ブルックナーといえば、生涯独身の堅物、なかなか芽がでず金にも出世にも辛酸をなめた苦労人、聖地バイロイトになんども足を運んだ類まれなワグネリアン、神経症を患い、自らの作品をいくども手直しした優柔不断な性格といったイメージが強い。しかし、それは実像だろうか?
もちろん、史実にもとづくものだから、そうした事実はあるのだろうが、見方をかえると別の人物像も浮かび上がってくるのではないか。
第1に「生涯独身の堅物」だが、一方で結婚願望が強くなんども求婚を試みていること、ご婦人とのダンスをこよなく愛したこと、大食大飲の食いしん坊、大酒飲みで結構ユーモアのセンスももっていたこと等の指摘もあり、敬虔なるカトリック教徒ゆえ<戒律にも忠実>・・・といった堅物ではない。
第2に「金にも出世にも辛酸をなめた苦労人」という点だが、これは主として保存されている手紙などからのイメージである。しかし、若い頃は別として、実はある段階以降は金の苦労はなかったし相当な遺産も残したこと、また本人は上昇志向が強く、権威・権力欲(といってよいと思うが)からはいつも不満はあったろうが、世俗的にみれば大変な成功者であったといってよい。最後の住処はときの宮殿内だったわけだから、赤貧のうちに憤死するといったことではない。
第3に、熱烈なワグネリアンであったことは事実だが、自分で思っているほどにはその音楽はワーグナーとは近くはない(というよりも誰とも異なっているといった方がよいかも)。たとえば、標題性は希薄で、絶対音楽の技法では、バッハ、ベートーヴェンからの影響のほうがはるかに強く、伝統的な教会音楽の系譜も研究し、かつパイプオルガンの当代きっての名手として、交響曲において、オルガンのもつ広大で構築性の強い独自の音楽空間を設計したともいえよう。
第4に、神経症を患っていたこと、ここはたしかに他人が計り知れない苦労、懊悩があっただろう。しかし、改訂魔というほどいくども自稿に手をいれることはあっても、これも意外なほど、その「本質」はかわっていない。堂々巡りといってはなんだが、後世からみて、果たして改訂によって、その音楽が良くなっているのか、その逆かの評価はきわめて難しい。極論すれば、最後はリスナーの感性の問題に帰着するものかもしれない。
こうみてくると、その人物像をパセティックに見ていいのかどうか・・・とかねがね疑問に思っている。同時代にカウンセリングの精神科医が隣にいたら、本人に向かって、
「ブルックナー先生、いやー、実に簡素で良いお暮らしで幸せではないですか。ブラームス先生も独身ですし、作曲に専心されるのであれば、そのほうが煩わしさがなくてよいかも知れませんよ。食事はともかく酒は少し控えられたほうがよいかも知れませんね。お得意のダンスと水泳は是非、続けられたら良いですね。なんといっても適度な運動は気分転換にもなりますし。でも、若いご婦人にはご注意あれ、いつかもセクハラで訴えられそうになったでしょ。いやいや、先生に限って、もちろん誤解でしょうが男性はそうした局面では実に不利ですからね。それから先生、ほら!もっと人生前向きに考えてください。ウイーンのみならず、いまや世界的に有名な大作曲家なのですから」
と言ったかも知れないなとひそかに思う。
http://shokkou3.blogspot.com/2008/05/blog-post_26.html
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