上記は、パリ管との有名なライヴだが、ぼくは正規録音盤を聴いている。ボストン響盤も聴く。<十八番>とは、こういう演奏をいうのだろう。「幻想」ではマルケヴィッチやベイヌムも良い演奏だが、ミュンシュのちょっと真似のできないスケール感はやはり大書しておくべきだろう。
大きく、早く、熱っぼく・・・と書くといかにもお手軽な印象を与えかねないが、でも、やはり、構えが立派で、軽快なテンポを保ち、かつ汗が迸るような熱演であることがミュンシュの特色である。
クラシック音楽を聴きはじめた頃、1968年11月6日にミュンシュは逝去した。直後の11日に民放で追悼記念コンサートの放映があり、演目は「幻想」であった。当時は、こうした映像自身がめったに紹介されることがなかったから、この貴重な記録を食い入るように魅入ったと思う。
ところで、ミュンシュについては、意外なくらい『ウィキペディア』での記載が少ない。以下は全文の引用。
(参考)
【生涯】
1891年9月26日に生まれ、ドイツ語名カール・ミュンヒ(Karl Münch)。家はドイツ系のアルザス人であり、第1次世界大戦後アルザスがフランス領に戻った際いったんはドイツ国籍を選択するが、のちナチスの台頭を嫌ってフランスに帰化。その際にフランス風の名前に改めた。ヴァイオリンを学び、1926年にはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の奏者となった。ゲヴァントハウス管弦楽団で1932年まで楽長のフルトヴェングラーやワルターの下でコンサートマスターを務める。
1929年にパリで指揮者としてデビュー、1937年にパリ音楽院管弦楽団の指揮者となって、1946年まで在任した。1949年にボストン交響楽団の常任指揮者に就任、1962年までその座にあって、数々の名演を行った。1960年にボストン交響楽団、1966年にフランス国立放送管弦楽団と来日、単身では1962年に日本フィルハーモニー交響楽団を指揮するために来日している。1967年にパリ管弦楽団が組織された際には初代の音楽監督に就任したが、翌年同団とともに演奏旅行中、アメリカのリッチモンドで急逝した。
【人物】
ミュンシュは、長い指揮棒を風車のように振り回す情熱的な指揮ぶり、爆発的な熱気あふれる音楽表現で高い人気を誇った。また、即興の名手であり、大の練習嫌いとしても知られている。仮に綿密なプローベをしたとしても、本番中悪魔のような笑みを浮かべつつ練習とは全く違う指示を出すことも多かったとも言われている。生涯のほぼ半分ずつを、それぞれドイツ人とフランス人として送った彼は、両国の音楽を共に得意とした(この両国間で帰化した音楽家は意外と少ない)。ことにベルリオーズの演奏は高く評価された。その一方で、ベートーヴェンやブラームスなどでも定評がある。長いコンビだったボストン交響楽団との演奏がRCAレーベルに、晩年のパリ管弦楽団との録音がEMIレーベルに主として残されている。特に後者における、ベルリオーズの『幻想交響曲』とブラームスの第1交響曲のレコード・CDは評価が高い。また、小澤征爾やシャルル・デュトワを教えたことでも知られている。
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