夏休みで、一日中 ブルックナー三昧の生活である。どんな凡人でも日々に精進すればなにかは見えてくるものかも知れない。否、ここは酔狂人のたんなる世迷い言と思っておいたほうが良いかも・・・
8番のシューリヒト/ウイーン・フィルを聴きながらこれを書いている。ブルックナーは、汲めども尽きぬ泉が湧き出るように、ときに美しく、ときに雄々しい希代の「メロディ・メーカー」であると感じることがある。
これを、<主題(主旋律)>にすれば、ブラームスなら、その変奏によってもっともっと多くの交響曲を描くことができたのではないか。これは、彼の天敵、ハンス・リックもその才能を認めざるを得なかったブルックナーの最強の「得手」である。しかし、彼は、そうした<主題>をいとおしみながらも拘泥はせず、むしろそこに至る延々とした「過程」をこそ大切にしたのではないか。
ゼヒターから学んだ高度対位法は、「目的ではなく作曲のための手段」と言い切り、意外性を演出する強力な手法として、その禁則使用は「(大家)ワグナーは使っても良いが、教師の自分は排除する」と作曲後、その事後チェックに余念のなかったブルックナーは、いま風に言えば、音楽における頑固なコンプライアンス・オフィサーのようだ。
執拗な(ときに度を超した)同一リズムの繰り返し、音階の規則的な上下動と逆行・反復的な使用、フレーズの異様な長さのあとの突然の休止といった「忍耐」のあとに、オアシスのように出現する美々しく高貴なメロディ ーそれは完結することなく、いつしかデクレッシェンドし、また長い「忍耐」期間に舞い戻るー しかし、そのスイッチバックの情動は、折り返すごとに確実に高みに登攀していく。
ブルックナー好きは、もちろん聴く前からこのプロセスは「先刻ご承知」だから、「忍耐」も喜んで受け入れる。このあたりの所作は、ちょっと宗教的な儀式にも通じるかも知れない。また、いつしか、この「忍耐」も折りふせば、座禅にのぞむように快々とした愉楽にも通じる日がくる。
さて、待ちに待った「聴き所」の到来である。良い演奏とそうでないものとの分水嶺は、ここではっきりとでる。前者は何度聴いても心に「直入」れしてくるものだ。このシューリヒト盤がそうだ。聴き終わって、またすぐに聴きたくなる。そして2度目、3度目を聴いても、また同じ所でぞくぞくする感興が襲っている。これぞブルックナーの隠れた魅力。
だが、それは高度な作曲技法と、巧まざる心理学的な「公理」(残念ながら、いまだ、的確な説明の言葉がでてこないのがもどかしいが、この難しい言葉で代用)に負っているのかも知れない。8番のスケルツオの後半の一瞬のメランコリィなメロディなど、「ここはブラームスじゃないか!」と錯覚することさえある。もっともその直後には、また、いつもの延々と手順を踏むブルックナーに戻るのだが・・・
「忍従のあとの歓喜」といえば、まず連想するのはベートーヴェンだが、ブルックナーは、その1点において楽聖の最良の弟子とは言えまいか。また、ブルックナーは、(ご本人がよく言うように、神の啓示があったかどうかは別にしても)己のスタイルをあくまで頑なに貫こうとした筋金入りの音楽家であったと思う。
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