ベイヌムについては、その前任のメンゲルベルク(※1)との関係なくしては語れない。先代メンゲルベルクは、約半世紀の永きにわたって、コンセルトヘボウに君臨したのみならず、初代ウイレム・ケス(1854~1934年)の跡目を弱冠24才で継いだあと、実質の「ファウンダー」とでも言うべき功績を残した。彼が、コンセルトヘボウを鍛えぬき、オランダに名器コンセルトヘボウありと世に知らしめたのである。
後任のベイヌムは、この先代の推戴で37才で、地元のコンセルトヘボウの首席指揮者になるのだから、非常に優秀で、かつ世俗的にはオランダでは大成功者であったと言えるだろう。しかし、先代の存在があまりに巨大であったので、彼自身の評価は結果的に地味な感を否めない。
また、指揮者としては働き盛りの57才での早世、後任が同じオランダ出身の俊英、話題性のある若きハイティンクであったことから、ベイヌム時代は「中継ぎ」のような印象があり、余計に地味に映ってしまう。さらに、最盛期の録音時期が、モノラル時代の最後に重なっており、その後の怒濤のステレオ時代の「エアポケット」になってしまったことも、その見事な演奏を広く知らしめるには不利であった。
加えて、ブルックナーに関しては、ハイティンクの「後見人」的に、ヨッフムがコンセルトヘボウを指導したが、彼は既にブルックナーの最高権威であり、また、ハイティンクもブルックナーを熱心に取り上げたことから、結果的に、ベイヌムの業績を目立たなくしてしまったように思う。
既に幾度も指摘をしてきたが、マーラーと親交があり、それを積極的に取り上げたメンゲルベルクは、ブルックナーについてはあまり関心がなかったようだ。しかし、ベイヌムはそのデビューがブルックナーの8番のシンフォニーであったことが象徴的だが、ブルックナーも進んで演奏している。そして、その記録はいま聴いても、ヨッフム、ハイティンクとも異なり、けっしてその輝きを失っていない。
http://shokkou.spaces.live.com/blog/cns!9E9FE7463122BF4E!415.entry?&_c02_owner=1
ぼくは、コンセルトヘボウの幾分くすんだ、ヴァイオリンから低弦まで美しく見事にハーモナイズされた弦楽器群のサウンドが好きで、その「テイスト」はブルックナーに良く合うと思う。また、オランダは、オルガン演奏も熱心で先進国であるようだが、このホール専属オケ自体がオルガン的な響きを有しているようにも思う。だからと言うわけではないが、コンセルトヘボウ奏でるブルックナーは、いまや誰が振っても一定のレベルにはいくのではないかとさえ感じる。
しかし、ベイヌムの弦楽器、木管楽器、管楽器の「鼎」のバランスはなんとも絶妙で、かつ、そのテンポの軽快感とオーケストラの自主性を重んじるような自然の運行あればこそ、ベイヌム独自の魅力的なブルックナー像を啓示してくれていると思う。
※1:メンゲルベルク(1871~1951年)は、ドイツ系のオランダの指揮者。生地ユトレヒトの音楽学校とケルン音楽院に学び,1892年ルツェルン管弦楽団の指揮者となる。1895年,創立まもないアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の常任指揮者に就任。マーラー、R.シュトラウスなどでも定評のある演奏を残した。
http://kotobank.jp/word/%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF
※2:エドゥアルト・ファン・ベイヌム (Eduard van Beinum, 1901年9月3日 - 1959年4月13日) はオランダの指揮者。
オランダ東部の町アルンヘム生まれ。ヴァイオリンとピアノを学び、16歳でアルンヘム管弦楽団のヴァイオリニストとして入団。翌年にはアムステルダム音楽院に入学し、ピアノ、ヴィオラ、作曲を学ぶ。
1920年にはまずピアニストとしてデビューしたが、まもなく指揮者に転向した。1927年に指揮者としてデビューし、同時期にハールレム交響楽団の音楽監督に就任。1929年の6月に、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団へのデビューが大成功を収め、1931年にピエール・モントゥーの推薦とウィレム・メンゲルベルクの招きで同楽団の次席指揮者となった後、1938年からはメンゲルベルクとともに首席指揮者として活躍した。
戦後の1945年、メンゲルベルクがナチスへの協力の廉でスイスに追放されると、ベイヌムはメンゲルベルクの後をついで、コンセルトヘボウ管弦楽団の音楽監督兼終身指揮者に就任した。またコンセルトヘボウ管弦楽団とのロンドン公演が大成功を収め、1949年から1951年にかけてロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任。1954年にはフィラデルフィア管弦楽団を指揮してアメリカへのデビューを果たして大成功を収めている。1956年から1958年にかけて、ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者として迎えられた。
しかしベイヌムは元来病気がちで、晩年には心臓疾患を患っていたが、1959年の4月13日に、アムステルダムでブラームスの交響曲第1番のリハーサルを行っていた最中に心臓発作で倒れ、57歳の若さで急逝した。
バッハからドビュッシー、バルトークやオランダの現代音楽に至るまで幅広いレパートリーを誇っていたが、とりわけ古典派・ロマン派音楽の演奏には定評があった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用
後任のベイヌムは、この先代の推戴で37才で、地元のコンセルトヘボウの首席指揮者になるのだから、非常に優秀で、かつ世俗的にはオランダでは大成功者であったと言えるだろう。しかし、先代の存在があまりに巨大であったので、彼自身の評価は結果的に地味な感を否めない。
また、指揮者としては働き盛りの57才での早世、後任が同じオランダ出身の俊英、話題性のある若きハイティンクであったことから、ベイヌム時代は「中継ぎ」のような印象があり、余計に地味に映ってしまう。さらに、最盛期の録音時期が、モノラル時代の最後に重なっており、その後の怒濤のステレオ時代の「エアポケット」になってしまったことも、その見事な演奏を広く知らしめるには不利であった。
加えて、ブルックナーに関しては、ハイティンクの「後見人」的に、ヨッフムがコンセルトヘボウを指導したが、彼は既にブルックナーの最高権威であり、また、ハイティンクもブルックナーを熱心に取り上げたことから、結果的に、ベイヌムの業績を目立たなくしてしまったように思う。
既に幾度も指摘をしてきたが、マーラーと親交があり、それを積極的に取り上げたメンゲルベルクは、ブルックナーについてはあまり関心がなかったようだ。しかし、ベイヌムはそのデビューがブルックナーの8番のシンフォニーであったことが象徴的だが、ブルックナーも進んで演奏している。そして、その記録はいま聴いても、ヨッフム、ハイティンクとも異なり、けっしてその輝きを失っていない。
http://shokkou.spaces.live.com/blog/cns!9E9FE7463122BF4E!415.entry?&_c02_owner=1
ぼくは、コンセルトヘボウの幾分くすんだ、ヴァイオリンから低弦まで美しく見事にハーモナイズされた弦楽器群のサウンドが好きで、その「テイスト」はブルックナーに良く合うと思う。また、オランダは、オルガン演奏も熱心で先進国であるようだが、このホール専属オケ自体がオルガン的な響きを有しているようにも思う。だからと言うわけではないが、コンセルトヘボウ奏でるブルックナーは、いまや誰が振っても一定のレベルにはいくのではないかとさえ感じる。
しかし、ベイヌムの弦楽器、木管楽器、管楽器の「鼎」のバランスはなんとも絶妙で、かつ、そのテンポの軽快感とオーケストラの自主性を重んじるような自然の運行あればこそ、ベイヌム独自の魅力的なブルックナー像を啓示してくれていると思う。
※1:メンゲルベルク(1871~1951年)は、ドイツ系のオランダの指揮者。生地ユトレヒトの音楽学校とケルン音楽院に学び,1892年ルツェルン管弦楽団の指揮者となる。1895年,創立まもないアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の常任指揮者に就任。マーラー、R.シュトラウスなどでも定評のある演奏を残した。
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※2:エドゥアルト・ファン・ベイヌム (Eduard van Beinum, 1901年9月3日 - 1959年4月13日) はオランダの指揮者。
オランダ東部の町アルンヘム生まれ。ヴァイオリンとピアノを学び、16歳でアルンヘム管弦楽団のヴァイオリニストとして入団。翌年にはアムステルダム音楽院に入学し、ピアノ、ヴィオラ、作曲を学ぶ。
1920年にはまずピアニストとしてデビューしたが、まもなく指揮者に転向した。1927年に指揮者としてデビューし、同時期にハールレム交響楽団の音楽監督に就任。1929年の6月に、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団へのデビューが大成功を収め、1931年にピエール・モントゥーの推薦とウィレム・メンゲルベルクの招きで同楽団の次席指揮者となった後、1938年からはメンゲルベルクとともに首席指揮者として活躍した。
戦後の1945年、メンゲルベルクがナチスへの協力の廉でスイスに追放されると、ベイヌムはメンゲルベルクの後をついで、コンセルトヘボウ管弦楽団の音楽監督兼終身指揮者に就任した。またコンセルトヘボウ管弦楽団とのロンドン公演が大成功を収め、1949年から1951年にかけてロンドン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任。1954年にはフィラデルフィア管弦楽団を指揮してアメリカへのデビューを果たして大成功を収めている。1956年から1958年にかけて、ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団の終身指揮者として迎えられた。
しかしベイヌムは元来病気がちで、晩年には心臓疾患を患っていたが、1959年の4月13日に、アムステルダムでブラームスの交響曲第1番のリハーサルを行っていた最中に心臓発作で倒れ、57歳の若さで急逝した。
バッハからドビュッシー、バルトークやオランダの現代音楽に至るまで幅広いレパートリーを誇っていたが、とりわけ古典派・ロマン派音楽の演奏には定評があった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用