土曜日, 3月 21, 2009

ブルックナーとブラームス
























 
 先週は、久しぶりにカルロス・クライバーの交響曲のCDを持ち歩いて聴いていた。ベートーヴェンの5番、7番のカップリングとブラームスの4番である。どちらも名だたる秀演である。
 しかし、今日はそのことを書こうとは思わない。最近、気分次第でブラームスをよく聴く。クラシック音楽に目覚めた中高校生頃はそれこそ夜も日も明けずブラームスにはまっていた時期もあった。しかし、いまの関心はブルックナーとの比較の視点から面白いと思う。 かつて書いた文章ーー

  1833年生まれのブラームスは、ブルックナーよりも9歳年下です。そのブラームスの第1番交響曲が21年の歳月をへて完成し(それ以前の「習作」などは廃棄したとも言われます)1876年に初演された時、彼は43歳でした。さかのぼって1868年、ブルックナーは第1番交響曲を自らの手で初演します。時に44歳でした。年齢差こそありますが、交響曲作曲家としてのデビューは2人ともほぼ同年代であったわけです。
  北ドイツのハンブルク生まれのブラームスが活動の拠点を音楽の都ウイーンに移したのは1862年、ブルックナーは7年遅れて1869年にウイーンに入ります。ブラームスが満を持して1番のシンフォニーを発表する以前、彼は「ドイツ・レクイエム」を世に問い自信を深めたと言われます。ブルックナーも同様に、ミサ曲二短調(1864年)、ミサ曲ホ短調(1866年)、ミサ曲へ短調(1867年)と相次いで作曲したうえで翌年1番のシンフォニーを期待とともに送り出します。
  ブラームスの最後の交響曲第4番は1884年から翌年にかけて作曲されますが、この年還暦を迎えたブルックナーは交響曲第7番をライプチッヒの市立歌劇場で、アルトゥール・ニキシュ指揮で初演し輝かしい成功を飾っています。さらにその後、ブルックナーは交響曲の作曲に10年に歳月をかけ1894年第9番のシンフォニーの第1から3楽章を完成させています。
  こうして見てくると稀代の交響曲作曲家としての2人の同時代性がよくわかります。有名な2人にまとわるエピゴーネン達の論争や足の引っ張り合いなどは一切捨象して、お互いの作風の違いや共通するその高い精神性への相互の思いなどをタイムスリップして聞いてみたくなります。
  両者の音楽理論的な異質性の論評は専門家や評論家の仕事でしょうが、両者の名演を紡ぎ出す指揮者がフルトヴェングラーやクナッパーツブッシュ、シューリヒトはじめ多く共通しているのは興味深いと思います。これは、広義のドイツ文化圏のなかで捉えるべきものなのか、同時代性のもつ意味なのか、あるいは双方なのかーーブルックナー、ブラームスともにこよなく好きな日本の一リスナーといえどもやみがたく関心のそそられる問題ではあります。
http://shokkou.spaces.live.com/blog/cns!9E9FE7463122BF4E!247.entry?&_c02_owner=1

 ブルックナーのあとでブラームスの交響曲を聴くと、ブラームスの音楽は、引き締まって、筋肉質で、とても凝縮感があるように感じる。その交響曲は、ブルックナーは長く、ブラームスはその相対比較においては実に短く感じる。当時のオーケストラ・メンバー(ウイーン・フィルが典型だが)に、程良い演奏時間からも聴衆の受けでも、ブラームスが好かれブルックナーが当初不評だったこともよくわかる。もっと端的に言えば、ブラームスは当時の「音楽界」の諸事情を洞察し、1作品の時間管理にしても、管弦楽団のモティベーションを高めるオーケストレーションの方法論にしても十分心得て作曲をしていたとも言えるかも知れない。合理的で無駄がなく、その音楽には情熱も気品もある。だからこそ、反ワーグナー派がここまで熱中するファンになったのだろう。

 ブルックナーはその点で大いに不利である。日本的な比喩では「独活(うど)の大木」という言葉が連想されるが、ブラームス愛好家からすれば、当時のウイーンではこうした世評があったとしても不思議ではない。クライバーの素晴らしい切れ味のブラームス4番を聴いているとその感を強くする。また、クライバーがブルックナーよりブラームスを好んで演奏したのも、そのスタイリッシュさからの共感あってではないかとも思う。

 蛇足だが、ブラームス(写真)はハンサムだったとの説が多い。晩年の憂いを含んだ髭の重厚な面影もご婦人にはもてたであろう。その点でもブルックナーは分が悪い。でも、あの無骨でぶきっちょで、粘着質な音楽への拘りの主、ブルックナーのほうが好きな人だって多くいる。私ももちろんその一人だが・・・。

金曜日, 3月 20, 2009

クラシック音楽の危機

  




大御所中の大御所、名盤中の名盤の代表例:フルトヴェングラーのベートーヴェン交響曲第5番

 クラシックのCDの売れ筋を見ていると、いまや鬼籍に入った演奏家の古い録音が実に多い。もともとぼくは、どちらかといえば、「古き名盤」ばかりを聴いているので、違和感はないのだが、マーケットに放出される厖大な音源のなかで、長きにわたって生き残ることは至難であり、一部の若手や個性的な大家を除く現役の音楽家の苦悩はとても深いのではないかと思う。

  かつては音楽会にも足繁く通ったが、いまはまったく行く気がしない。仕事の一環でやむを得ずといった、余程のことでもないと自発的な意思でチケットを買うことはなくなった。
  毎日、CDを聴いているのに、ライヴにモティベーションがわかないのは、40年にわたって素晴らしい実演に接して、その記憶をたどりつつ、またいまの自分の尺度からは、あまり期待するモノがないからかも知れない。喰わず嫌いといわれようとも、意欲が湧かなければ、趣味である以上、これは仕方がないだろう。

  CDでもTVやFMでもライヴでも、いずれも同様だが、ここまで「過去」の大家が君臨する以上、この領域(クラシック音楽界)の現在および将来は危機だろう。演奏法、解釈などで新たなアプローチもあるが、それはそれで面白いけれど、だからと言って栄光の「過去」を塗りかえるようなエネルギーが、いま十分にあるとも思えない。

  加えて、特定の作曲家への偏重、人気のある一部(人口に膾炙した)名曲への特化、全曲ではなく切り売り型の商品化がより一層進んでいるように思う。この傾向からは、希少な作曲家、現代音楽などがとりあげられる機会の減少、コンサート採用曲などのヴァリエーションの狭隘化、いわゆる癒し系・イージーリスニング系の小曲ブームなどが顕著になり、ますますマーケットが狭くなっているような気がする。

 なにを隠そう、このブログで最近、自ら取り上げているものだって、そうじゃないかと思う。軽め、話題性、一部贔屓への傾倒など・・・。時代が人をつくり、その人が時代の音楽をつくり奏でるとすれば、出でよ、英雄(女帝)!ということになるのだろうか。