に分類されるかも知れないが、当時にあっては、このジャケットの「戦闘的」とも言える大胆さとともに本盤がセンセーショナルに登場したその影響力は、バーンスタインの盛名とともに日本におけるマーラー・ブームの明らかに発火点であった。

 交響曲第1番ニ長調『巨人』 ニューヨーク・フィルハーモニック 録音:1966年[ステレオ]はバーンスタインのはじめてのマーラー交響曲全集のなかでは録音時点でちょうど中頃に位置している。こと1番に関しては、その後のコンセルトヘボウやウイーン・フィルとの演奏に比べるとかなり荒削りの印象はあるものの、それは初期マーラーの迸るパッションとの親和性ではけっしてマイナスにはなっていないばかりか、むしろこの、時に抑制を超えたような激烈さこそ本盤の最大の魅力と感じる。

 激烈さがあればこそ、その後の静寂のなかでの甘美な音律が聴き手の別の中枢神経にさざ波のようにきらきらと耀いて押し寄せてくる。そこまで見切って演奏していたら嫌らしいが、バーンスタインの素地はもっと自由で真剣な思いが強いようにも感じる。伸び伸びと地平を拓くように展開していくマーラーの世界は、巷間言われる「病的なもの」、「おどろおどろしさ」などは少しく異質で、はじめて聴いた高校生の自分は生来鈍いのか、あまりそうした暗い感性を持たなかったし、実はこの演奏に関する限り、いまもそうだ。

 それが物足りない向きもあるかも知れないが、時代の扉をあける革新性により思いを馳せると、それはそれで良いような気もする。そしてこの演奏の最大の特色は、けっして「感傷的」ではなく、逆に堂々とマーラーの交響世界の「構築力」を誇ろうとしていることにあるように思う。聴衆をねじ伏せるといったら言い過ぎであろうか。いま聴き直してもなんとも自信に満ちた燦然たる演奏である。

土曜日, 8月 04, 2007

メータ マーラー2番

 イレアナ・コトルバス(ソプラノ)、クリスタ・ルートヴィヒ(メッゾ・ソプラノ)、ウィーン国立歌劇場合唱団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏。1975年ステレオ録音。

 ウイーン・フィルに注目すると、「復活」に関しては、古い録音だが、ケルツェ(ソプラノ)、ウェスト(アルト)、シェルヘン指揮ウイーン国立歌劇場管弦楽団、ウイーン・アカデミー合唱団の歴史的な名盤があったが、一般にはいまや忘却の彼方だろう。
 しかし、このメータ盤がでて、アメリカの並みいる高度技術系オケの多くの演奏を押さえて、「流石、ウイーン・フィル!」の決定盤が登場し、かつその地位はいまも保たれているのでないだろうか。

 メータ39才の才気溢れる演奏だが、メータとウイーンとの関係は意外と近い。1954年にメータはウイーン国立音楽大学に留学し、ハンス・スワロフスキーに学ぶ。1958年にリヴァプールの指揮者コンクールで優勝し翌年、その功績をもってウイーン・フィルを指揮してデビューを飾る。難しいウイーン子もいわば近しい関係としてメータを迎え入れたとも言えよう。

 そうした所縁もあってか、この2番では白熱の燃焼をウイーン・フィルがしているように感じる。テンポは早めだが音楽の濃度は高く、各パートの陰影に富んだニュアンスある響きは恐れ入るほどに見事である。しかも後半の3楽章に行くにつれオケが一体となった凝縮感が徐々に強まり、これは容易ならざる・・といったゾクゾクする緊張感が時にリスナーを貫く。

 かってライヴ録音のような迫力と言われたが、指揮、オーケストラだけでなく独唱、合唱についても、たしかに数本の波長の異なるバイオリズムが、この演奏時だけぴたっと最高にシンクロし、一気に高揚点が上がったような偶発性を感じさせる。「一期一会」の名演といった深い感動がある。

ショルティ マーラー4番

 ショルティのマーラーの第4番では、キリ・テ・カナワ(ソプラノ)、シカゴ交響楽団を振った1983年のデジタル録音が代表盤と言われるが、これはスタールマン(ソプラノ)、コンセルトヘボウとの1961年の旧盤である。ショルティ、はじめてのマーラー録音とのことだが、その美しい響きに陶然となるような名演である。

 コンセルトヘボウは、遡ること20年前の1941年に、ヴィンセント(ソプラノ)で名匠メンゲンベルクと歴史的なライヴ名演を残しているが、マーラーの最良の抒情性が結晶したような4番のメローディアス性がこのオーケストラの音質ととても合っていると感じる。

 ショルティという指揮者は、ワーグナーの『指輪』での金字塔のイメージが強すぎダイナミックな演奏の権化のように思われがちだが、その実、こうした絹のような手触りの曲づくりでも抜群の巧さをみせる。
 スタールマンの声は端整でけっして出すぎずにオーケストラの音色と溶け込み好印象を与える。最終部の木管楽器との柔らかな掛け合いの部分などは、まだ終わってほしくない、もっと聴いていたいという陶酔感をリスナーに与えずにはおかない。4番の座右の1枚である。

シノーポリ マーラー5番

 ジュゼッペ・シノーポリ(Giuseppe Sinopoli)は、存命していれば21世紀のクラシック音楽界の風景を大きく変えたであろう逸材です。戦後の1946年イタリアのヴェネチア生まれ。ユダヤ系移民と言われますが、天才肌の音楽家です。2001年4月20日に演奏中、心筋梗塞で倒れ不帰の人となりました。

 本盤は1985年1月ロンドンの教会での録音ですが、残響が豊かでマーラー特有の音の「奔流」が存分に味わえます。1904年のマーラー自身による初演もケルンの会堂でしたから残響はもしかすると当時も意識されていたかも知れません。  

 演奏そのものはシノーポリらしい分析癖、「理詰め」が随所で感じられ、あらゆる音が明瞭に再現されますが、それをうるさく感じさせないのは、この残響効果との絶妙なマッチングゆえかも知れません。激しいダイナミズムと腺病質なリリシズムが常に交錯しますが、見事な統一感は保たれ堂々とした名演です。シノーポリの抜群の才覚を知るうえでも必須の1枚だと思います。

日曜日, 7月 22, 2007

カラヤン ブルックナー8番

ブルックナー:交響曲第8番〔ハース版〕
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
1988年11月デジタル録音。

 全般に受ける印象は先に記した7番と変わらない。テンポが遅く、細部の彫刻は線描にいたるまで周到である。しかし、このなんとも美しい8番を聴いていて、不思議とブルックナー特有の感興が湧いてこない。チェリビダッケの8番の「どうしようもない遅さ」には一種の「やばい」と思わせるスリリングさがある。東京の実演でも感じたが、もはや「失速寸前」まで厳しく追い込んでいく演奏の危険性と裏腹に獲得する、得も言われぬライヴの緊張感といった要素がある。
 一方、カラヤンの8番には失速懸念があるわけではない。磨きに磨きあげる音の彫琢のためには、このテンポが必要なのかも知れない。しかし、クナッパーツブッシュを、シューリヒトを、ヨッフムを、あるいはヴァントを聴いてきたリスナーにとって、この演奏の「到達点」はどこにあるのだろう。遅くて、こよなく美しいブルックナー。

 カラヤンは20世紀の生んだ天才的な指揮者である。世界政治の坩堝としてのベルリンで、その「孤塁」の安全保障を、結果的にたった一人、1本のタクトで保ってきた稀有な才能の持ち主でもある。時代の先端を疾駆し、常にセンセーショナルに、旧習にとらわれ変化の乏しいクラシック界に新たな「音楽事象」を自ら作り出してきた。
 初期には、トスカニーニ張りと言われたその素晴らしいスピード感、常任就任以降の精密機械に例えられたベルリン・フィルの合奏力の構築、また、瞑目の指揮ぶりは聴衆を惹きつけずにはおかず、そのタクト・コントロールのまろやかな巧みさには世界中の音楽ファンが魅了された。
 エンジニアとしての知識と直観に裏付けられたCDからビデオに、そしてデジタル化にまでいたる映像美学へのあくなき関心。いくつも並べられるこうしたエピソードとは別に、レパートリーの広さと純音楽的で類い希な名演の数々、その厖大なライブラリー。スタジオ録音でもライヴでもけっしてリスナーを裏切らない均一な演奏水準・・。
 カラヤンの演奏にある意味で育てられてきたような世代の自分にとって、また、大阪で、東京で、そして忘れえないザルツブルク音楽祭でそのライヴに感動した過去の体験に思いを馳せつつ、カラヤンの「凄さ」にはいつも圧倒されてきた。

 さて、そんなことを考えながら8番を聴いている。一般に大変高い評価のこの最晩年の演奏は、もちろんカラヤンらしい完璧志向は保たれているが、ブルックナーの一種の「狂気」に接近する演奏の「エモーション」が物足りない気がする。かってのカラヤンの演奏では感じなかった落ち着きとも諦観ともいえる心象が随所に出ていると思う一方、フル回転の内燃機関のような白熱のパッション(その「内実」は神のみぞ知るだろうが)は遠い残り火のように時たま瞼に映るのみである。

 かってバレンボイムの8番をなんども聴いたうえでだが酷評した。このカラヤンの8番も自分にとって、なくてはならない1枚ではないようだ。ここ一番、第4楽章の見事なフィナーレにはかっての感動を追体験しつつも、壮年期の覇気が懐かしい。自らの加齢の影響もあるかも知れないが、悲しみとともに、老いたりカラヤン!との感情を隠しがたい。

土曜日, 7月 21, 2007

カラヤン ブルックナー7番

 ブルックナー:交響曲第7番ホ長調 WAB107(ハース版) 
 ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮)  録音時期:1989年4月18~23日(デジタル) 
 録音場所:ウィーン、ムジークフェラインザール

 第1楽章、テンポが遅く、低弦が少し裾を引き摺るように重い足取りですすみ、重心の位置の低い演奏という感じである。その傾向は第2楽章アダージョにいたり特に顕著となり、どんな難解な曲も聴き手にとって明解かつ軽快に表現してみせた往時のカラヤンのスタイルとは違った一種の「忍耐」を聴き手に要求する。
 フルトヴェングラー的な大胆な緩急をつけたテンポの動かし方をまったくしない。第3楽章も速度は遵守され厳格なテンポを崩さぬ演奏であり、ダイナミクスの振幅もあえて抑制されているように感じる。
 その一方、ディテールについては、全ての音が細密画を見るように、まさに「細大漏らさず」再現されており、特にブルックナーのメロディの美しさをあとう限り際だたせている。演奏によってここまでメロディは磨かれ、生き生きと息づくのかと思うし、同業の指揮者ならその高度な技法に打ちのめされ溜息をつくだろう。
 第4楽章も以上の傾向は基本的に変わらないながら、低弦の重さが減じテンポも少しく自由度を与えられウイーン・フィルらしい美しい響きが前面に出てくる。フィナーレも音が崩れず冷静さを失わない処理である。


➡ カラヤン ハース版 1989年盤
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RHP8UIZFIRS6V/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=B00000E3F6

土曜日, 6月 23, 2007

ヴェルザー=メスト ブルックナー7番


◆ブルックナー:交響曲第7番ホ長調(ノーヴァク版)
◆ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団  フランツ・ヴェルザー=メスト(指揮)
 (1991年8月27日ロイヤル・アルバート・ホールでのライヴ録音)
 フランツ・ウェルザー=メスト(Franz Welser-Möst )は1960年、ブルックナーゆかりのオーストリアのリンツ生まれ。ミュンヘンで音楽を学び、19才の若さで、カラヤン国際指揮者コンクールで同国人のカラヤンに認められ衆目の関心の的となる。
 いくつかの欧州の地方の管弦楽団で経験を積んだのち、1986年にロベス=コボスの代役としてロンドン・フィルを振って、これも同国人モーツァルトのレクイエムで大きな成功をおさめ、その後、ブルックネリアーナ指揮者としても圧倒的な実力をもつクラウス・テンシュテットの後任として弱冠30才でロンドン・フィルの音楽監督に就任する。
 その後、チューリッヒ歌劇場の音楽監督をへて、2002年にはドホナーニからクリーヴランド管弦楽団の音楽監督のバトン・タッチを受ける。この頃からオペラの演奏、録音も積極的に行い、2007年のシーズンではウイーン国立歌劇場でワーグナーの『指輪』を取り上げることになっている。さらに、2010年からは小澤征爾の跡目をうけてウイーン国立歌劇場の音楽監督に就任することが決まっている。
 この演奏を聴いていると、まず、カラヤン同様、同国人のブルックナーへの敬愛があるように思える。そうした安易なアナロジーが不味ければ、「(母国作品に対しての)己のテリトリーとしての自覚」と言い換えてもいいかも知れないが、ブルックナー・ファンの聴き手としては、再現する対象との距離の近さに親近感が湧く。
 次にテンシュテット時代からブルックナーを得意とするロンドン・フィルの音質のほの明るさが特徴的だ。ヨッフムの紡ぎ出す南ドイツ的な音色とは微妙に異なる透明度だが、このほの明るさはかなり印象的で、かつブルックナー休止でも十分残響をとり音が途切れない点ではカラヤン、ヨッフム、レーグナー的とも言える。
 また、その運行テンポは比較的軽快(第一楽章で20分を切る)ながら、一音一音を慎重すぎるくらい慎重に重ねていく、折り目正しい丁寧な演奏である。さらに第3楽章など音が重くならず「もたれない」点ではシューリヒト特有の軽やかさの技法を連想させる。
 強奏では十分に鳴らすが、テンポはけっして崩れず背後に冷静さを滲ませる。これも同国人ベームのような沈着さだなと勝手に思う。
 全体に「個性的」ではないが、局所局所の処理が見事に整序されており、ライヴ的な熱狂には与しないぞという自己主張をしているように見受けられる。その意味でジャケットの「若さ」を強調する売り込みとは異質なものを抱くリスナーも多かろう。この段階で「大器」を予感させる十分な佳演である。

金曜日, 5月 04, 2007

ジュリーニ チャイコフスキー6番

 1981年11月にロスアンジェルス・フィルを振ってのチャイコフスキーの6番。聴く前には「悲愴」ゆえに、ジュリーニ得意の濃厚なカンタービレがどう響くのかなといった関心だった。
 余談だが、高校生のときにカラヤン/ベルリン・フィルの豪華なチャイコフスキー選集がでて、小遣いをためて購入した。これこそ「悲愴」はその言葉どおりに嫋々と切なく鳴っていると感じ入った。
 しかし、ジュリーニのこの演奏はそれとは全く異なる。第一楽章冒頭の暗い出だしは幾分パセティックな予感を感じさせるけれど、それ以降はあらゆるメロディとリズムを「明瞭」かつ「流麗」に再現することを最大の目標にしているように、実にクリアーな音響が充ち満ちている。曖昧さも余分な感傷もないような演奏である。第三楽章のアレグロ・モルト・ヴィヴァーチェなどは小気味よき切れ味で、むしろ気分がスッキリするくらい。第四楽章もメロディは見事に美しく響くが、テンポは軽妙な裁きで、けっして過度に感傷的にはならない。
 生前作曲家は、「標題は『なぞ』として残されるべきだ。各自の推測にまかせる・・」と言ったそうだが、ジュリーニの演奏を聴くとチャイコフスキーの最後のシンフォニーの終楽章を格調たかく奏でることに全霊を傾けているように感じる。しかしそれが「悲愴」的かどうかはリスナーの感じ方次第とでも言わんばかりである。良き演奏である。

土曜日, 4月 28, 2007

ブルックナー 弦楽四重奏曲 

Brahms: String Quintet, Op. 111; Bruckner: String Quintet
Performer: Wolfgang Boettcher, Brandis Quartet, Brett Dean, Wilfred Strehle, Peter Brem, et al.
Audio CD (December 3, 1996)

 偶然、古CD屋で見つけて早速購入した。実に良い響きである。Brandis Quartettの演奏で、ブラームスとのカップリングも面白いし、オーソドックスなアプローチながら細心の運行への配慮が施されており緊張感が持続する。

水曜日, 4月 25, 2007

ムローヴァ メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲

 メンデルスゾーンの2曲のヴァイオリン協奏曲を所収
1. Vn Con in e, Op.64: Allegro molto appassionato
2. Vn Con in e, Op.64: Andante
3. Vn Con in e, Op.64: Allegretto non troppo-Allegro molto vivace
4. Vn Con in d: Allegro molto
5. Vn Con in d: Andante
6. Vn Con in d: Allegro
1990年1月10-12日、ロンドン、セント・ジョンズ・チャーチ

での録音
繊細にして感性が豊かで、柔らかくも確実に胸に染みわたってくるような演奏。ムローヴァに感心する。

土曜日, 4月 14, 2007

ヨッフム ブルックナー9番

 ブルックナー:交響曲第9番ニ短調 ドレスデン国立歌劇場管弦楽団(シュターツカペレ・ドレスデン) オイゲン・ヨッフム(指揮) 録音:1978年(ステレオ)
 ワルターを味わったあと、ヨッフムが聴きたくなった。ノヴァーク版のよる演奏であり、9番はヨッフムの「公式」録音では3度目になる。
 第1楽章の迫力が凄い。ヨッフム75歳のときの録音だが、枯れた要素などは微塵もない。競(せ)っているような少し前のめりの感じもあるが、次から次に畳み込むような強奏がつづき、第1楽章に全体の頂点を形成することを意図しているような意欲的な演奏である。第2楽章のスケルツオも、これと連続し速度ははやくリズムの切れ味は鋭い。一気に駆け抜けるような文字通りの「快走」である。一転、第3楽章に入ると大胆に減速し、フレーズは滔々と伸ばし、じっくりとメロディを奏でていく。色調も明から仄かに翳りをもちブルックナー交響曲群全体の「終章」的な重みを持たせていく。考え抜いた演奏であるが姑息な演出を感じることはない。こうとしか演奏できない、否、これこそがこの曲のもつ特質なのだと言わんばかりの説得力である。強奏は緩めないが、ダイナミズムの振幅は次第に狭まり、その一方で感情表出の濃度がましていく。しかし音の透明度は変わらない。そこから受ける印象は陳腐な表現だが、「天への飛翔」といったところであろうか。見切った演奏である。

金曜日, 4月 06, 2007

ワルター ブルックナー9番

 トスカニーニ/NBC交響楽団と同様、ワルター/コロンビア交響楽団は、指揮者の実力によって一時期に優秀なオーケストラが結成された希有な事例である。もちろん、いまも小沢征爾/サイトウ記念ORのようなアド・ホックな組み合わせはあるけれど、前二者のような永きにわたる事例は多くはない。
 ドラティなどハンガリアン・ファミリーが手兵を組織した素晴らしい名演の事例も思い浮かぶが、特定の分野にこだわらず、広範な演奏記録を残したという点において、やはりトスカニーニとワルターは傑出している。
 そのワルター/コロンビア交響楽団によるブルックナーの9番を聴く。1959年11月の録音。きびきびとした運行、しかし厳格なテンポは維持されている。つややかにフレーズは磨かれながら全体の構成は実にしっかりとしている。弦楽器の表情豊かな色彩に加えて、管楽器は節度ある協奏でこれに応えている。いい演奏だ。9番の良さを過不足なく引き出している。しかも、演奏の「アク」をけっして出さずに澄み切った心象のみを表に出そうとしているように見受けられる。
 ワルターはかって「ブルックナーは神を見た」とコメントしたが、そうした深い心象がこの演奏の背後にあるのだろう
。ワルターにせよ、クレンペラーにせよ演奏に迷いというものがない。己が信じる作曲家の世界をできるだけ自分の研ぎ澄まされた耳を武器に再現しようと試みているように感じる。この時代のヴィルトオーゾしかなしえない技かも知れないが注目されてよい歴史的名演だろう。

土曜日, 3月 31, 2007

シューリヒト ブルックナー3番

 意外な想い。この演奏が悪かろうはずはない!。シューリヒト/ウイーンPOで録音は12/1965, Great Hall, Musikverein, Vienna, Austria [Studio] でありEMIの音はほかのシューリヒト盤とくらべても良好なはず・・・?!。
 だが、一言でいえばなにか物足りない演奏。シューリヒトはいつもの彼であり、3番に限ってけっして不出来ということはない。というよりも期待が大きすぎて勝手に落差を感じているだけかも知れないが、自分のもっている3番の分裂症的な心理のボラティリティがこの演奏では少なすぎる気がする。
 何度も聴いているとこの曲が当初、ウイーンの「目利き」の連中に受け入れられなかったことも理解できるような気がする。古典的な作曲ルールをけっして踏み外さないブラームスを堪能していたウイーン子が、はじめてライヴで聴く恐ろしく長くとても「異質の音楽」がこの3番ではなかったかなと思う。
 アーノンクールやシノーポリは「やり手」でこの曲のポレミークさ(論争性)を結構うまく使って、当時においてはおそらく感じたであろうブルックナーの「不思議な変調」(現代人のブルックナー・ファンにとっては実は堪らぬ魅力の源泉だが・・・)を強調しているような気がするが、シューリヒトは平常どおり奇を衒わず淡々とこなしているように感じる。3番は良くも悪しくもブルックナーの「地金」が強烈にでている曲であり、そこをどう表現するかどうかのアクセントの違いかも知れないが、ここはアクの強い演奏のほうに惹かれる。そうしたリスナーはシューリヒト・ファンからはお叱りを受けそうだが・・・。 

金曜日, 3月 30, 2007

アーベントロート ブルックナー4番

 最近、聴いているのはこの「頑固そうなおっさん」ヘルマン・アーベントロート(Hermann Abentroth:1883ー1956年) のブルックナー4番。ライプツイヒ放送交響楽団の演奏。録音は1949年11月16日の同地コングレスハーレ。これがなかなか良い。音楽の仕切というか所作というかがはっきりとしており、ちょっと我が儘な大指揮者が「さあ、やるぞ!」といった壇上の気迫に、弦は力強く反応し、金管も存分に咆哮するなど交響楽団が一所懸命に頑張っている感じ・・・。
 ライナーノート(大木正純氏)によれば、「人徳すこぶる豊かにして謙虚、しかも思いやりのある温かい心の持主」とのことで、1956年5月29日に逝去したときには何千人もの市民がお墓まで見送ったとのことだから、一見強面そうな外見や演奏から受ける印象とはすこぶる異なる。
 ライプツイヒでは1934年以降ワルターの後任、その後東西ドイツの分断で東独で活動することになるのでその演奏が知られる機会は乏しかったが、曖昧さのない自信に満ちたブルックナー像を構築しており、これ1曲では即断はできないけれど、ほぼ同時代のシューリヒト(1880ー1967年)、クレンペラー(1885ー1973年)、フルトヴェングラー(1886ー1954年)、クナッパーツブッシュ(1888ー1965年)らのなかにあっても独自の地歩を築いていた名匠と言えるのかも知れない。悪い癖で、例によってほかの番も聴いてみたい欲求にかられている。

日曜日, 3月 25, 2007

ヴァント ブルックナー4番

 1976年12月10日ケルンで地元のケルン放送交響楽団を振っての録音。この当時、日本でヴァントのブルックナーに注目する人はほとんどいなかった。また、当時、ブルックナー自身、広く聴かれる作曲家ではなかった。ヴァントは1968年に来日し読売日本交響楽団を指揮しているから、76年の時点で日本では、けっして無名ということはなかったろうが、よもや晩年、その演奏がかくも熱狂的に迎えられることを予測した向きは多くはなかったはずである。
 CD附属のライナー・ノートによればケルン放送交響楽団は1947年に創設、ケルンと縁の深いヴァントは当初からこのオケと演奏をともにしてきた。録音時点でヴァントは既に64才になっており、オケも放送響として30年近い実績を有していた。その意味では相性の良いコンビによる得意の演目の録音であったといえよう。
 感情を抑制しつつもその実、熱っぽく、一方でしっかりとツボを押さえた抑揚のきいた佳演である。良く「練られた演奏」とでもいうべきだろう。ヴァントはその後、晩年のシューリヒトがそうであったように年とともに著名度をあげ、大家と目されるようになる。ベルリン・フィルやミュンへン・フィルなどとも同番の名演を残しており、それとの比較では本演奏はいわゆる「旧盤」といえようが、その解釈は一定でどのオケを振ってもそうブレは感じない。じっくりと作品に沈潜して、内在する音楽を見事に引き出すことに関しては、プロとしての安定性ある練達の技能者である。これは4番に限らないが、いま聴き返して、ブルックナーの荘厳な世界を見事に表現している技倆に改めて驚き、また敬慕する気持ちを抱く。

土曜日, 3月 17, 2007

トスカニーニ BOXセット


トスカニーニのBOXセットを本日中古で購入。早速、ベートーヴェンから聴いている。全体は以下のとおり。

Ludwig van Beethoven (1770 - 1827)
Symphony no 1 in C major, Op. 21
• 演奏者 : • 指揮者 : Toscanini, Arturo• 楽団 : NBC Symphony Orchestra
録音場所: 1939年 ニューヨーク

Ludwig van Beethoven (1770 - 1827)
Symphony no 2 in D major, Op. 36
• 演奏者 : • 指揮者 : Toscanini, Arturo• 楽団 : NBC Symphony Orchestra
録音場所: ,1939年 ニューヨーク

Ludwig van Beethoven (1770 - 1827)
Symphony no 3 in E flat major, Op. 55 "Eroica"
• 演奏者 : • 指揮者 : Toscanini, Arturo• 楽団 : NBC Symphony Orchestra
録音場所: 1939年10月28日 ニューヨーク

Ludwig van Beethoven (1770 - 1827)
Symphony no 5 in C minor, Op. 67
• 演奏者 : • 指揮者 : Toscanini, Arturo• 楽団 : NBC Symphony Orchestra
録音場所: 1939年11月11日 ニューヨーク

Ludwig van Beethoven (1770 - 1827)
Leonore Overture no 3 in C major, Op. 72a
• 演奏者 : • 指揮者 : Toscanini, Arturo• 楽団 : NBC Symphony Orchestra
録音場所: 1939年 ニューヨーク

Giuseppe Martucci (1856 - 1909)
Symphony no 1 in D minor, Op. 75
• 演奏者 : • 指揮者 : Toscanini, Arturo• 楽団 : NBC Symphony Orchestra
作曲/編集場所: 1888-1895, Italy
録音場所: 1938年11月26日 ライヴ ニューヨーク

Giuseppe Martucci (1856 - 1909)
Noveletta, Op. 82 no 2
• 演奏者 : • 指揮者 : Toscanini, Arturo• 楽団 : NBC Symphony Orchestra
作曲/編集場所: 1905, Italy
録音場所: 同上

Ottorino Respighi (1879 - 1936)
Pines of Rome
• 演奏者 : • 指揮者 : Toscanini, Arturo• 楽団 : New York Philharmonic
作曲/編集場所: 1923-1924, Rome, Italy
録音場所: 1945年1月13日 ライヴ ニューヨーク

Jean Sibelius (1865 - 1957)
Symphony no 2 in D major, Op. 43
• 演奏者 : • 指揮者 : Toscanini, Arturo• 楽団 : New York Philharmonic
作曲/編集場所: 1901-1902, Finland
録音場所: 1938年6月10日 ライヴ ロンドン

Paul Dukas (1865 - 1935)
Ariane et Barbe-bleue: Suite
• 演奏者 : • 指揮者 : Toscanini, Arturo• 楽団 : NBC Symphony Orchestra, NBC Symphony Chorus
作曲/編集場所: 1899-1906, France
録音場所: 1947年3月2日 ニューヨーク

Giuseppe Verdi (1813 - 1901)
Requiem Mass
• 演奏者 : Milanov, Zinka (Soprano), Castagna, Bruna (Mezzo Soprano), Bjorling, Jussi (Tenor), Moscona, Nicola (Bass)• 指揮者 : Toscanini, Arturo• 楽団 : NBC Symphony Orchestra, Westminster Choir
作曲/編集場所: 1874, Italy
録音場所: 1940年11月23日 ニューヨーク

Giuseppe Verdi (1813 - 1901)
Quattro pezzi sacri: Te Deum
• 演奏者 : Milanov, Zinka (Soprano), Castagna, Bruna (Mezzo Soprano), Bjorling, Jussi (Tenor), Moscona, Nicola (Bass)• 指揮者 : Toscanini, Arturo• 楽団 : NBC Symphony Orchestra, Westminster Choir
作曲/編集場所: 1895-1896, Italy
録音場所: 同上

Johannes Brahms (1833 - 1897)
Symphony no 1 in C minor, Op. 68
• 演奏者 : ・ 指揮者 : Toscanini, Arturo• 楽団 : NBC Symphony Orchestra
録音場所: 1937年12月25日 ライヴ ニューヨーク

Johannes Brahms (1833 - 1897)
Symphony no 2 in D major, Op. 73
• 演奏者 : • 指揮者 : Toscanini, Arturo• 楽団 : BBC Symphony Orchestra
録音場所: 1938年6月10日 ライヴ ニューヨーク

Johannes Brahms (1833 - 1897)
Concerto for Piano no 2 in B flat major, Op. 83
• 演奏者 : Horowitz, Vladimir (Piano)• 指揮者 : Toscanini, Arturo• 楽団 : NBC Symphony Orchestra
録音場所: 1940年5月9日 ライヴ ニューヨーク

Johannes Brahms (1833 - 1897)
Tragic Overture, Op. 81
• 演奏者 : Horowitz, Vladimir (Piano)• 指揮者 : Toscanini, Arturo• 楽団 : BBC Symphony Orchestra
録音場所: 1937年10月25日 ロンドン

Modest Mussorgsky (1839 - 1881)
Pictures at an exhibition
• 演奏者 : Horowitz, Vladimir (Piano)• 指揮者 : Toscanini, Arturo• 楽団 : NBC Symphony Orchestra
録音場所: 1938年1月29日 (ニューヨーク)

Peter Ilyich Tchaikovsky (1840 - 1893)
Symphony no 6 in B minor, Op. 74 "Pathetique"
• 演奏者 : • 指揮者 : Toscanini, Arturo• 楽団 : NBC Symphony Orchestra
録音場所: 1947年2月17日 (ニューヨーク)

Cesar Franck (1822 - 1890)
Symphony in D minor, M 48
• 演奏者 :・ 指揮者 : Toscanini, Arturo• 楽団 : NBC Symphony Orchestra
録音場所: 1946年3月24日 (ニューヨーク)

Sir Edward Elgar (1857 - 1934)
Variations on an Original Theme, Op. 36 "Enigma"
• 演奏者 : • 指揮者 : Toscanini, Arturo• 楽団 : BBC Symphony Orchestra
作曲/編集場所: 1898-1899, England
録音場所: 1935年6月3日 ライヴ ロンドン

日曜日, 3月 11, 2007

セル シベリウス2番

  いまから約37年前に東京でおこなわれたセル/クリーヴランド管弦楽団によるライヴ録音のCDである。この日、このコンサートを東京文化会館で聴いていた。その時の感動が正確に甦ってくる。セルがこの時に重篤な病気であったことはコンサート会場では知るよしもなかったし、70年大阪万博の記念コンサートが東京でも目白押しで、多くの注目は同時期に来日していたカラヤン/ベルリン・フィルに寄せられていた。セルはもちろん「著名中の著名」な指揮者ではあったが、それでもあまりに多くの巨匠の来日ラッシュのなか正直地味な印象はぬぐえなかった。  しかしその「魂魄の演奏」は、はじめての日本でのライヴで、私ならずとも聴衆の驚きは大きかった。セル/クリーヴランド管弦楽団の演奏は「冷たい」とか「クールな精密機械」といった評論家のイメージが強かったが、実際の演奏はそれとはまったく異質な熱気あふれるものであり、オケから紡ぎだされる音楽は「血のかよった暖かく表情豊かな音色ながら完全なアンサンブルはけっして乱れない」といったものだった。前半の「オベロン」序曲、モーツアルトの40番も素晴らしいものだったが、後半のシベリウスの2番は文字通り白熱の名演だった。当時、シベリウスはいまほど演奏される機会がなく、このプログラム・ビルディングでもクリーヴランド・サウンドに合う曲を選んだのかなと感じたが、のちにセルがこの曲をもっとも得意としていたことを知り十八番で勝負といった演目であったのだろう。   織工Ⅱでも書いたが、ハンガリアン・ファミリーのなかでも若き日から彗星のごとく登場したセルの晩年の集大成をこの日聴いたことを事後的に知ることになる。忘れえぬ思い出である。

金曜日, 2月 23, 2007

クーベリック ブルックナー第4番

 1979年11月の録音。3番とは逆に遅めのテンポでじっくりと熟成させるような演奏である。3番、4番とブルックナーを同じ指揮者とオケのコンビで聴いてきて、このオーケストラのもつブルックナー演奏への独特の思いや高い「プライド」に思いはいたる。しかもクーベリックは、ヨッフムの跡目をついで、オケの特質によく磨きをかけてきたと言えるだろう。以下、管弦楽団の情報を次に引用しよう( 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)。

バイエルン放送交響楽団(Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks)
 「ドイツミュンヘンを本拠として 活動しているバイエルン放送協会の専属オーケストラであり、戦後設立の比較的歴史の浅いオーケストラながらベルリン・フィルと並ぶ、ドイツを代表するオーケストラのひとつである。
第二次世界大戦終結直後からドイツ各地で放送オーケストラの設立ラッシュが始まり、各放送局が自前のオーケストラを持つようになったが、バイエルン地域の放送オーケストラの設立はそれらの放送オーケストラに遅れる事数年、1949年に ようやく設立の運びとなった。
初代首席指揮者は
オイゲン・ヨッフムに決まり、設立記念公演は同年7月13日に行われた。このコンサートにはリヒャルト・シュトラウスも招かれ、自作の歌劇「カプリッチョ」の一部を指揮している。シュトラウスはこの公演の2ヶ月後 に死去しており、この公演は彼の最後の指揮となった。 初の公開コンサートは同年9月29日、初の定期公演は1950年10月5日にいずれもヨッフムの指揮によって行われている。 ヨッフムの指導のもとバイエルン放送響は短期間の間に急成長を遂げ、ドイツを 代表するオーケストラという評価が定着する。 ヨッフムのレパートリーはドイツの古典派・ロマン派の作品が中心を占めていたが、 バイエルン放送響としては、1951年から「ムジカ・ヴィヴァ」という現代音楽 シリーズを開催、現代音楽の紹介という放送オーケストラらしい活動も怠る事はなかった。
1960年、ヨッフムはアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団に 転出、後任はチェコ出身のラファエル・クーベリックが襲名した。 クーベリックとのコンビは1978年まで続き、バイエルン放送響はマーラーやチェコの作品を積極的に採り上げるようになる。 このオーケストラの初来日が実現したのもクーベリック時代の1965年の事である。
クーベリックの後、数年間首席を置かない形での活動が続き、ようやく
1982年の秋からキリル・コンドラシンの首席就任が内定したものの、前年の1981年にコンドラシンが急逝した事により、1983年秋からコリン・デイヴィスが首席に就任する事になる。1980年代にはレナード・バーンスタインもバイエルン放送響にしばしば客演しており、このコンビでの録音もいくつか遺された。
デイヴィスの後、
1993年から2003年までロリン・マゼールが首席を務め、2003年の秋からマリス・ヤンソンスが首席の地位を守っている」。

◆クーベリック時代は以下のように語られる。
 「ラファエル・クーベリックは、18年間に渡って(1961~1979)、このオーケストラを指揮した。彼は、スメタナ、ヤナーチェク、ドヴォルザークなどスラヴ系作曲家の作品をプログラムに取り入れ、レパートリーの幅を広げた。また、ハルトマンなど20世紀の作曲家も大いに取り上げ、ドイツのオーケストラによる初のマーラー・ツィクルス(録音にも残されている)も実現させた。彼の、とっさの感情の動きに従って音楽にアプローチするスタイルは、全ての楽団員から尊重され、<クーベリック時代>は、バイエルン放送響の歴史の中で最も実り多い時代となった」(http://www.japanarts.co.jp/html/JA_world_artists/bayerischen.htm)。




クーベリック ブルックナー第3番


 いま聴いているのはクーベリックの1970年録音のブルックナー交響曲第3番。
 「HMV レビュー」からの転載では、「第3番は記録によれば、手兵バイエルンだけでも3種の録音が知られています。 まず、1962年11月8、9日のライヴ。これは前年1961年音楽監督就任後に、クーベリックがバイエルンと初めてこの曲を取り上げた記念すべきもの(未発売)。次いで今なお高い評価を獲得している1980年のスタジオ盤(SONY)。そして今回の1970年ライヴ。いずれにも共通する特徴としてはエーザー版を使用している点」。
 録音の記録は、ブルックナー:交響曲第3番ニ短調[第2稿] バイエルン放送SO録音:1970年1月30日ミュンヘン、レジデンス・ヘルクレスザール(ライヴ)となっている。
 エーザー版はノヴァーク第2版(N2)と同じであり、巷間言われるように余程のブルックナーマニアでない限り、個々のフレーズの違いに時折、はっとはするが全体としてはそう際だった異質感はないように思われる。
 ここではむしろ演奏スタイルの違いのほうが印象的である。テンポは全般にかなり早い。そのうえでアゴーギクは相当大胆に用いられる。ブラームスはブルックナーの音楽は買っていなかったがドヴォルザークの「メロディ創造力」は高く評価していたと言われるが、クーベリックの演奏を聴いているとブルックナーのメロディがドヴォルザークと二重写しで錯覚して聞こえるような気すらする。クーベリックの織りなすメロディは生気に満ち実に溌剌としている。個々のメロディに愛着をもって音楽を再現している姿が眼に浮かぶような演奏である。弦や管の各パートも、アド・リビトウム(自由度のあるテンポ)で情感たっぷりにメロディを奏でているように聞こえるが、それでいて全体のバランスや統一感はきりりとしている。こんなにも胸に迫るメロディが満載された曲だったのかと思う一方、弛緩された部分が一切ないのが不思議だ。これぞ音楽に熱い「血のかよった」クーベリック・スタイルなのかも知れない。

土曜日, 2月 17, 2007

クナッパーツブッシュ ブルックナー第5番


 これもジャケットが傷だらけの古い友人のようなCDです。1956年6月。ウイーン・フィルとの演奏(改訂版)。先に記した51年のベルリン・フィルとの8番との比較では、レーベルの違いももちろんありますが、この5年間で録音もオーケストラの質量もはるかに豊かに聴こえることに気づきます。
 ブルックナーの演奏では抑揚感というか、ダンスのステップを踏むような軽快さが心地よく気持ちを盛り上げてくれるスケルツオも楽しみの一つです。5番の第3楽章のモルト・ヴィヴァーチェは早いテンポのなか、畳み込むようなリズム感にあふれ、かつ特有の明るい和声が身上ですが、ここでクナッパーツブッシュ/ウイーン・フィルはなんとも見事な名人芸を披露してくれます。
 第4楽章はシャルクの手が大幅に入り、原典版に比して100小節以上のカットがあるといわれますが、峨々とした峡谷をいく流量の多い大河の流れにも似たクナッパーツブッシュの運行では、そうした割愛の不自然さをあまり意識させません。あるいは、自分がこの演奏に慣れすぎているせいかも知れませんが、これはこれで納得し良いと思ってしまいます。
そこも大家の腕かも知れません。聴き終わって実に充足感が味わえる1枚です。 

テンシュテット ドヴォルザーク第9番


「新世界」をかけるのはとても久しぶりの気がする。テンシュテットを聴きたくてなににするか暫し考え、手が伸びたのがこのCDだった。1984年3月14~15日ベルリンでの録音である。カラヤンが帝王としてベルリンに最も君臨していた時代にもかかわらず、テンシュテットは同時期に比較的多くの録音をベルリン・フィルと残している。ライヴェルの存在には人一倍厳しかったと言われるカラヤンがなぜそれを許容したのか、という疑問は残るが、東独出身でおそらくは自分とは全く違うタイプの演奏家であり、覇を競う相手とは考えていなかったのかも知れない。

 たしかにカラヤン/ベルリン・フィルとは少しく趣きのことなった「新世界」である。ベルリン・フィルはとても伸び伸びと演じているように聞こえる。テンシュテットらしくオケの自由度の幅をとり、全体に鷹揚とした構えながら、要所要所では鋭角的なリズミックさを強調しつつメロディの丹念な彫刻はキチンと行っていく。木訥とした泥臭さをどこか遠くに感じさせながら、ベルリン・フィルのアンサンブルは申し分ない。弦と木管が前面にでて、全体にしなやかな感じをだしている。聴いて飽きのこない佳演だと思う。

ジュリーニ ブルックナー第7番

















 ジュリーニのブルックナーは、テンポが遅い部分では少し味付けが濃厚に感じることもありますが決して嫌いではありません。後期3曲はいずれも細心の注意力をもって音楽を組み立てており、しかも高い集中力が持続する点で稀有な演奏といえると思います。
 7番(1986年6月ウィーン〈デジタル録音〉)を取り出してきました。これほど見事な演奏が千円で聴けるというのは申し訳ないような、(一方、新譜であるだけで、内容は本盤に比べてはるかに劣るにもかかわらず価格は3倍もするようなCDがあることを思うと)少しく変な気もします。
 第2楽章の静寂さの表現がとても深く感じます。孤独な心情、歩み寄る死への道程ではあっても、この遅い遅い楽曲に込められているものは、この世への絶望でもなければ、死への戦慄でもない。透明な空気のなかにほの明るく陽光がさしているような感じ。朝日ではなく黄昏の残映にせよ、それはあくまでも肯定的なものであることを確信させる・・・。ジュリーニの演奏からはそうした人生のもつ重みが伝わってきます。

クナッパーツブッシュ ブルックナー第8番



 
 
 
 
 
 
 表記はウイーン・フィル(1961年録音)とのジャケットですが、今日聴いているのは1951年1月7~8日にかけて録音されたベルリン・フィルとの演奏(1892年改訂版)です。ジャケットはひび割れCD自体もかなり痛んできてそろそろ買い換え時期にある1枚です。1963年のミュンヘン・フィルとのライヴ演奏があまりにも有名で、かつ録音時点も本盤は古いことから一般にはあまり注目されませんが、これも素晴らしい演奏です。
 クナッパーツブッシュの魅力は、うまく表現できませんが、独特の「節まわし」とでもいうべきところにあるのではないかと感じます。特に変調するときのリズムの刻み方などに彼特有のアクセントがあるような気がします。それがいまはあまり演奏されない「改訂版」の採択と相まって、通常の演奏とかなり異なった印象を醸す要因となっていると思います。
 ベルリン・フィルの演奏は今日の精密機械にも例えられる機能主義的ではなく、もっとプロ・ドイツ的な古式の響きを感じさせますが、しっかりと8番の「重さ」を受け止めて質感あるブルックナー像を浮かび上がらせています。

土曜日, 1月 20, 2007

新年、新たに続行します!

「織工」のブログを新年で新しくしました。shokkou3 です。引き続きよろしくお願いします。