夏休みの後半、グールドを聴いている。ここ1ケ月くらいマーラーの古い音源に夢中になっていたが、いささか疲れて別のテイストをと思った。
なにげなくグールドのシェーンベルクに手を伸ばしたのが、ふたたびグールドにはまり込む一因となった。
シェーンベルク:ピアノ作品全集(期間生産限定盤)
初期の「3つのピアノ曲」Op.11(1909年)では強い高音がなにか現状に抗するようなレジスタンスを感じさせる。あるいはグールド自身の思いの投影かもしれないが意欲的な演奏。
それが「ピアノ組曲」 op.25(1923年)やピアノ曲 op.33a&b(1931年)になると無調傾向ながらも曲想ははるかに豊かになり変化をむしろ楽しんでいるかのような演奏。グールドは、伸び伸びと表情豊かに弾き込んでいる。曲の性格を見切ってのグールドのシェーンベルクは明確で愉悦的ともいえる成果。
Schoenberg;Piano Concertos
シェーンベルクは次に協奏曲も聴いた。
グールドでシェーンベルク:ピアノ協奏曲 Op.42(1942年)を聴く。グールドは比較的短いこの曲から多面的な表情をだしており、十二音技法による斬新さよりもダイナミックなピアノの妙技にリスナーの関心は向かおう。管弦楽のバックは意図的にか、目立たせず相当音量を抑えた対応を感じさせる(トロント、マッシー・ホールで収録)。
<収録情報>
・シェーンベルク:ピアノ協奏曲 Op.42:ロバート・クラフト/CBC響(1961年1月21日)・モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番:ワルター・ジュスキント/CBC響(1961年1月17日)
比較的ゆっくりとした一定のテンポ、一音一音を均等にキチンと表現するグールド独自の弾き方、明るい基調を維持し、あくまでもピアノ主体の出すぎぬオケの慎重な追走。過度なダイナミズムや感情移入を抑制し音楽の結晶美のみを目指したような演奏(リスナーによって好悪の分れどころだろう)。ここには「皇帝」といったある種の「まがまがしさ」は存在せず、整然と美しくも高貴なベートーヴェンの最後の協奏曲のみがある。ストコフスキーとグールドという特異の組み合わせからは想像しにくいが、大向うを唸らせるような所作は一切なく、最後まで硬質で抑制のきいた音楽が連続する。その意外性が面白い。
→ ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番&シベリウス:交響曲第5番 も参照
このあと、バッハのピアノ協奏曲の3番、5番とかけて、グールドの協奏曲にはどれも共通するものがあると感じている。
1.
一音一音をクリアに弾く一方、強烈な打鍵はひかえて表情は優しい。
2.
曲想が明るく、愉しみながら弾いている印象が強い。
3.
バックの演奏も控えめな方が好み。ここでもあまりダイナミックな追走は好きではない。つまり室内楽的ともいっていい演奏が基本。バッハ:インヴェンションとシンフォニア/イギリス組曲第1番
実はシェ―ンベルクを聴いて、これはバッハに通じている(強い影響を受けている)ということをグールドの演奏から感じた。グールドはシェ―ンベルクについて徹底的に研究して本も書いているが、その直後に録音したのがバッハ「インヴェンションとシンフォニア」である。
シェ―ンベルクの独奏曲と協奏曲を聴いて、グールドは傾向としては、独奏曲は心を深耕するように弾き、協奏曲は一種のハレの音楽として、軽く優しく弾くように感じたので、ベートーヴェン、バッハの協奏曲を比較のうえで掛けてみたわけだが、これはバッハの作風に沿っているのかも知れない。
バッハ:パルティータ(全曲)
バッハが楽譜扉に記した「心の憂いを晴らし、喜びをもたらさんことを願って」を余すところなく表現したグールドの代表盤。パルティータ(partita)は、part(部分)に通じ、さまざまな変奏曲の一部という原義があるようだが、自由な感性で、一瞬の即興的な変奏に魂を注力するのはグールドのいわば御家芸。しかし、全曲の録音は1956年2月(5番)から1963年4月(4番)まで足掛け7年にわたって慎重になされている。納得のいく成果を時間をかけて求めていくところに、グールドのもう一つの顔、真摯な完成度へのこだわりも感じる。
◆J.S.バッハ:パルティータ 全曲(録音時点)
パルティータ第1番変ロ長調 BWV.825(1959年5月1日&8日、9月22日)
パルティータ第2番ハ短調 BWV.826(1959年6月22日、23日)
パルティータ第3番イ短調 BWV.827(1962年10月18日、19日)
パルティータ第4番ニ長調 BWV.828(1962年4月11日〜12日、1963年3月19日〜20日、1963年4月8日)
パルティータ第5番ト長調 BWV.829(1956年2月9日、13日〜17日、1957年7月29日〜31日、1957年8月1日)
パルティータ第6番ホ短調 BWV.830(同上)
比較のうえでバッハ「パルティ-タ集」を聴いて、ふたたび「インヴェンションとシンフォニア」に戻る。いま気になっているのは、なぜ最後に第9番を置いたのかという点。全15曲のなかでもっとも演奏時間の長い内容の充実した曲だから、というのが一般的な見方だが、あのグールドがそんなに簡単な理由で選んだわけはない。仮説ながら、終曲のシンフォニアを聴いているとシェ―ンベルクの音楽が二重写しになるような錯覚がある。そこをもう少し考えてみたい。
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