夏季休暇の一日、きょうはブルックナーを聴こう。7番についてウィーン・フィルの名盤の探索がテーマ。
まずは表記 Wiener Philarmoniker 10 CD-Set のなかからベーム(1943年)を。
ベームには1976年9月、ウィーン・フィルとの名演 Symph. No 7 E-dur(一般にはこれで十分)があるが、本盤は1943年の古い録音(なお、ベームには1953年ライヴ盤もある)。しかしこの時代としては意外にも結構良い音が採れておりその内容を知るうえでさほど問題はないだろう。
立派な演奏である。1976年盤ほど冷静かつテンポの厳格さにこだわらず、熱っぽさも大胆なドライブ感もあり、ウィーン・フィルを存分に集中させ、透明なるも芳醇なサウンドを十全に引き出し(特に第2、3楽章)、かつベームの信ずるブルックナー音楽を構造的に描ききっている。聴き終わってやはりベームは只者ではないとの印象をもつだろう。ベーム・ファン向けの1枚。
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ベームはいつもながらけっしてテンポを崩さない。安定したテンポこそベームの確たる基本線である。音に重畳的な厚みがある。しかもそれは、一曲におけるどの部分を切り取っても均一性をもっている。オーケストラは十分な質量を出すが、演奏にエモーショナルな感じがしない。制御された質量感と背後に「冷静」さが滲む。そのうえで、弦楽器のパートにおいては音の「明燦」と「陰影」のつけ方が絶妙で、「冷静」でありながらその表情は豊かである。管楽器はおそらく常ならぬ緊張感をもって完璧な音を吹奏し、それは情熱的というより最高度の職人芸を要求されているように感じる。
厳格なテンポを維持することは、それ自体至難であろう。緊張感からの一瞬の開放もない。これが、ベームの「隠された技法」ではないかと思う。ベームとはメトロノームが内在されている指揮者ではないかとすら感じる。しかし、このメトロノームの優秀さをウィーン・フィルはよく知っており、持てる力を発揮している。指揮者の統率力をこのように感じさせる演奏は稀である。面白味に欠けるとの意見もあるが、実はそこがベームの凄さではないかと思う。
→ 本盤からさかのぼって30年以上も前 Bruckner: Symphony No.7 も参照
厳格なテンポを維持することは、それ自体至難であろう。緊張感からの一瞬の開放もない。これが、ベームの「隠された技法」ではないかと思う。ベームとはメトロノームが内在されている指揮者ではないかとすら感じる。しかし、このメトロノームの優秀さをウィーン・フィルはよく知っており、持てる力を発揮している。指揮者の統率力をこのように感じさせる演奏は稀である。面白味に欠けるとの意見もあるが、実はそこがベームの凄さではないかと思う。
→ 本盤からさかのぼって30年以上も前 Bruckner: Symphony No.7 も参照
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次に掲げるのはベームから10年後の1986年に録音されたジュリーニである。この第2楽章には痺れる。
ジュリーニは1930年に、ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団でヴィオラを弾いていたときに、ワルター、クレンペラーそしてフルトヴェングラーらブルックナーの泰斗の指揮を経験しています。その後、聖チェチーリア国立アカデミーで指揮を専攻します。
1914年生まれのジュリーニがブルックナーをはじめて録音したのは60歳の時で、1974年にウイーン交響楽団と2番のシンフォニーを取り上げています。この年、ボストン交響楽団の客演でも同曲を取り上げ、また、ニューヨーク・フィルとでは9番を演奏しています。1976年にはシカゴ交響楽団とこの9番を録音、1982ー83年にはロンドンで7番、8番を演奏しています。ジュリーニが他の番を好まなかったかどうかはわかりませんが、7ー9番は曲の完成度の高さと美しいメロディの聴かせどころでジュリーニ好みだったのかも知れません。
この7番(1986年6月ウィーン/デジタル)の録音では第2楽章の静寂さの表現が抜群です。孤独な心情、歩み寄る死への道程ではあっても、この遅い遅い楽曲に込められているものは、この世への絶望でもなければ、死への戦慄でもない。透明な空気のなかにほの明るく陽光がさしているような感じ。朝日ではなく黄昏の残映にせよ、それはあくまでも肯定的なものであることを確信させる・・・。ジュリーニの演奏からはそうした人生のもつ重みが伝わってきます。
1914年生まれのジュリーニがブルックナーをはじめて録音したのは60歳の時で、1974年にウイーン交響楽団と2番のシンフォニーを取り上げています。この年、ボストン交響楽団の客演でも同曲を取り上げ、また、ニューヨーク・フィルとでは9番を演奏しています。1976年にはシカゴ交響楽団とこの9番を録音、1982ー83年にはロンドンで7番、8番を演奏しています。ジュリーニが他の番を好まなかったかどうかはわかりませんが、7ー9番は曲の完成度の高さと美しいメロディの聴かせどころでジュリーニ好みだったのかも知れません。
この7番(1986年6月ウィーン/デジタル)の録音では第2楽章の静寂さの表現が抜群です。孤独な心情、歩み寄る死への道程ではあっても、この遅い遅い楽曲に込められているものは、この世への絶望でもなければ、死への戦慄でもない。透明な空気のなかにほの明るく陽光がさしているような感じ。朝日ではなく黄昏の残映にせよ、それはあくまでも肯定的なものであることを確信させる・・・。ジュリーニの演奏からはそうした人生のもつ重みが伝わってきます。
有名なカラヤン最後の録音もあるが、残念ながら晩年のブルックナーについて、小生はあまり評価しない。
カラヤン ブルックナー7番 Saturday, July 21, 2007
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さて、いま聴いていたのがショルティ(1965年10月)。ベームのほぼ10年前の録音である。
ショルティらしくきっちりとした演奏だが、ジュリーニのような情感がやや乏しいと
思う一方、終楽章の盛り上げかたはベームを超える。
ほかにも順不同ながら、アバド、アーノンクール、セル(ライヴ)などもあるが、個人的臆断ながら、どれを聴いてもジュリーニ、ベームを超えているとは思えない。
最後はクナッパーツブッシュ、これは古い音源のなかではいまだに光彩陸離たるものがあると思う。
クナッパーツブッシュ ブルックナー Saturday, June 07, 2008
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