日曜日, 8月 28, 2016

ポリー二 Maurizio Pollini




ポリー二  http://shokkou3.blogspot.jp/2011/12/blog-post_17.html
ポリーニⅡ  http://shokkou3.blogspot.jp/2011/12/blog-post_1950.html
ポリーニⅢ http://shokkou3.blogspot.jp/2011/12/blog-post_7193.html
ポリーニⅣ  http://shokkou3.blogspot.jp/2011/12/blog-post_9837.html
ポリーニⅤ  http://shokkou3.blogspot.jp/2011/12/blog-post_18.html
ポリーニⅥ  http://shokkou3.blogspot.jp/2012/01/blog-post_2949.html
ポリーニⅦ  http://shokkou3.blogspot.jp/2012/01/blog-post_773.html


ポリー二を集中的に聴いていたのは最近では201112月から20121月にかけて。上記はそのときに書いたもの。今回の切っ掛けはグールドである。その「後味」というわけではないが、グールド三昧で、さて他のピアノ演奏もと思ったとき、自然に手がのびたのがポリー二だった。しかし、その理由は自分でもよくわからない。

グールドは「異端」の天才、ポリー二は「正統」的な天才ピアニスト。グールドの時代の正統は、バッハに関してはカール・リヒターであったと思う。そして今日、グールドの多くのバッハ録音は、カール・リヒターとともに双璧の評価がある。

さて、ポリー二は、1960年ショパン・コンクールで優勝して世にでるが、審査員たるルービンシュタインに絶賛され、のちにその教えを乞うことになる。ショパンに関して、そのアプローチは異なれども、多くのリスナーを獲得をしたということでは、ポリー二はいわばルービンシュタインの跡目(の一脈)をつぐことになる。その成果、「ポロネーズ集」はいまも時代をへだてて両雄が並びたつ。その点において、グールドとポリー二の歩んできた道は違いすぎる。 

一方で、時代を切り拓くということでは、グールドが「ゴルトベルク変奏曲」で与えた衝撃は強烈だった。ポリー二にも多くの革新的な演奏があるが、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカからの3章」などはそのひとつと思う。

ところで、グールドを聴くと不思議と饒舌な気分になる(自分の内面との対話の触媒的な働きがある)。さて、ポリー二だが、その完璧な演奏に舌を巻くのだが、巻いた舌が沈黙を決め込むようなところがある。

とくに演奏評といったことになると、グールドにはプライベートな挿話をふくめていくつも語りたくなる特色があるのだが、ポリー二の演奏については定番の賛辞(完璧、規範的など)がくりかえされる場合が多く、存外、その表現が難しい。ここでは交響曲・管弦楽曲におけるベームと似たところがあるように思う。

きょうはべーム! http://shokkou3.blogspot.jp/2013/09/blog-post_14.html

ところで、グールドとポリー二の共通点。シェ―ンベルクへの傾倒、新ウィーン楽派への深い理解がある。また、ポリー二はそのレパートリーや録音に関して、実はグールドを強く意識しているようにも思う(もちろんベートーヴェンなど主力演目ではかぶるが、かなり両者は補完的であることは面白い)。

新ウィーン楽派に限らず、グールドもポリー二も現代音楽、同時代音楽への関心が高い。彼らの演奏は、むしろ現代から古典を照射する(現代音楽のコンテクストをもって、古典との連続性を逆行して探る)といった感じすらある。だからこそ、若者をふくめ新たなリスナーに新鮮な感動をあたえつづけることができるのではないかと思う。 

ポリー二はある時期から指揮にも関心を示し一部の音源も知られるが、こちらはバレンボイム、アシュケナージ、エッシェンバッハらに比べて、さほどうまくいっていないように見受けられる。あまりに完成された彼のピアニズムとそれを支える飛びぬけた感性からは、それに合う曲の選択とオケの操舵はむずかしいからかも知れない。




 
Chopin: Polonaises / Maurizio Pollini ...  Fryderyk Franciszek Chopin
 

金曜日, 8月 12, 2016

グールド Glenn Herbert Gould

バッハ:ピアノ協奏曲第5番/ベ


夏休みの後半、グールドを聴いている。ここ1ケ月くらいマーラーの古い音源に夢中になっていたが、いささか疲れて別のテイストをと思った。

なにげなくグールドのシェーンベルクに手を伸ばしたのが、ふたたびグールドにはまり込む一因となった。

シェーンベルク:ピアノ作品全集(期間生産限定盤)
シェーンベルク:ピアノ作品全集(期間生産限定盤)

初期の「3つのピアノ曲」Op.11(1909年)では強い高音がなにか現状に抗するようなレジスタンスを感じさせる。あるいはグールド自身の思いの投影かもしれないが意欲的な演奏。
それが「ピアノ組曲」 op.25(1923年)やピアノ曲 op.33a&b(1931年)になると無調傾向ながらも曲想ははるかに豊かになり変化をむしろ楽しんでいるかのような演奏。グールドは、伸び伸びと表情豊かに弾き込んでいる。曲の性格を見切ってのグールドのシェーンベルクは明確で愉悦的ともいえる成果。

Schoenberg;Piano Concertos
Schoenberg;Piano Concertos


シェーンベルクは次に協奏曲も聴いた。 

グールドでシェーンベルク:ピアノ協奏曲 Op.42(1942)を聴く。グールドは比較的短いこの曲から多面的な表情をだしており、十二音技法による斬新さよりもダイナミックなピアノの妙技にリスナーの関心は向かおう。管弦楽のバックは意図的にか、目立たせず相当音量を抑えた対応を感じさせる(トロント、マッシー・ホールで収録)。 

<収録情報>
・シェーンベルク:ピアノ協奏曲 Op.42:ロバート・クラフト/CBC響(1961121日)
・モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番:ワルター・ジュスキント/CBC響(1961117日)

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」(期間生産限定盤)
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」(期間生産限定盤)

比較的ゆっくりとした一定のテンポ、一音一音を均等にキチンと表現するグールド独自の弾き方、明るい基調を維持し、あくまでもピアノ主体の出すぎぬオケの慎重な追走。過度なダイナミズムや感情移入を抑制し音楽の結晶美のみを目指したような演奏(リスナーによって好悪の分れどころだろう)。ここには「皇帝」といったある種の「まがまがしさ」は存在せず、整然と美しくも高貴なベートーヴェンの最後の協奏曲のみがある。ストコフスキーとグールドという特異の組み合わせからは想像しにくいが、大向うを唸らせるような所作は一切なく、最後まで硬質で抑制のきいた音楽が連続する。その意外性が面白い。

→ ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番&シベリウス:交響曲第5番 も参照


 
このあと、バッハのピアノ協奏曲の3番、5番とかけて、グールドの協奏曲にはどれも共通するものがあると感じている。 

1.      一音一音をクリアに弾く一方、強烈な打鍵はひかえて表情は優しい。
2.      曲想が明るく、愉しみながら弾いている印象が強い。
3.      バックの演奏も控えめな方が好み。ここでもあまりダイナミックな追走は好きではない。つまり室内楽的ともいっていい演奏が基本。

グールド (最近聴いているもの)

バッハ:インヴェンションとシンフォニア/イギリス組曲第1番



バッハ:インヴェンションとシンフォニア/イギリス組曲第1番


実はシェ―ンベルクを聴いて、これはバッハに通じている(強い影響を受けている)ということをグールドの演奏から感じた。グールドはシェ―ンベルクについて徹底的に研究して本も書いているが、その直後に録音したのがバッハ「インヴェンションとシンフォニア」である。

シェ―ンベルクの独奏曲と協奏曲を聴いて、グールドは傾向としては、独奏曲は心を深耕するように弾き、協奏曲は一種のハレの音楽として、軽く優しく弾くように感じたので、ベートーヴェン、バッハの協奏曲を比較のうえで掛けてみたわけだが、これはバッハの作風に沿っているのかも知れない。
 
 
バッハ:パルティータ(全曲)

バッハ:パルティータ(全曲)


バッハが楽譜扉に記した「心の憂いを晴らし、喜びをもたらさんことを願って」を余すところなく表現したグールドの代表盤。パルティータ(partita)は、part(部分)に通じ、さまざまな変奏曲の一部という原義があるようだが、自由な感性で、一瞬の即興的な変奏に魂を注力するのはグールドのいわば御家芸。しかし、全曲の録音は1956年2月(5番)から1963年4月(4番)まで足掛け7年にわたって慎重になされている。納得のいく成果を時間をかけて求めていくところに、グールドのもう一つの顔、真摯な完成度へのこだわりも感じる。

◆J.S.バッハ:パルティータ 全曲(録音時点)

 パルティータ第1番変ロ長調 BWV.825(1959年5月1日&8日、9月22日)
 パルティータ第2番ハ短調 BWV.826(1959年6月22日、23日)
 パルティータ第3番イ短調 BWV.827(1962年10月18日、19日)
 パルティータ第4番ニ長調 BWV.828(1962年4月11日〜12日、1963年3月19日〜20日、1963年4月8日)
 パルティータ第5番ト長調 BWV.829(1956年2月9日、13日〜17日、1957年7月29日〜31日、1957年8月1日)
 パルティータ第6番ホ短調 BWV.830(同上)

比較のうえでバッハ「パルティ-タ集」を聴いて、ふたたび「インヴェンションとシンフォニア」に戻る。いま気になっているのは、なぜ最後に第9番を置いたのかという点。全15曲のなかでもっとも演奏時間の長い内容の充実した曲だから、というのが一般的な見方だが、あのグールドがそんなに簡単な理由で選んだわけはない。仮説ながら、終曲のシンフォニアを聴いているとシェ―ンベルクの音楽が二重写しになるような錯覚がある。そこをもう少し考えてみたい。
 

日曜日, 8月 07, 2016

ブルックナー 交響曲第7番 ウィーン・フィルで聴く

Wiener Philharmoniker

夏季休暇の一日、きょうはブルックナーを聴こう。7番についてウィーン・フィルの名盤の探索がテーマ。

まずは表記 Wiener Philarmoniker 10 CD-Set のなかからベーム(1943年)を。

ベームには1976年9月、ウィーン・フィルとの名演 Symph. No 7 E-dur(一般にはこれで十分)があるが、本盤は1943年の古い録音(なお、ベームには1953年ライヴ盤もある)。しかしこの時代としては意外にも結構良い音が採れておりその内容を知るうえでさほど問題はないだろう。

立派な演奏である。1976年盤ほど冷静かつテンポの厳格さにこだわらず、熱っぽさも大胆なドライブ感もあり、ウィーン・フィルを存分に集中させ、透明なるも芳醇なサウンドを十全に引き出し(特に第2、3楽章)、かつベームの信ずるブルックナー音楽を構造的に描ききっている。聴き終わってやはりベームは只者ではないとの印象をもつだろう。ベーム・ファン向けの1枚。

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Symph. No 7 E-dur
 
ベームはいつもながらけっしてテンポを崩さない。安定したテンポこそベームの確たる基本線である。音に重畳的な厚みがある。しかもそれは、一曲におけるどの部分を切り取っても均一性をもっている。オーケストラは十分な質量を出すが、演奏にエモーショナルな感じがしない。制御された質量感と背後に「冷静」さが滲む。そのうえで、弦楽器のパートにおいては音の「明燦」と「陰影」のつけ方が絶妙で、「冷静」でありながらその表情は豊かである。管楽器はおそらく常ならぬ緊張感をもって完璧な音を吹奏し、それは情熱的というより最高度の職人芸を要求されているように感じる。

厳格なテンポを維持することは、それ自体至難であろう。緊張感からの一瞬の開放もない。これが、ベームの「隠された技法」ではないかと思う。ベームとはメトロノームが内在されている指揮者ではないかとすら感じる。しかし、このメトロノームの優秀さをウィーン・フィルはよく知っており、持てる力を発揮している。指揮者の統率力をこのように感じさせる演奏は稀である。面白味に欠けるとの意見もあるが、実はそこがベームの凄さではないかと思う。

→ 本盤からさかのぼって30年以上も前 Bruckner: Symphony No.7 も参照
 
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次に掲げるのはベームから10年後の1986年に録音されたジュリーニである。この第2楽章には痺れる。
 
交響曲第7番ホ長調
 
ジュリーニは1930年に、ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団でヴィオラを弾いていたときに、ワルター、クレンペラーそしてフルトヴェングラーらブルックナーの泰斗の指揮を経験しています。その後、聖チェチーリア国立アカデミーで指揮を専攻します。

1914年生まれのジュリーニがブルックナーをはじめて録音したのは60歳の時で、1974年にウイーン交響楽団と2番のシンフォニーを取り上げています。この年、ボストン交響楽団の客演でも同曲を取り上げ、また、ニューヨーク・フィルとでは9番を演奏しています。1976年にはシカゴ交響楽団とこの9番を録音、1982ー83年にはロンドンで7番、8番を演奏しています。ジュリーニが他の番を好まなかったかどうかはわかりませんが、7ー9番は曲の完成度の高さと美しいメロディの聴かせどころでジュリーニ好みだったのかも知れません。

この7番(1986年6月ウィーン/デジタル)の録音では第2楽章の静寂さの表現が抜群です。孤独な心情、歩み寄る死への道程ではあっても、この遅い遅い楽曲に込められているものは、この世への絶望でもなければ、死への戦慄でもない。透明な空気のなかにほの明るく陽光がさしているような感じ。朝日ではなく黄昏の残映にせよ、それはあくまでも肯定的なものであることを確信させる・・・。ジュリーニの演奏からはそうした人生のもつ重みが伝わってきます。
 
ブルックナー:交響曲第7番
 
有名なカラヤン最後の録音もあるが、残念ながら晩年のブルックナーについて、小生はあまり評価しない。
 
カラヤン ブルックナー7番  Saturday, July 21, 2007
http://shokkou3.blogspot.jp/2007/07/blog-post.html
カラヤン ブルックナー8番  Sunday, July 22, 2007
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さて、いま聴いていたのがショルティ(1965年10月)。ベームのほぼ10年前の録音である。
 
ブルックナー:交響曲第7番 ホ
 
ショルティらしくきっちりとした演奏だが、ジュリーニのような情感がやや乏しいと
思う一方、終楽章の盛り上げかたはベームを超える。
 
ほかにも順不同ながら、アバド、アーノンクール、セル(ライヴ)などもあるが、個人的臆断ながら、どれを聴いてもジュリーニ、ベームを超えているとは思えない。
 
最後はクナッパーツブッシュ、これは古い音源のなかではいまだに光彩陸離たるものがあると思う。
 
クナッパーツブッシュ ブルックナー Saturday, June 07, 2008