出勤途上で交響曲3番を聴いていた。クーベリックの演奏。ふと、こんなことを考える・・・
この曲は生々しくもブルックナーが自分の個性に目覚め、それを世にぶつけたセンセーショナルな作品だ(その試みは当初、無惨に打ち砕かれるが)。
破壊と創造の交互の繰り返し、エネルギーの蓄積と放出の全過程、知覚的なものと啓示的なものの共存、自己を確立せんとする精神の葛藤・・・。いろんなものが<混在>しており、しかし、音楽的には構築力にとことん拘り、<整合性>を大切にするーある種の<矛盾>。
これは結果的にマーラー以降の交響曲の「作風」に大きな影響を与えた。だからこそ、上記の叙述はマーラーにも新ウイーン学派にも共通するような部分があるのだろう。しかし、これは作曲の「方法論」としてではない。ブルックナーはまったく自然に、そうした営為に集中している。だからこそ、何を書いても(技術的な向上はあるにせよ)、ある意味では、同じ音楽の変奏でしかない。生涯にわたって未完のひとつの巨大な変奏曲を書いた。しかし、その変奏曲には折々に、親しいフォークロア(そう、バルトークが生涯こだわったような!)が挿入され、我慢と忍耐ののち壮大なコーダが登場する。特に、コーダに向かうとき、ブルックナーの神経は全集中し、前人未踏な管弦楽のスケールの大きさを示す。それは音量の問題ではなく、構えの大きさとでも言えようか。晴天の日、とてつもなく壮大な門を足下から見上げるような感じがある。
・・・ぼけっと、そんなことを考えていると電車に乗り遅れるぞ!
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