ぼくが良くみるブルックナー関係の海外サイトを紹介しよう。まずは、マニアのHPから・・・
1.Alex Zhang's Immortal Bruckner Pageがある。
http://www.geocities.com/immortalbruckner/main.html
たとえば、彼の「伝記」について、このサイトの要約は簡潔で見やすい。指揮者の紹介も悪くない。フルトヴェングラー、カラヤン、ヨッフム、ティントナー、ヴァントの5名が挙げられている。ティントナーについては取り上げられることが少ないから好事家には一見の価値があるだろう。また、各曲ごとの演奏評もあり、操作性の良いHPである。
稿の問題はじめ、もう少し突っ込んだコメントがあるのが、
2.Anton Bruckner Website Maintained by David Griegelである。
このサイトは2005年までで更新がとまっているのが残念だが、1999年から2005年まで Bruckner Marathonと称してさまざまな演奏評を掲載している。日本ではあまり話題にならないものも丹念に聴いていて時折に参考になる。ここからのリンクで、いまも生きているのは、以下のとおり。
3.Classical Net Bruckner page
http://www.classical.net/music/comp.lst/bruckner.php
4.Guillem Calaforra's Bruckner page
http://www.uv.es/~calaforr/brucknerians.html
5.Paul Geffen's Bruckner page
http://www.trovar.com/bruckner.html
6.José Marques' Bruckner page
http://www.unicamp.br/~jmarques/mus/bruckner-e.htm
かわったところではリンツのブルックナーハウスやブルックナーオーケストラの演目リストも刺激になる。「本場」での動向のフォローができる。
7.Bruchner Haus、Orchster
http://www.brucknerhaus.linz.at/www1/de/index.php?kind=12&lng=ger
http://www.bruckner-orchester.at/3256_DE
また、研究誌では、ブルックナー・ジャーナルもでている。ここではさまざまな研究動向を知ることができる。
(以下は引用)
The Bruckner Journal is a publication for all enthusiasts and devotees of Anton Bruckner and his music. It aims to be of interest to musicians, scholars, amateurs and lay enthusiasts, in fact to all lovers of the extraordinary music of Anton Bruckner, whatever their level of knowledge and expertise.
8.Bruckner Journal
http://www.brucknerjournal.co.uk/index.html
土曜日, 8月 22, 2009
火曜日, 8月 11, 2009
ルービンシュタイン ショパン集
中学生だった40数年前にはじめて買ったLPが、ルービンシュタイン奏でるショパンのポロネーズ集、とても高価な、そして贅沢な演奏の1枚だった。また、ホロビッツが演奏を再開、大津波のような衝撃が日本にも走ったり、ミケランジェリの稀少なライヴがFMで流れて好事家のあいだで演奏評が沸騰したりと、その時代、いわゆる大家(ヴィルトオーソ)の演奏には、いまでは考えられないくらいの話題性があった。
しかし、ポリーニ、アルゲリッチはじめ、その後の輝かしい若手の台頭によって、また、日進月歩の録音技術の向上もあって、こうした大家の演奏はしばしお蔵入りとなった。
近年、ショパンに関しても、ルービンシュタインに限らずフランソワなど、リヴァイバル盤がふたたび注目されている。その理由は、本全集を聴き直してみて、改めてその薫りたつような品位にあると感じる。真似のできないこの時代特有の演奏家の品位と作曲家に対する熱情が、本全集の底流にも溢れている。演奏技術の高度化では「後世恐るべし」だが、落ち着いて、演奏家の深い解釈にじっくりと耳を傾けるなら、本全集の価値はいまも決して減じてはいない。なにより、これが「全身全霊の1枚」といった極度の集中力が演奏家にも録音技師にも、強くあった時代だからかも知れない。
(参考)
アルトゥール・ルービンシュタイン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
前半生はヨーロッパで、後半生はアメリカ合衆国で活躍した。ショパンの専門家として有名だが、ブラームスやスペインのピアノ音楽も得意とした。20世紀の代表的なピアニストの1人である。
ウッチのユダヤ人の家庭に生まれる。ワルシャワで勉強し、ベルリンでカール・バルトに師事する。ヨーゼフ・ヨアヒムにブラームスのピアノ協奏曲第1番の演奏を聴いてもらい、その解釈を激賞される。1898年にベルリンでヨアヒム指揮の下、モーツァルトのピアノ協奏曲第23番を演奏しデビュー。1904年にパリに行き、フランス人作曲家のサン=サーンスやポール・デュカス、ラヴェルらや、ヴァイオリニストのジャック・ティボーと面会する。アントン・ルービンシュタイン国際ピアノコンクールで優勝するが、ユダヤ人だったために審査員や聴衆から人種差別を受けたと後に語っている。
1906年にニューヨークのカーネギー・ホールで行なったリサイタルは聴衆に支持されたようだが、評論家から批判が相次いだため4年間、演奏活動を中止して自らの技巧・表現に磨きをかけた。その後アメリカ合衆国やオーストリア、イタリア、ロシア、スペインで演奏旅行を行なった。特にスペインでは聴衆の圧倒的支持を受け、多数の追加公演を行った。1912年にはロンドンデビューを果たす。
第一次世界大戦中は主にロンドンに暮らし、ウジェーヌ・イザイの伴奏者を務めた。1916年から1917年まで、スペインや南米を旅行し、同時代のスペインの作曲家に熱狂して多くの新作を初演する。1932年にしばらく演奏生活から隠退して、数年のあいだ演奏技巧やレパートリーの改善に取り組んだ。この年に指揮者エミル・ムリナルスキの娘アニエラと結婚し、4人の子供をもうけた。娘エヴァは神学者・聖職者・反戦運動家のウィリアム・スローン・コフィン師と結婚し、息子ジョンは俳優となった。第二次世界大戦中はアメリカ合衆国に暮らし、1946年に米国籍を取得。
1960年ショパン国際ピアノコンクールの審査委員長を務めた。このときの優勝者がマウリツィオ・ポリーニであり、ルービンシュタインのコメント「我々の誰よりも上手い」により大変有名となった。1976年、眼の中央に黒点が見える奇病「飛蚊症」が原因による視力低下により引退。引退後、自伝「華麗なる旋律」を執筆。1982年、ジュネーブで死去。
しかし、ポリーニ、アルゲリッチはじめ、その後の輝かしい若手の台頭によって、また、日進月歩の録音技術の向上もあって、こうした大家の演奏はしばしお蔵入りとなった。
近年、ショパンに関しても、ルービンシュタインに限らずフランソワなど、リヴァイバル盤がふたたび注目されている。その理由は、本全集を聴き直してみて、改めてその薫りたつような品位にあると感じる。真似のできないこの時代特有の演奏家の品位と作曲家に対する熱情が、本全集の底流にも溢れている。演奏技術の高度化では「後世恐るべし」だが、落ち着いて、演奏家の深い解釈にじっくりと耳を傾けるなら、本全集の価値はいまも決して減じてはいない。なにより、これが「全身全霊の1枚」といった極度の集中力が演奏家にも録音技師にも、強くあった時代だからかも知れない。
(参考)
アルトゥール・ルービンシュタイン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
前半生はヨーロッパで、後半生はアメリカ合衆国で活躍した。ショパンの専門家として有名だが、ブラームスやスペインのピアノ音楽も得意とした。20世紀の代表的なピアニストの1人である。
ウッチのユダヤ人の家庭に生まれる。ワルシャワで勉強し、ベルリンでカール・バルトに師事する。ヨーゼフ・ヨアヒムにブラームスのピアノ協奏曲第1番の演奏を聴いてもらい、その解釈を激賞される。1898年にベルリンでヨアヒム指揮の下、モーツァルトのピアノ協奏曲第23番を演奏しデビュー。1904年にパリに行き、フランス人作曲家のサン=サーンスやポール・デュカス、ラヴェルらや、ヴァイオリニストのジャック・ティボーと面会する。アントン・ルービンシュタイン国際ピアノコンクールで優勝するが、ユダヤ人だったために審査員や聴衆から人種差別を受けたと後に語っている。
1906年にニューヨークのカーネギー・ホールで行なったリサイタルは聴衆に支持されたようだが、評論家から批判が相次いだため4年間、演奏活動を中止して自らの技巧・表現に磨きをかけた。その後アメリカ合衆国やオーストリア、イタリア、ロシア、スペインで演奏旅行を行なった。特にスペインでは聴衆の圧倒的支持を受け、多数の追加公演を行った。1912年にはロンドンデビューを果たす。
第一次世界大戦中は主にロンドンに暮らし、ウジェーヌ・イザイの伴奏者を務めた。1916年から1917年まで、スペインや南米を旅行し、同時代のスペインの作曲家に熱狂して多くの新作を初演する。1932年にしばらく演奏生活から隠退して、数年のあいだ演奏技巧やレパートリーの改善に取り組んだ。この年に指揮者エミル・ムリナルスキの娘アニエラと結婚し、4人の子供をもうけた。娘エヴァは神学者・聖職者・反戦運動家のウィリアム・スローン・コフィン師と結婚し、息子ジョンは俳優となった。第二次世界大戦中はアメリカ合衆国に暮らし、1946年に米国籍を取得。
1960年ショパン国際ピアノコンクールの審査委員長を務めた。このときの優勝者がマウリツィオ・ポリーニであり、ルービンシュタインのコメント「我々の誰よりも上手い」により大変有名となった。1976年、眼の中央に黒点が見える奇病「飛蚊症」が原因による視力低下により引退。引退後、自伝「華麗なる旋律」を執筆。1982年、ジュネーブで死去。
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