火曜日, 3月 30, 2010

ブルックナー vs  カラヤン 交響曲第8番(1944年)

ブルックナー:交響曲第8番ハ短調第2~4楽章
●プロイセン(ベルリン)国立歌劇場管弦楽団
■録音年月日:1944年6月28日(第2、3楽章)、9月29日(第4楽章)
■録音場所:ベルリン
■録音:モノラル/ステレオ(第4楽章)
■原盤所有社:ドイツ帝国放送協会(RRG)
■発売:KOCH SCHWANN
■タイミング:II:16:10、III:27:21、IV:27:34
http://www.karajan.info/cgi/index.cgi?sort=up32&keys3=%83u%83%8B%83b%83N%83i%81%5B+%8C%F0%8B%BF%8B%C8%91%E6%82W%94%D4%83n%92Z%92%B2&not3=%8EB%89e%95%97%8Ci
 
 上記出典で、57年盤の録音時間を引くとタイミング:I:17:05、II:16:04、III:27:31、IV:26:17 となっている。驚くべきことに、欠落している第1楽章を別に、第2楽章は00:06差、第3楽章は00:10差、第3楽章で01:17差という「僅差」である。13年ののち、かつオーケストラも違う2つの演奏はほぼ一致した内容といってもよい。カラヤンのブルックナー8番解釈は、実は1944年の段階でほぼ確定していたか。
 この感想は同じプロイセンを振った「英雄」でも、かつて同様な印象をもち、本ブログに書いた記憶がある。もっとも、注意しなければならないのは、カラヤンはライヴでは別の顔を見せることもあることだ(特にテンポ設定については大きく可変的)。

 しかし、44年盤、57年盤は、おそらく近代の指揮者として、はじめてレコードという媒体にもっとも高い感度と深い知識をもっていたカラヤン(クナッパーツブッシュやフルトヴェングラーとの大きな違い!)にとって、特別な意味があったろう。44年盤第4楽章は、世界初のステレオ録音とも言われ、これを事後チェックしたカラヤンは、戦時中ながら新技術「ステレオ録音」の将来に秘かに思いを馳せたかも知れない。また、57年盤はベルリン・フィルを統率した本格的なステレオ録音である。どちらも、カラヤンにとって、他者が理解できないくらい重要な意味のある記録であったろう。
 なお、57年盤を中心とする8番の演奏評については下記を参照。

http://shokkou.spaces.live.com/blog/cns!9E9FE7463122BF4E!943.entry?&_c02_owner=1

(戦中・戦後のカラヤンについて、あわせて下記を参照)
http://shokkou.spaces.live.com/blog/cns!9E9FE7463122BF4E!1181.entry?&_c02_owner=1

日曜日, 3月 28, 2010

ブルックナー vs フルトヴェングラー 交響曲第6番

 現状聴くことができるのは、ベルリン・フィルとの唯一の録音(かつ第1楽章欠落)である。その概要は以下のサイトで解説がある。
http://www.geocities.co.jp/MusicHall/5362/bru6.html

 自分の感想は、以下に書いている。私はシュワルツコップのファンであるが、このCDは、フルトヴェングラー&シュワルツコップの「デュオの魅力」が前面にでたものでもある。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%BC-%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC6%E7%95%AA-%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%BC-%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0/dp/B00005HV6W/ref=cm_cr-mr-title

 『フルトヴェングラー グレート・レコーディングズ』 ジョン アードイン (著), 藤井 留美 (翻訳) 音楽之友社 (2000/12/1) では、6番ではアダージョでのワーグナー<トリスタン>主題との関係を中心に考察している。

 6番は、フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、ワルターらの欠落を埋めるようにクレンペラーが、鷹揚たる名演を引っさげたが、第1楽章の欠落はあっても、そこはフルトヴェングラー、不完全盤ながらも歴史的な輝きを失わない遺産を残してくれたと言えよう。

ブルックナー vs フルトヴェングラー 交響曲第5番

 2つの録音があるが、ウイーン・フィルとの演奏は、1951年ザルツブルク音楽祭でのライヴ盤である。2つの録音の聞き比べは以下のサイトが綿密に解説してくれる。
 http://www.geocities.co.jp/MusicHall/5362/bru5.html

 自分の感想は、以下に書いている。それにしてもこのジャケットの写真はあまりにひどい(よって別の写真を上に掲げた)。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%BC-%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC5%E7%95%AA-%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B9%E7%89%88-%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%8B%E3%83%BC%E7%AE%A1%E5%BC%A6%E6%A5%BD%E5%9B%A3/dp/B00005HN28/ref=cm_cr-mr-title

 『フルトヴェングラー グレート・レコーディングズ』 ジョン アードイン (著), 藤井 留美 (翻訳) 音楽之友社 (2000/12/1) では、5番の4つの楽章の循環的性格が簡略に示される。そいて、この循環性ももっとも見事に表現しているのがフルトヴェングラーであるとしている。

 「第1、4楽章の始まり方が、第2、3楽章と似ており、また、第2、3楽章には第1、4楽章の起源を感じさせるものがあることから、循環性が非常に強い作品である。また、それ以上に、全体を通じて他家受粉のような主題の相互交換が行われており、ブルックナーの交響曲の全楽章中最大の規模と野心を誇る第4楽章、その冒頭で確定される循環性と合わさって、この相互交換が思考と行動のずばぬけた経済性を生み出している」(p.321)

 5番については、ヨッフムの解釈に強い影響をうけてきた。しかし、ヨッフムと各楽章の力点の置き方に違いはあるが、フルトヴェングラーのテクスチャーの読み込みは深く明確で、複雑な回線を混戦せずに見事に結びつけてような「整理学」と全体を巨大に再構成していく「推進力」は抜群である。

土曜日, 3月 27, 2010

ブルックナー vs フルトヴェングラー 交響曲第4番

 3つの録音があるが、ウイーン・フィルとの演奏は、1951年同一演奏旅行中のものなので、解釈に基本的な違いはない。3つの録音の聞き比べは以下のサイトが綿密に解説してくれる。
http://www.geocities.jp/furtwanglercdreview/bru4.html

 自分の感想は、以下に書いている。前半2楽章と後半2楽章で強烈にアクセントをつけ、前半は遅くて諦観的、後半は少しテンポを上げダイナミクスを強めて・・・といった運行。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%BC-%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC4%E7%95%AA%E3%80%8A%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%80%8B%E6%94%B9%E8%A8%82%E7%89%88-%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%BC-%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0/dp/B000LC5BRY/ref=cm_cr-mr-img

 『フルトヴェングラー グレート・レコーディングズ』 ジョン アードイン (著), 藤井 留美 (翻訳) 音楽之友社 (2000/12/1) には、フルトヴェングラーが1890年版を採用していることについて、参考になる表現がある。

 「微妙なルバートと極端なリタルダンド、鋭角的な”へアピン”ダイナミクスを持つ”世紀末風”ブルックナー」(p.316)

 聴き直してみて、やはりいま、こうした演奏のできる指揮者はいないと感じる。そもそも、1890年版を採用すること自体に、うるさがたの批評家のブーイングを予想しなければならないだろうし、ここまで「強烈な解釈」にぴたりと寄り添わせるオーケストラ・コントロールは、今日もっと難しいだろう。その意味でも「歴史的な遺産」である。しかし、より本質的には、ブルックナーの音楽の<神髄>はこうあるべきという、誰も真似しえないフルトヴェングラーの強靱な意志力こそ、本演奏の中空で見えない蜷局(とぐろ)を巻いていると感じるのである。