ポリー二 http://shokkou3.blogspot.jp/2011/12/blog-post_17.html
ポリーニⅡ http://shokkou3.blogspot.jp/2011/12/blog-post_1950.html
ポリーニⅢ http://shokkou3.blogspot.jp/2011/12/blog-post_7193.html
ポリーニⅣ http://shokkou3.blogspot.jp/2011/12/blog-post_9837.html
ポリーニⅤ http://shokkou3.blogspot.jp/2011/12/blog-post_18.html
ポリーニⅥ http://shokkou3.blogspot.jp/2012/01/blog-post_2949.html
ポリーニⅦ http://shokkou3.blogspot.jp/2012/01/blog-post_773.html
ポリー二を集中的に聴いていたのは最近では2011年12月から2012年1月にかけて。上記はそのときに書いたもの。今回の切っ掛けはグールドである。その「後味」というわけではないが、グールド三昧で、さて他のピアノ演奏もと思ったとき、自然に手がのびたのがポリー二だった。しかし、その理由は自分でもよくわからない。
グールドは「異端」の天才、ポリー二は「正統」的な天才ピアニスト。グールドの時代の正統は、バッハに関してはカール・リヒターであったと思う。そして今日、グールドの多くのバッハ録音は、カール・リヒターとともに双璧の評価がある。
さて、ポリー二は、1960年ショパン・コンクールで優勝して世にでるが、審査員たるルービンシュタインに絶賛され、のちにその教えを乞うことになる。ショパンに関して、そのアプローチは異なれども、多くのリスナーを獲得をしたということでは、ポリー二はいわばルービンシュタインの跡目(の一脈)をつぐことになる。その成果、「ポロネーズ集」はいまも時代をへだてて両雄が並びたつ。その点において、グールドとポリー二の歩んできた道は違いすぎる。
一方で、時代を切り拓くということでは、グールドが「ゴルトベルク変奏曲」で与えた衝撃は強烈だった。ポリー二にも多くの革新的な演奏があるが、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカからの3章」などはそのひとつと思う。
ところで、グールドを聴くと不思議と饒舌な気分になる(自分の内面との対話の触媒的な働きがある)。さて、ポリー二だが、その完璧な演奏に舌を巻くのだが、巻いた舌が沈黙を決め込むようなところがある。
とくに演奏評といったことになると、グールドにはプライベートな挿話をふくめていくつも語りたくなる特色があるのだが、ポリー二の演奏については定番の賛辞(完璧、規範的など)がくりかえされる場合が多く、存外、その表現が難しい。ここでは交響曲・管弦楽曲におけるベームと似たところがあるように思う。
きょうはべーム! http://shokkou3.blogspot.jp/2013/09/blog-post_14.html
きょうはべーム! http://shokkou3.blogspot.jp/2013/09/blog-post_14.html
ところで、グールドとポリー二の共通点。シェ―ンベルクへの傾倒、新ウィーン楽派への深い理解がある。また、ポリー二はそのレパートリーや録音に関して、実はグールドを強く意識しているようにも思う(もちろんベートーヴェンなど主力演目ではかぶるが、かなり両者は補完的であることは面白い)。
新ウィーン楽派に限らず、グールドもポリー二も現代音楽、同時代音楽への関心が高い。彼らの演奏は、むしろ現代から古典を照射する(現代音楽のコンテクストをもって、古典との連続性を逆行して探る)といった感じすらある。だからこそ、若者をふくめ新たなリスナーに新鮮な感動をあたえつづけることができるのではないかと思う。
ポリー二はある時期から指揮にも関心を示し一部の音源も知られるが、こちらはバレンボイム、アシュケナージ、エッシェンバッハらに比べて、さほどうまくいっていないように見受けられる。あまりに完成された彼のピアニズムとそれを支える飛びぬけた感性からは、それに合う曲の選択とオケの操舵はむずかしいからかも知れない。