金曜日, 2月 11, 2011

カラヤン Karajan Symphony Edition 


 
カラヤンはデビュー以来、晩年にいたるまで常に時代の寵児であり、並ぶものなきスターであった。よって、その膨大な録音記録(同一演目の再録音が多いことでも例がない)が以下の年代別に出ている。

カラヤンは、大宗において初期から後期に至るまで、その演奏スタイルは一貫している。その一方、初期は並々ならぬ気迫に満ちており、後期は同時代の先頭を走るがごとく音響学的に充実している。しかし、両者は時とともにいわば【トレード・オフ】の関係にある。 

小生は初期カラヤンの「斬新さ」に強い魅力を感じる一人(★)だが、カラヤンを評価するという共通の立ち位置から、どの時代のカラヤンを聴くかはリスナーの嗜好如何と言えよう。70年代のカラヤンは、覇気、音響両ファクターで丁度「中庸」の時代と言えるかも知れない。 

★デビューから1960年まで(1938-60年)
Herbert von Karajan: Recordings 1938-60 Collection
 
第二次大戦後、フルトヴェングラーが苦労のすえ古巣のベルリン・フィルの指揮台に再び立ち、その復興に尽力したことが、どれほど大きくベルリン市民のみならずドイツ国民全体に勇気を与えたか。同様に、冷戦下の大変厳しい政治環境にあって、カラヤンが、世界最高のスキル・フルな楽団としてのベルリン・フィルをいかに手塩にかけて育て上げ世に問うたか。それによって、当時「孤島ベルリン」の安全保障になんと有形・無形の貢献をしたことか。
いまから過去を振り返れば、至極あたりまえに見えることが、両人の血の滲むような努力なくしては決して成し得なかったことを考えると、フルトヴェングラーからカラヤンにいたる連続した時代の重みをズシリと感じる。
そのカラヤンのデビューから1960年までの昇竜期の117枚の記録。以下は小生の聴いてきた初期の録音を中心に若干のコメントを。

まず、1938〜43年にかけてのSP録音の≪序曲/前奏曲集≫。戦前、戦中の若き日のカラヤンの英姿がここにある。ドイツ・イタリア枢軸国の代表的な名曲集といった「きな臭い部分」はあろうが、耳を傾けると、そこには類い希な才能にめぐまれた若手指揮者の立ち姿が浮かび上がってくる。特に、イタリアものの響きが、切なく可憐で、しかも初々しくも凛々しい。よくこんな音楽を奏でることができるものかと思う。30代前半のカラヤンの充ち満ちた才能に驚く1枚。

◆序曲集 Herbert von Karajan : The Early Recordings (1938-1946)
(1938年2月〜)
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同様に30歳台を中心とするカラヤンの青壮年期の記録。圧倒的なスピード感、メリハリの利いた解釈、気力溢れる演奏。しかし、力押しばかりでなく、ときに柔らかく溌剌としたフレーズが心に滲みてくる。天才的な「冴え」である。後日、ベルリン・フィルがフルトヴェングラーの後任にカラヤンを指名した理由がよくわかるような気がする。カラヤンのベートーヴェンの斬新さはいま聴いても凄いと思う。
40年代のコンセルトヘボウとの共演も興味深く、ブラームス交響曲第1番でのカラヤンは溌剌とし実に巧い。

◆ベートーヴェン 交響曲第3番  Herbert von Karajan : Early Recordings, Vol. 7 (German Radio Recordings 1944)
(1944年5月)
◆ベートーヴェン 交響曲第5番  Symphony 5/Adagio
(1948年11月)
◆ベートーヴェン 交響曲第7番  Herbert von Karajan : Early Recordings, Vol. 3 (1941-1942)
(1941年6月)
◆ベートーヴェン 交響曲第9番  Herbert von Karajan - Beethoven: Symphony No. 9
(1947年11月〜12月)
◆ブラームス 交響曲第1番 Herbert von Karajan : Early Recordings, Vol. 6 (Amsterdam 1943)
(1943年9月6〜11日)
◆チャイコフスキー 交響曲第6番 Herbert von Karajan (Early Recordings Volume 1 1938 - 1939)
(1939年4月15日)
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カラヤン、50年代のフィルハーモニア管弦楽団との演奏。モノラルながら聴きやすい録音。明確な解釈、快速な運行、品位ある抒情性に特色。特に、ヴェルディ「レクイエム」は迫力にあふれた出色のもの。
協奏曲では相性のよいギーゼキングとベートーヴェンの4,5番、グリーグなども名匠ギーゼキングと相性よく粒ぞろいの名曲・名演集となっている。

◆1950年代ボックス・セット(各10枚) Karajan
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1951年、カラヤンのバイロイト音楽祭「デビュー戦」の旧盤。カラヤンの凄まじいまでのプライドと気概が伝わってくる演奏。これはカラヤン・ライブラリイのなかでも、その異質性において、インパクトの強い代物である。カラヤンは自己主張がはっきりしている性格。天下のバイロイトも翌年はでたがその後、演出の考え方の相違で袂をわかって足を運ばず。後にウィーン国立歌劇場とも同様に決裂。「既存」の「権威」に対して、いつでも闘うがゆえの「帝王」の呼称か。しかし、音楽の豊かさ、しなやかさ、抒情性などは別物。素晴らしく純化され、しかし颯爽としたマイスタージンガーの演奏である。

◆ワーグナー マイスタージンガー  Wagner: Die Meistersinger
(1951年8月)
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1950年代の古い音源で、その後の新録もあるのでスーパー廉価盤。しかし、いずれも歴史的名演の名を欲しい儘にしてきたもの。この時代ならではの名歌手の熱唱がぎっしりと詰まっている。
  「レクィエム」は、リザネク、クリスタ・ルートヴィヒらによるザルツブルグ音楽祭のライヴ録音。「アイーダ」は、テバルディ、ベルゴンツィ、シミオナートが競演したもので、テバルディにとっても代表盤。同じく、「トロヴァトーレ」はカラス、ステーファノ、パネライが、「ファルスタッフ」では、ゴッビ、シュヴァルツコップにくわえて美貌でならした若きアンナ・モッフォを起用。
 ベルリン・フィルに活動を集中する以前、ウィーン、ザルツブルク、ミラノ、ロンドンを股にかけ、欧州オペラ界を制覇したかの観のある帝王カラヤンの最盛期の記録である。

◆カラヤン ヴェルディ集 Verdi/ Aida - Il Trovatore - Falstaff - Requiem

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60年代
Karajan 1960's: the Complete DG Recordings

70年代
Karajan 1970's: The Complete DG Recordings

80年代
Karajan 1980s: Complete Deutsche Grammophon Recordings 1979-1990


 
また、これとは別にオペラ演目し絞った
Various: the Opera Recordings

本集は、70年代を中心に、8人の作曲家による59曲の交響曲集(ほかに序曲なども収録)を38枚のCDに収めた超×超廉価盤である。

その内訳は、ベートーヴェン9曲(6枚組:1975-77年録音)、ブラームス4曲(3枚組:1977,78年録音)、ブルックナー9曲(9枚組:1975-81年録音)、ハイドン18曲<パリ・セット6曲、ロンドン・セット12曲>(7枚組:1980-82年録音)、メンデルスゾーン5曲(3枚組:1971,72年録音)、モーツァルト10曲<29,32,33番、35~41番:1965,75-77年録音>(3枚組)、シューマン4曲(3枚:1971,87年録音)、チャイコフスキー6曲(4枚:1975-79年)となっている。
 

Beethoven: The 9 Symphonies, Overtures
 
Karajan Symphony Editionにて聴取。カラヤンの70年代のベートーヴェン。1970年大阪万博でカラヤンの交響曲第4番、第7番をライヴで聴いた。強烈なインパクトであった。

カラヤンは、大宗において初期から後期に至るまで、その演奏スタイルは一貫している。その一方、初期は並々ならぬ気迫に満ちており、後期は同時代の先頭を走るがごとく音響学的に充実している。しかし、両者は時とともにいわばトレードオフの関係にある。

一例としてベートーヴェンの第5番をみれば、40年の懸隔のある初期(初出の1948年11月盤 20th Century Maestros にて聴取可能)と後期(最後の1988年12月盤)の楽章別演奏時間は、I. Allegro con brio(7:21、7:29)、 II. Andante con moto(10:45、9:43)、III. Allegro(5:00、5:15)、 IV. Allegro(8:45、9:00)、全体計(31:51、31:27)である。初期盤ではII.で大胆に減速はしているがそれ以外は驚くべきほど差がないことがわかる。

小生は初期カラヤンの「斬新さ」に強い魅力を感じる一人だが、カラヤンを評価するという共通の立ち位置から、どの時代のカラヤンを聴くかはリスナーの嗜好如何と言えよう。70年代のカラヤンは(それはもちろんベートーヴェンに限らないが)、覇気、音響両ファクターで丁度「中庸」の時代と言えるかも知れない。
 
Brahms: The Symphonies
 
Karajan Symphony Editionにて聴取。カラヤンの70年代のブラームス。1970年大阪万博でカラヤン/ベルリン・フィルは大阪ではベートーヴェンの交響曲全曲演奏、一方、東京ではざまざまな演目を取り上げたが、ブラームスの第2番、第3番をライヴで聴いた。強烈なインパクトであった。

カラヤンは、大宗において初期から後期に至るまで、その演奏スタイルは一貫している。その一方、初期は並々ならぬ気迫に満ちており、後期は同時代の先頭を走るがごとく音響学的に充実している。しかし、両者は時とともにいわばトレードオフの関係にある。

一例としてブラームスの交響曲ではカラヤン、現存する最初の録音記録である第1番(1943年9月6~11日、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団との演奏  Maestro Vol. 1: Herbert von Karajanにて入手可能)を比較の上で取り上げよう。

第1楽章冒頭の重くパセティックな出だしから、基本的にカラヤンの解釈は後年のあまたの録音と変わっていないことに驚く。テンポは遅くじっくりと音を積み上げていく。一方、フレーズは短く艶やかに処理していく。
第2楽章のアンダンテ・ソステヌートは、明暗交錯する複雑な心理の綾を表情豊かに描いてみせる。やや濃厚な味わいという気もするが、この時代のコンセルトヘボウの音色ゆえかも知れない。
第3楽章に入ると速度を上げ陰から陽への移行提示がこめられる。終楽章の劇的な展開も後年の録音と共通し、すっきりと機敏な進行は思い切りがいい。全般に、なお荒削りながらもブラームス解釈を概成していた若き日のカラヤン像がそこにあり、後年はこれに老練の技が加わっていったという感想をもつ。

小生は初期カラヤンの「斬新さ」に強い魅力を感じる一人だが、カラヤンを評価するという共通の立ち位置から、どの時代のカラヤンを聴くかはリスナーの嗜好如何と言えよう。70年代のカラヤンは(それはもちろんブラームスに限らないが)、覇気、音響両ファクターで丁度「中庸」の時代と言えるかも知れない。

価格の信じられない安さに加えて、かつてカラヤンの「バラ売り」では入手できなかった曲(初期のブルックナーやチャイコフスキーなど。そうした一般にはマイナーなものでも一切の妥協のない質の高さを誇る。ブルックナー Karajan Bruckner: 9 Symphonies はヨッフム盤とともに、チャイコフスキーTchaikovsky: The Symphoniesはムラヴィンスキー盤とともにいまもベストの全集と言ってよい)も所収されており、その点でもコレクション上、誠に有意である。
 

Karajan Bruckner: 9 Symphonies
 
≪カラヤンのブルックナー≫
1950 年代、日本でいまだブームが胎動するまえだが、ブルックナーのレコードはなかなか入手できなかった。フルトヴェングラー、ワルター、クナッパーツブッシュ、コンヴィチュニー、ヨッフムらが先鞭をつけたが、カラヤン/ベルリン・フィル盤の8番 Bruckner: Symphony No.8 - Overtures by Mendelssohn, Nicolai, Wagner & Weber が1959 年頃にリリースされ、名演の誉れ高しとの評価を得た。

1930 年代から幅広い演目で多くのレコードを精力的に録音してきたカラヤン Herbert von Karajan in Berlin The Early Recordings だが、ブルックナーの取り上げについては実は慎重な印象があった。いまでは全く考えられないことだが、「カラヤンはブルックナーが実は苦手なのでは・・」といった勝手な風説すら当時の日本ではあった。

1970 年頃を境に、この「風説」が一吹される。順番は別として、4,7,9番が相次いでリリースされ、その録音がベルリンの教会で行われたことから残響がとても豊かで美しく、ブルックナーのシンフォニーに見事に適合しており、これを境にブルックナーはカラヤンのメインのレパートリーと認識されることになった。

その後、この全集がでて、カラヤンの評価は決定的となる。1,2,3,5,6番の正規録音(ライヴ盤を除く)はこの全集所収のみである。再録の多いカラヤンにあって、これは記憶にとどめておいていいだろう。いずれも非常にレヴェルの高き演奏で、カラヤンは3,5番は別の機会を考慮していたかも知れないが、概ね「これで良し」と一応の評価をしていたのではないかと考える。5番および6番については1楽章を欠いているがフルトヴェングラーの音源があるけれど、他はフルトヴェングラーの記録はない。カラヤンは密かに独壇場と思っていたかも知れない。

晩年、ウィーン・フィルとの7,8番が出る。特に7番は、ブルックナーの作曲時のエピソード(ワーグナーへの葬送)に加え、死の3ヶ月前の最後の録音であったことから、カラヤン自身への「白鳥の歌」と大きな話題を呼んだ。オーストリア人カラヤンにとって、故国の大作曲家たるブルックナーは、むしろ特別な存在であったのかも知れない。なお、7,8番に関しては、この新録音よりも本全集所収の旧録の迫力を小生は評価している。

全番に一貫するカラヤンらしい明晰な解釈、流麗な音の奔流、なによりもその抜群の安定感からみて、ヨッフムとともに全集決定盤の最右翼である。
 
Tchaikovsky: The Symphonies

Tchaikovsky: The Symphonies

カラヤンは、チャイコフスキーを得意としていた。交響曲第1〜3番は全集化するための一種の「消化試合」でたった1回の録音だが、4番は53〜85年にかけて8、5番は52〜84年にかけて10、そして6番にいたっては39〜88年に14の録音記録があるようだ(旧録として Masterworks も参照)。特に「悲愴」は半世紀にわたって主要演目の中心にあったことがわかる。

本集はこのうち75〜79年(スラヴ行進曲、イタリア奇想曲は66年)の録音だが、メロディの彫琢において完成度が高い一方、覇気の優越においては、それ以前の後期3曲を一気に収録した71年盤 
Symphonies Nos 4 5 & 6 (Bril) のほうに軍配を上げる向きもあろう。

カラヤンのチャイコフスキー(に限らないかも知れないが)には一定の「節度」を感じる。メランコリーはあるが、それにのめり込まずメロディの美しさが強調される。劇的な表現でも「激烈」にはならず、オーケストラのバランスは崩れない。全体が調和とともに最大のボルテージに達する。チャイコフスキーは聴かせどころ満載で、両者の交互の相克はスリリングである。

「悲愴」はその典型であり、小生は聴きなれた64年盤 
チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」/バレエ組曲「くるみ割り人形」 が好みだが実にカラヤン手中の演目であったろう。

ほとんどをライヴ(197086年)、LP、テープ、CDで聴いてきた身からすれば、腹立たしさすら感じる強烈な<価格破壊>だが、カラヤン生誕100周年記念のドイツ・グラモフォンのファン・サービスと考えようか。

カラヤン嫌いの向きは別として最盛期の集大成であり、その均質性、完成度から各作曲家別に通番で聴く選択としては、いまも最優秀。

<2016.5.14追記>

Karajan Symphony Edition
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