土曜日, 1月 08, 2011

クラシック音楽の危機 

 
 クラシック音楽だけが危機にあるわけではない。西欧の価値観そのものが揺れている世紀である。かつては、ヨーロッパ領主らにとって豪勢な料理と同様、ひとつの嗜好品であった宮廷「音楽」、聖歌に代表され、ミサなどの儀式に欠くことができない宗教「音楽」、民衆のフォークロアとしての民族主義的な「音楽」、思想を表現する手段としての標題「音楽」などなど、クラシック音楽の源流にも多様性がある。
  
 宮廷の嗜好品としての音楽は市民革命とともにとっくに時代遅れになった。また、宗教的な音楽の伝統は西欧に限らないが、カトリック、プロテスタントなどの宗派の別はあれど、いまも大きな儀典的な役割を演じているだろう。しかし、それは宗教関係者以外では、どちらかといえば限定的、非日常的なものだろう。一方、民衆のなかから生まれおち継承されてきた音楽の裾野は広く健在だ。もちろん、それはクラシック音楽のジャンルを超えて、より大きな集合、広い領域で語られるべきものであろう。さらに、思想性のある音楽、たとえばワーグナーの楽劇のようなそれは、むしろ原初の思想性の纏を脱いで、今日純粋な古典として迎えられているようにも思う。  

 さて、いずれにせよ、いわゆるクラシックという音楽ジャンル自体が時代とともに、大きく変化をしているはずだが、一時的なブームはあっても長期の趨勢としてこれが拡大しているようには見えない。

 
クラシック音楽とは、まず西欧の音楽といってよいのだろうが、「西洋(西欧)の没落」(オスヴァルト シュペングラー, Oswald Spengler) 以来、水平的な国家・民族の多元主義が台頭し、文明史観そのものがかわっているのだから、西欧の音楽の相対化、あるいは地位低下は当然のことであろう。

 西欧の考え方の基底には、ギリシア哲学やローマ文明がある。その後、キリスト教が燎原の火のように域内に拡大して浸透する。ゲルマンが力を得て、そこから融合型、統合的な音楽が生み出されてくる。

 音楽の領域でもはじめに理論として登場するのはピタゴラス、プラトン、アリストテレスらのギリシア哲学においてであろう。その後、キリスト教との関係ではグレゴリア聖歌などは容易に想像できる名前である。ルネサンス、バロックの時代に、ローマ文明の再興とでもいうべきブレークスルーがあって、いまのクラシック音楽の塑形がつくられ、楽器が発明、開発され、イタリア、フランスがこうした革新の先導役を果たす。ラテン語がクラシック音楽で重要なのは自明である。ルターの宗教改革以降、欧州の後進地とみなされたドイツでそれ以前の価値観や技術が体系的されて、クラシック音楽の発展の苗田が生まれる。

 産業革命とともに世界標準としての価値観たらんと勃興した西欧文明は、先のシュペングラーの指摘を俟つまでもなく多元化の時代に突入していく。クラシック音楽は素晴らしいけれど、それはあくまでも音楽ジャンルのひとつである、という相対化の進行である。アメリカの影響は大きかった。ジャズ、ソウル、そしてロックといった音楽が人々の心を捉えていく。そして、いまやそうしたジャズ、ソウル、ロックも時代の変遷をへて「古典」、すなわち広義の「クラシック音楽」化という認識もなされている。


 

日本という「極東」の島国から見ていると、クラシック音楽は西欧文明の一部を形成するものであり、日本自体の西欧化(「近代化」という言葉が支配的な理念となったが)とともに広がっていったと言えよう。第二次世界大戦を区切りとする見方からすれば、戦前も刻苦勉励した日本人先覚者はいたが、なんと言っても、戦後の民主化の過程とともに学校教育でもその地位の向上が図られていく。雅楽は知らなくとも笑われないだろうが、バッハやモーツアルト、ベートーヴェンという名前くらいは小学生でも「学習」する。

 さて、クラシック音楽の危機は、その担い手論に直結する。小澤征爾をおそらく現在までの頂点として、最近の日本の若者のこの世界での活躍ぶりはいつも眉目をあつめるけれど、日本で音楽大学をでても、国内のオーケストラに入団するのはとても狭き門であり、俗にいう食っていくのは大変だろう。でも、それをもってクラシック音楽の危機というのではない。

 

ぼくはクラシック音楽を聴き始めて40年以上になる。1960年代の終わり頃からだが、現在までの間に、とても大きな環境変化があった。中学生の時にその魅力に取り付かれたが、その頃は本当に多くの大家が元気にひしめいていた。音楽雑誌を読んでいても実にスリリングだった。当時はわからなかったが、厳しい競争関係のなかで、レコードやコンサートで口の端にあがるのは、そのごく一部の音楽家であっただろうが、有名音楽家の来日コンサートなどは行幸並みの扱いだったし、ましてヨーロッパなど世界にライヴで音楽を聴きにいくなどは夢のまた夢に近かった。そこは日本の経済成長もあり、グローバル化の進行もあって、いまは何のこと?といった隔世の感があるだろう。

 事例と言っては失礼かも知れないが、ぼくは諏訪内晶子さんの活動がその典型のように覚えている。その意味で 1990年はひとつの基準年であろう。 1981年、全日本学生音楽コンクール(小学校の部、東日本大会)で第1位。 1985年、全日本学生音楽コンクール(中学校の部、全国大会)で第1位。 1987年、日本音楽コンクールで第1位。 1988年、パガニーニ国際コンクールで第2位。 1989年、エリザベート王妃国際音楽コンクールおよび日本国際音楽コンクールで第2位。 1990年、チャイコフスキー国際コンクールで第1位(最年少、日本人初、全審査員の一致による優勝)。同時にバッハ作品最優秀演奏者賞とチャイコフスキー作品最優秀演奏者賞を受賞。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%86%85%E6%99%B6%E5%AD%90

 

日本人がこのクラシック業界で活躍することもそうだが、1990年代以降、日本の若いリスナーにとっても、ザルツブルクだろうがバイロイトだろうが憧れの世界の音楽祭にも相応の努力をすれば行ける時代になった。夢はかなう時代、しかし、皮肉なことに、その頃からいわゆる大家はとても少なくなった、というよりも、かつての大家の時代は終わってしまったということかも知れない(60年代に活躍した大家達が鬼籍に入っていった)。ぼく自身、この頃を境にコンサートにはほとんど行かず、過去のCDばかりを聴くようになった。

 いま、さまざまな媒体で、いわゆるクラシック音楽ファンが聴いているのは、圧倒的に過去の大家の演奏の俗に言うリマスター版である。 かつ、作曲家、曲目での蓄積は、クラシック全領域のなかでもかなり限定されている。そこにいまのクラシック音楽の危機の一因があると思う次第であるが、この問題を少し自分なりに考えてみたいと思っている。

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