金曜日, 4月 30, 2010

ベイヌム ブルックナー

 ベイヌムについては、その前任のメンゲルベルク(※1)との関係なくしては語れない。先代メンゲルベルクは、約半世紀の永きにわたって、コンセルトヘボウに君臨したのみならず、初代ウイレム・ケス(1854~1934年)の跡目を弱冠24才で継いだあと、実質の「ファウンダー」とでも言うべき功績を残した。彼が、コンセルトヘボウを鍛えぬき、オランダに名器コンセルトヘボウありと世に知らしめたのである。
 後任のベイヌムは、この先代の推戴で37才で、地元のコンセルトヘボウの首席指揮者になるのだから、非常に優秀で、かつ世俗的にはオランダでは大成功者であったと言えるだろう。しかし、先代の存在があまりに巨大であったので、彼自身の評価は結果的に地味な感を否めない。
 また、指揮者としては働き盛りの57才での早世、後任が同じオランダ出身の俊英、話題性のある若きハイティンクであったことから、ベイヌム時代は「中継ぎ」のような印象があり、余計に地味に映ってしまう。さらに、最盛期の録音時期が、モノラル時代の最後に重なっており、その後の怒濤のステレオ時代の「エアポケット」になってしまったことも、その見事な演奏を広く知らしめるには不利であった。
 加えて、ブルックナーに関しては、ハイティンクの「後見人」的に、ヨッフムがコンセルトヘボウを指導したが、彼は既にブルックナーの最高権威であり、また、ハイティンクもブルックナーを熱心に取り上げたことから、結果的に、ベイヌムの業績を目立たなくしてしまったように思う。

 既に幾度も指摘をしてきたが、マーラーと親交があり、それを積極的に取り上げたメンゲルベルクは、ブルックナーについてはあまり関心がなかったようだ。しかし、ベイヌムはそのデビューがブルックナーの8番のシンフォニーであったことが象徴的だが、ブルックナーも進んで演奏している。そして、その記録はいま聴いても、ヨッフム、ハイティンクとも異なり、けっしてその輝きを失っていない。
http://shokkou.spaces.live.com/blog/cns!9E9FE7463122BF4E!415.entry?&_c02_owner=1

 ぼくは、コンセルトヘボウの幾分くすんだ、ヴァイオリンから低弦まで美しく見事にハーモナイズされた弦楽器群のサウンドが好きで、その「テイスト」はブルックナーに良く合うと思う。また、オランダは、オルガン演奏も熱心で先進国であるようだが、このホール専属オケ自体がオルガン的な響きを有しているようにも思う。だからと言うわけではないが、コンセルトヘボウ奏でるブルックナーは、いまや誰が振っても一定のレベルにはいくのではないかとさえ感じる。
 しかし、ベイヌムの弦楽器、木管楽器、管楽器の「鼎」のバランスはなんとも絶妙で、かつ、そのテンポの軽快感とオーケストラの自主性を重んじるような自然の運行あればこそ、ベイヌム独自の魅力的なブルックナー像を啓示してくれていると思う。

※1:メンゲルベルク(1871~1951年)は、ドイツ系のオランダの指揮者。生地ユトレヒト音楽学校とケルン音楽院に学び,1892年ルツェルン管弦楽団の指揮者となる。1895年,創立まもないアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の常任指揮者に就任。マーラー、R.シュトラウスなどでも定評のある演奏を残した。
http://kotobank.jp/word/%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF

※2:エドゥアルト・ファン・ベイヌム (Eduard van Beinum, 1901年9月3日 - 1959年4月13日) はオランダ指揮者
 オランダ東部の町アルンヘム生まれ。ヴァイオリンピアノを学び、16歳でアルンヘム管弦楽団のヴァイオリニストとして入団。翌年にはアムステルダム音楽院に入学し、ピアノ、ヴィオラ作曲を学ぶ。
1920年にはまずピアニストとしてデビューしたが、まもなく指揮者に転向した。1927年に指揮者としてデビューし、同時期にハールレム交響楽団の音楽監督に就任。1929年6月に、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団へのデビューが大成功を収め、1931年ピエール・モントゥーの推薦とウィレム・メンゲルベルクの招きで同楽団の次席指揮者となった後、1938年からはメンゲルベルクとともに首席指揮者として活躍した。
 戦後の1945年、メンゲルベルクがナチスへの協力の廉でスイスに追放されると、ベイヌムはメンゲルベルクの後をついで、コンセルトヘボウ管弦楽団の音楽監督兼終身指揮者に就任した。またコンセルトヘボウ管弦楽団とのロンドン公演が大成功を収め、1949年から1951年にかけてロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任。1954年にはフィラデルフィア管弦楽団を指揮してアメリカへのデビューを果たして大成功を収めている。1956年から1958年にかけて、ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者として迎えられた。
 しかしベイヌムは元来病気がちで、晩年には心臓疾患を患っていたが、1959年4月13日に、アムステルダムでブラームス交響曲第1番のリハーサルを行っていた最中に心臓発作で倒れ、57歳の若さで急逝した。
バッハからドビュッシーバルトークやオランダの現代音楽に至るまで幅広いレパートリーを誇っていたが、とりわけ古典派・ロマン派音楽の演奏には定評があった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用

火曜日, 4月 27, 2010

ベーム ブルックナー8番


 ベームについてはさまざまな評価がある。1970年代後半、ベームの来日は大変な歓迎ぶりであり、ベームも日本公演を大いに楽しみにしていたという。しかし、鬼籍に入ってから、辛辣な評者は、ベームは没個性で、歴史的に残るような指揮者ではないといったシビアな口吻も目立つようになった。
 ぼくは、中学生の時、LPでブラームスの1番(ベルリン・フィル)を聴いて以来、かわらずその音楽の「構築力」に敬服している。目立たないけれど実は凄い指揮者。その経歴も指揮者としてのトラック・レコードも申し分ない。そして、ブルックナー演奏についても折々に聴き、書いてきた。

http://shokkou.spaces.live.com/blog/cns!9E9FE7463122BF4E!941.entry?&_c02_owner=1

 今日はブルックナー8番を聴く。やはり「構築力」という言葉にいきつく。堅牢な音楽、しかし、そこにはもちろん強い情熱も情感もある。
 緩さがない、生真面目だ、面白みに乏しい、といった批判はあっても、その手堅い構築力は誰しも認めるところ。ブルックナーでは、それが大きな武器である。上記の3,4,7番でも書いたが、ベームのブルックナーの重心の低い安定力は、バラツキのない、失敗しない一種の模範的な演奏スタイルとも言えると思う。それに、晩年のカラヤンのように、音を磨きすぎず、程良い無骨さも悪くない。

(メモ)
1975年ウィーン・フィルハーモニーの日本公演。ここで集中的にベームを聴いた。

3月17日:NHKホール
ベートーヴェン/レオノーレ第3番
ストラヴィンスキー/火の鳥、組曲
ブラームス/交響曲第1番

3月20日:NHKホール
ベートーヴェン/交響曲第4番
ベートーヴェン/交響曲第7番

3月25日:NHKホール
モーツァルト/交響曲第41番
JシュトラウスⅡ/南国のばら
JシュトラウスⅡ/アンネン・ポルカ
JシュトラウスⅡ/皇帝円舞曲
JシュトラウスⅡ/常動曲
JシュトラウスⅡ&ヨゼフ・シュトラウス/ピッツィカート・ポルカ
JシュトラウスⅡ/こうもり、序曲

(出典)http://www003.upp.so-net.ne.jp/orch/page034.html

土曜日, 4月 24, 2010

バーンスタイン マーラー9番

 バーンスタインのマーラー。手兵ニューヨーク・フィル他との「旧盤」全集をぼくは推奨するが、話題性で欠くことができないのが本盤。録音時期は1979年10月4~5日、カラヤン「王国」ではじめてベルリン・フィルを振ってのライヴ録音、その希少性にまずは注目。また、同時期(1979~80年)、カラヤン/ベルリン・フィルは満を持して、周到なスタジオ録音を行ったことで、後世、マーラーでの「両巨頭のベルリン激突」としてつとに有名となる。  さらに、カラヤンは1982年9月に同曲、同オケのライヴでデジタル再録。これでライヴでの両雄の比較も可能となった。加えて、バーンスタインは、これに先だってウイーン・フィルとの録音(1971年)もあり、彼は同曲で「世界3大オケ」を制覇したことになる。
 
 演奏は、基本的にニューヨーク・フィル(1965年)と共通し、激烈なパッションの迸る、感情移入の振幅の大きな演奏だが、そのダイナミクスでは1965年盤に軍配、オーケストラとの相性では1971年盤が優れている。
 蛇足ながら、カラヤンの濃密かつ耽美の極みのマーラー像も凄みがあり、バーンスタインとは対極の演奏とも言える。穿った見方だが、もしかすると、これは両巨匠の仕組まれた粋な共存かなとも思う。そんな想像も楽しめるメモリアルである。
http://www.amazon.co.jp/Mahler-Complete-Symphonies-Box-Set/dp/B001TIQT98/ref=cm_cr-mr-title

火曜日, 4月 20, 2010

ブルックナー 雑感

 出勤途上で交響曲3番を聴いていた。クーベリックの演奏。ふと、こんなことを考える・・・

 この曲は生々しくもブルックナーが自分の個性に目覚め、それを世にぶつけたセンセーショナルな作品だ(その試みは当初、無惨に打ち砕かれるが)。
 破壊と創造の交互の繰り返し、エネルギーの蓄積と放出の全過程、知覚的なものと啓示的なものの共存、自己を確立せんとする精神の葛藤・・・。いろんなものが<混在>しており、しかし、音楽的には構築力にとことん拘り、<整合性>を大切にするーある種の<矛盾>。

 これは結果的にマーラー以降の交響曲の「作風」に大きな影響を与えた。だからこそ、上記の叙述はマーラーにも新ウイーン学派にも共通するような部分があるのだろう。しかし、これは作曲の「方法論」としてではない。ブルックナーはまったく自然に、そうした営為に集中している。だからこそ、何を書いても(技術的な向上はあるにせよ)、ある意味では、同じ音楽の変奏でしかない。生涯にわたって未完のひとつの巨大な変奏曲を書いた。しかし、その変奏曲には折々に、親しいフォークロア(そう、バルトークが生涯こだわったような!)が挿入され、我慢と忍耐ののち壮大なコーダが登場する。特に、コーダに向かうとき、ブルックナーの神経は全集中し、前人未踏な管弦楽のスケールの大きさを示す。それは音量の問題ではなく、構えの大きさとでも言えようか。晴天の日、とてつもなく壮大な門を足下から見上げるような感じがある。

・・・ぼけっと、そんなことを考えていると電車に乗り遅れるぞ!

火曜日, 4月 13, 2010

カラヤン エクセレンス!

 












晩年、カラヤンはベルリン・フィルと決別して、ウィーン・フィルに回帰した。ブルックナーの第7,8番などを残したが、ぼくは残念ながら、いまひとつ乗れない。しかし、下記の壮年期の演奏は別である。これは、驚くべき記録であり、その音楽の<純度>、爽快な<迫力>には得難い魅力がある。
 
帝王カラヤンのもっとも充実した時期の記録であり、ウィーン・フィルは、このカリスマとの邂逅に、持てる力を出し切っている。それに遡ってのエンジェル・レーベルのフィルハーモニー管弦楽団との演奏は一世を風靡した。録音の良さもあって販売は好調だった。そのモメンタムはウィーン・フィルにもあったろう。帝王カラヤンとの共演は、なにより世界に売れる得難い価値がある。選曲もよし、カラヤン・ライヴラリーでもこれを超える演奏は稀、1960~70年代のベルリン・フィルと双璧といった充実ぶりである。短く濃厚で緊張感があった時代ゆえかも・・・。その後のベルリン・フィルとの関係が<結婚>だったとすれば、5年ー束の間のウィーン・フィルとの関係は熱き<恋愛>関係にも似たり、とでもいえようか。 

<以下は全てHMVからの引用>
 CD 1
 ・ブラームス:交響曲第1番ハ短調作品68 (1960年) 
・ハイドン:交響曲第103番変ホ長調『太鼓連打』 (1963年) 
 →カラヤンといえばベルリン・フィルが最も結びつきが強いオーケストラですが、名門ウィーン・フィルとも生涯深い関係を築きました。しかし、1950年代から60年代にかけて、そのウィーン・フィルはイギリス・デッカの専属であったため、カラヤンはこの愛すべきオーケストラとの録音をドイツ・グラモフォンではなく、イギリス・デッカと行いました。結果残されたものは、どれもが名盤と呼ぶにふさわしいもので、LP発売以来、長らくファンに愛され続けてきました。 

 CD 2 
・ハイドン:交響曲第104番ニ長調『ロンドン』 (1960年) 
・ブラームス:悲劇的序曲作品81 (1962年) 
・ブラームス:交響曲第3番ヘ長調作品90 (1962年)

 CD 3 
・モーツァルト:交響曲第40番ト短調K550 (1960年) 
・モーツァルト:交響曲第41番ハ長調K551『ジュピター』 (1963年)
 ・チャイコフスキー:幻想序曲『ロミオとジュリエット』 (1961年) 

 CD 4 
・ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調作品92 (1960年) 
・ドヴォルザーク:交響曲第8番ト長調作品88 (1965年) 
 →ベートーヴェンは、デッカとの最初期の録音。ウィーン・フィルと最初にして最後の来日を果たす直前のもので、若きカルショーが録音を担当している。51歳のカラヤンによる生気に満ちた勢いのある演奏が味わえる。(CDジャーナル データベースより) 

 CD 5 
・チャイコフスキー:『白鳥の湖』組曲(1965年)
 ・チャイコフスキー:『胡桃割り人形』組曲 (1962年) 
・チャイコフスキー:『眠れる森の美女』組曲 (1965年) 

 CD 6 
・アダン:『ジゼル』 (1962年)

 CD 7 
・グリーグ:『ペール・ギュント』作品23より (1962年) 
・ホルスト:組曲『惑星』作品32 (1962年) 
 →この大曲を現在のメジャーな地位に押し上げた名盤。早くから最新の録音技術に関心を向けていたカラヤンならではの、挑戦的録音です。演奏の方も、どんどん前のめって行くような切迫感がもの凄く、当時のDeccaらしいギラギラとしたサウンドもあいまって、音の一大スペクタクルを形作っています。 

CD 8 
 ・J.シュトラウス2世:喜歌劇『こうもり』序曲 
・J.シュトラウス2世:喜歌劇『こうもり』よりバレエ音楽 
・J.シュトラウス2世:『アンネン・ポルカ』作品117 
・J.シュトラウス2世:喜歌劇『ジプシー男爵』より序曲 
・J.シュトラウス2世:『狩にて』作品373 
・J.シュトラウス2世:『ウィーンの森の物語』作品325 
・ヨーゼフ・シュトラウス:ワルツ『うわごと』作品212 (以上1960年) 
・R.シュトラウス:『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』作品28 (1961年) 
・R.シュトラウス:『サロメ』より7つのヴェールの踊り(1961年)
 →カラヤンがデッカと契約して録音した最初期のもののひとつ。古き良き時代のウィーン・フィルの“色”がまだ十分に残っていたころで、彼らにしか出せないウィンナ・ワルツの雰囲気とカラヤン美学が融合した美演となっている。(CDジャーナル データベースより) 

 CD 9 
・R.シュトラウス:交響詩『ドン・ファン』作品20 (1961年) 
・R.シュトラウス:交響詩『死と変容』作品24 (1961年) 
・R.シュトラウス:交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』作品30 (1959年)

木曜日, 4月 08, 2010

ブルックナー vs フルトヴェングラー 交響曲第9番

・交響曲第9番 ベルリン・フィル(1944年10月7日)

録音:1944年10月7日、ベルリン(放送用録音、モノラル)http://www.hmv.co.jp/product/detail/1422264

 ブルックナーは、本人の思想とかかわりなく、のちにナチス、ヒットラーの寵愛をうけることになる。ヒトラーがワーグナーとともにブルックナーを好んだことは有名で、リンツはブルックナーの聖地として、そのオーケストラは「帝国」の冠をかざすことになる。そうした、生臭いナチスとブルックナーの関係は、フルトヴェングラーの活動にとっても大きな影を落とすことになる。フルトヴェングラーにとって、ワーグナーやブルックナーを演奏することは、本人の心象風景とは全く別に、ナチスとの関係では一種の音楽による「貢献」活動であったかも知れない。
 1944年10月。すでにドイツの敗色は誰の目からみても明らかになっており、未遂に終わったが、ヒトラー暗殺計画があったのが7月である。フルトヴェングラーはどういう気持ちでブルテに上がり、ブルックナーの最後の交響曲を演奏したことだろう。
 普通、そうしたことは音楽と関係して語るべきではないのかも知れない。しかし、フルトヴェングラーが本当に嫌っていたカラヤンは同じベルリンでこの年の9月、交響曲第8番の史上初のステレオ録音を行っていた(下記、Tuesday, March 30, 2010 「ブルックナーvsカラヤン 交響曲第8番(1944年)」を参照)。
 フルトヴェングラーによるブルックナー9番ー現状知られるこの唯一の演奏を聴いていると、霞がかった録音とともに、どうしてもそうした時代性を感じてしまう。第1楽章の乾いた無音階的な響き、続く魂を鷲づかみするような異様な深みあるフレーズ、第3楽章最後の消えゆく最後の金管の独奏は、一呼吸の限界まで引き摺る意図的、示唆的な処理。演奏評以前に、これは何を意味しているのか?を否応なく考えさせる音楽である。

ブルックナー vs ホルスト・シュタイン

シュタイン&VPO / ブルックナー:交響曲第2番、他
・ブルックナー:交響曲第2番ハ短調(ハース版)
・ウェーバー:『オイリアンテ』序曲・ウェーバー / ベルリオーズ編:舞踏への勧誘 
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 ホルスト・シュタイン(指揮)

 ホルスト・シュタインは1986ー87年のドイツ滞在中、2回のビッグ・プロを聴いている。夏にバイロイト音楽祭でマイスタージンガーを、冬にハンブルクの教会でドイツ・レエクイエムを聴いた。どちらも優れた演奏だった。さて、ブルックナーだが、いま2番を聴いている。なかなか良い演奏である!じっくりと味わってみたい。

(参考)以下は引用
ホルスト・シュタインさん逝去
 2008年7月30日 (水) ドイツの指揮者で、NHK交響楽団名誉指揮者としても知られたホルスト・シュタインさんがお亡くなりになりました。N響に入った連絡によると27日、スイス・ジュネーブの自宅で死去されたとのことです。ご冥福をお祈り申し上げます。ホルスト・シュタイン(Horst Stein)は1928年5月2日、大指揮者ハンス・クナッパーツブッシュの故郷として知られるラインラント地方の都市エルバーフェルト(現在はヴッパータール市の一部)に生まれました。フランクフルト・アム・マインの音楽ギムナジウムとケルン高等音楽院で音楽教育を受けますが、ケルン高等音楽院ではこちらも同郷の名指揮者ギュンター・ヴァントに師事しています。 1949年にヴッパタール市立劇場の合唱指揮者に就任してキャリアをスタート、1951年にハンブルク国立歌劇場指揮者となって活動を本格化させる一方、1952年から1955年にかけてはバイロイト音楽祭で、ハンス・クナッパーツブッシュ、ヨーゼフ・カイルベルトヘルベルト・フォン・カラヤンなどのアシスタントを務めて経験を深め、自身も1962年に『パルジファル』を指揮してバイロイト・デビューを果たします。 ベルリン国立歌劇場の楽長を経て1963年にマンハイム国立劇場音楽監督に就任(1970年まで)。1970年から3年間はウィーン国立歌劇場第1指揮者を務めるなど、叩き上げのオペラ指揮者として重厚な実績を残します。 ウィーン国立歌劇場にポストを得た1970年には、バイロイト音楽祭でワーグナーの『ニーベルングの指環』全曲を指揮して絶賛され、ワーグナー・オペラのスペシャリストとしての名声を確立しています。 1972~77年にはハンブルク国立歌劇場音楽総監督を務めますが、以降はコンサート指揮者としての活躍に重心を移し、1980年からスイス・ロマンド管弦楽団の音楽監督を5年間務めた後、1985年にバンベルク交響楽団の首席指揮者に就任、その名コンビぶりは来日公演やレコーディングを通じて日本でもよく知られるところとなりました。 1985~89年にはザルツブルク音楽祭に出演、ベルリン・フィル、ウィーン・フィルなどヨーロッパの主要オーケストラに客演、バンベルク響とは世界各地へコンサート・ツアーをおこなっています。 日本へは1973年にNHK交響楽団への客演で初来日、2年後の再登場時には名誉指揮者の称号を贈られるなどN響との結びつきはきわめて深く、以後1999年まで定期的に客演を重ねました。 1996年、病気のためバンベルク交響楽団の首席指揮者を辞任、終身名誉指揮者の称号を贈られて活動を続けますが、1999年の「プラハの春」音楽祭出演中に倒れ、以降は活動休止状態となったまま、2008年7月27日、スイスの自宅で亡くなられました。80歳でした。ご冥福をお祈り申し上げます。
http://www.hmv.co.jp/news/article/807300046/ 

月曜日, 4月 05, 2010

ブルックナー vs カラヤン

 フルトヴェングラーは、ベルリン・フィル、ゲヴァントハウスの2大オケで大御所ニキシュの後任として、ブルックネリアーナ指揮者の名声を継いだ。クナッパーツブッシュの「先生」はかのハンス・リヒターであり、これも正統な伝承者たる資格があった。さて、カラヤンは・・・
フランツ・シャルクの演奏を学生時代よく聴いたようだが、なんら弟子ではなかった。

 カラヤンのブルックナー解釈は、さまざまな先人の内容を意欲的に吸収しつつも、カラヤンが若き日からスコアを読み尽くし、自分自身で築いたものであったと言えるかも知れない。そして、ブルックナー改訂で名をとどめたハースは、カラヤンの演奏を聴いて、彼の校閲の見方からこれを高く評価した。カラヤンにとっては、泰斗ハースの援軍は大きな自信に繋がっただろう。

 カラヤンは下記のブログにもしるしたとおり、ブルックナーの交響曲第8番を得意中の得意の演目としていた。戦前から一貫して8番こそ、カラヤンの金看板だった。それについで、9番、7番、5番をよく取り上げたが、録音は9番(日本でのレコード芸術推薦盤1967年)、4番、7番(同1971年)がはやく世評も高かった。しかし、この録音も、カラヤンの本来の意思からはけっして早くはない。
 何故かと言えば、当時ドイツグラモフォンは、ブルックナーではヨッフムの名盤(いまもその価値は変わらない)があったし、なによりブルックナーのレコードは全く売れなかったようだ。後に、カラヤンが意欲的に全集を出した頃は、ブルックナー受容が進むとともに、「カラヤンの名前」で十分に売れるようになってからであったと言う。

土曜日, 4月 03, 2010

織工から


 先週はちょっと驚くことがあった。Amazonで演奏評やリストマニアを書いている「織工」のレビュアーランキングの計上方法がかわり突然、「ベストレビュアー1000」に入っていた。もちろん分限はわきまえており、永続きするものではないので、得難い<記録>としてとどめておきたい。
 ブルックナーの演奏評を中心に、あとは組み物のCDあたりのみを扱っている<地味中の地味>のレビューなのだが、「好事家多し!」と言い換えて、インターネットの世界は広く深いなあと実感した次第である。
https://www.amazon.co.jp/gp/pdp/profile/A185EQOC8GHUCG

 一方、「ブルックナー・ブログ」ではフルトヴェングラーについての自分の演奏評を整理してみた。よって、先週は深夜までフルトヴェングラーばかり聴いていた。これは相当エネルギーをつかう作業であり、一定の集中力を要し、聴き終わったあとは満足感とともに疲労感が残る。フルトヴェングラーついては、<ながら>族では聞けないなといつも思う・・・。
http://shokkou.spaces.live.com/default.aspx?&_c02_owner=1&wa=wsignin1.0

 この「ブルックナー・ブログ」では、フルトヴェングラー関連で、以下のカテゴリー別に次のような記事をランダムに書いてきた。

【名指揮者】
ブルックナー//メモランダムⅢ②ーカラヤンとフルトヴェングラー
http://shokkou.spaces.live.com/blog/cns!9E9FE7463122BF4E!1181.entry?&_c02_owner=1
ブルックナー/メモランダムⅣ⑥ーW.フルトヴェングラー(3)
http://shokkou.spaces.live.com/blog/cns!9E9FE7463122BF4E!412.entry?&_c02_owner=1
ブルックナー/メモランダムⅣ⑤ーW.フルトヴェングラー(2)
http://shokkou.spaces.live.com/blog/cns!9E9FE7463122BF4E!409.entry?&_c02_owner=1
ブルックナー/メモランダムⅣ④ーW.フルトヴェングラー(1)
http://shokkou.spaces.live.com/blog/cns!9E9FE7463122BF4E!407.entry?&_c02_owner=1
ブルックナー/メモランダムⅣ③ー ウイーンフィル(3)
http://shokkou.spaces.live.com/blog/cns!9E9FE7463122BF4E!396.entry?&_c02_owner=1
ブルックナー/ミニ・コラム⑤ーブルックネリアーナ指揮者
http://shokkou.spaces.live.com/blog/cns!9E9FE7463122BF4E!251.entry?&_c02_owner=1

【本・論考・インタビュー】
ブルックナー//メモランダムⅣ⑨ー雑誌「音楽現代」
http://shokkou.spaces.live.com/blog/cns!9E9FE7463122BF4E!1266.entry?&_c02_owner=1
ブルックナー/メモランダム⑤の4ーW.フルトヴェングラーの論考
http://shokkou.spaces.live.com/blog/cns!9E9FE7463122BF4E!170.entry?&_c02_owner=1

【好きな演奏】
ブルックナーNO.5
http://shokkou.spaces.live.com/blog/cns!9E9FE7463122BF4E!128.entry?&_c02_owner=1

【魅力の源泉】
http://shokkou.spaces.live.com/blog/cns!9E9FE7463122BF4E!982.entry?&_c02_owner=1

 また、この「織工Ⅲ」では、「ブルックナー・ブログ」では省略した外部意見も、一部番数について下記にしるした。なお、織工Ⅲの前シリーズである「織工Ⅱ」でも折々で、断片的な拙文を載せている。
http://freizeit-jiyuu.blogspot.com/2006/07/blog-post_115308406144324610.html

金曜日, 4月 02, 2010

ブルックナー vs フルトヴェングラー 交響曲第7番

交響曲 第7番 ホ長調(改訂版) ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮) 録音:1949年10月18日、ベルリン・ダーレム、ゲマインデハウス

 ブルックナーの後期3交響曲は、その楽想の共通性も強いが、各楽章の「構成」にこそ特色がある。特に、7番は前半に頂点があり、第1楽章の終結部は強く締めくくられ、第2楽章の有名はアダージョのあと、第3楽章はワーグナー的な躍動感にあふれ、終楽章はブルックナーの他の交響曲のフィナーレに比べて軽量、快活そしてなにより短い。8番は逆に圧倒的な重量感のある第4楽章にむけて、高い山を登攀していくような感じであり、第3楽章までには一定の忍耐がいる。未完の9番は、よりベートーヴェンの9番を意識して書かれているように思うが第4楽章を欠いているので、作曲家の最終的な意図は闇の中である(もっとも、作曲家が希望したテ・デウムに代替すれば、ベートーヴェン同様、「合唱」が付加される)。

 フルトヴェングラーの7番を聴く。第1楽章の再現部からコーダへの盛り上げ方は圧倒的でこの楽章だけで完結感、充足感が強い。アダージョの沈潜もフルトヴェングラーらしく深い味わいを湛えている。第3楽章はワーグナーのワルキューレの騎行を連想させる。振幅があり実にスケールの大きい構えである。第4楽章は一転、速度を早め軽快に締めくくる。全般に堂々とした演奏であり、この時点(1949年)での指揮者(そしてリスナー)へ強烈な示唆を与える規準盤であったろう。