ブルックナー:交響曲第8番〔ハース版〕
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
1988年11月デジタル録音。
全般に受ける印象は先に記した7番と変わらない。テンポが遅く、細部の彫刻は線描にいたるまで周到である。しかし、このなんとも美しい8番を聴いていて、不思議とブルックナー特有の感興が湧いてこない。チェリビダッケの8番の「どうしようもない遅さ」には一種の「やばい」と思わせるスリリングさがある。東京の実演でも感じたが、もはや「失速寸前」まで厳しく追い込んでいく演奏の危険性と裏腹に獲得する、得も言われぬライヴの緊張感といった要素がある。
一方、カラヤンの8番には失速懸念があるわけではない。磨きに磨きあげる音の彫琢のためには、このテンポが必要なのかも知れない。しかし、クナッパーツブッシュを、シューリヒトを、ヨッフムを、あるいはヴァントを聴いてきたリスナーにとって、この演奏の「到達点」はどこにあるのだろう。遅くて、こよなく美しいブルックナー。
カラヤンは20世紀の生んだ天才的な指揮者である。世界政治の坩堝としてのベルリンで、その「孤塁」の安全保障を、結果的にたった一人、1本のタクトで保ってきた稀有な才能の持ち主でもある。時代の先端を疾駆し、常にセンセーショナルに、旧習にとらわれ変化の乏しいクラシック界に新たな「音楽事象」を自ら作り出してきた。
初期には、トスカニーニ張りと言われたその素晴らしいスピード感、常任就任以降の精密機械に例えられたベルリン・フィルの合奏力の構築、また、瞑目の指揮ぶりは聴衆を惹きつけずにはおかず、そのタクト・コントロールのまろやかな巧みさには世界中の音楽ファンが魅了された。
エンジニアとしての知識と直観に裏付けられたCDからビデオに、そしてデジタル化にまでいたる映像美学へのあくなき関心。いくつも並べられるこうしたエピソードとは別に、レパートリーの広さと純音楽的で類い希な名演の数々、その厖大なライブラリー。スタジオ録音でもライヴでもけっしてリスナーを裏切らない均一な演奏水準・・。
カラヤンの演奏にある意味で育てられてきたような世代の自分にとって、また、大阪で、東京で、そして忘れえないザルツブルク音楽祭でそのライヴに感動した過去の体験に思いを馳せつつ、カラヤンの「凄さ」にはいつも圧倒されてきた。
さて、そんなことを考えながら8番を聴いている。一般に大変高い評価のこの最晩年の演奏は、もちろんカラヤンらしい完璧志向は保たれているが、ブルックナーの一種の「狂気」に接近する演奏の「エモーション」が物足りない気がする。かってのカラヤンの演奏では感じなかった落ち着きとも諦観ともいえる心象が随所に出ていると思う一方、フル回転の内燃機関のような白熱のパッション(その「内実」は神のみぞ知るだろうが)は遠い残り火のように時たま瞼に映るのみである。
かってバレンボイムの8番をなんども聴いたうえでだが酷評した。このカラヤンの8番も自分にとって、なくてはならない1枚ではないようだ。ここ一番、第4楽章の見事なフィナーレにはかっての感動を追体験しつつも、壮年期の覇気が懐かしい。自らの加齢の影響もあるかも知れないが、悲しみとともに、老いたりカラヤン!との感情を隠しがたい。
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