昨日から2回連続で聴いている。いままでにいくども耳を傾けその都度、文章化できずに終わっている。以前には演奏評以前ながら、こんな感想を記した。
録音は第1楽章にはかなり不満を感じるが、徐々に良くなり(あるいは耳が慣れてきて)第3楽章の音の分離はけっして悪くない。ベルリン・フィルもベストの状況ではないであろうが、その集中力はたいしたものである。
演奏時間を比較してみよう。過去に書いたものとの比較だが、以下のとおり。
①
フルトヴェングラー/ベルリン・フィル 1944年
(23:40, 9:30, 25:35)
②
ヨッフム/ベルリン・フィル 1964年
(23:11,9:43,27:39)
③
ジュリーニ/ウィーン・フィル 1988年
(28:02,10:39,29:30)
④
シューリヒト/ウイーン・フィル 1961年
(25:30,10:25,20:15)
第3楽章を典型に全体に快速感のあるシューリヒトほどではないが、フルトヴェングラーのテンポが速く、第2楽章は4つの比較ではもっとも短い。非常に凝縮感のある演奏なので、これはちょっと意外な印象である。
第2楽章は、前述のように急なテンポで思い切りのよいスケルツォ。リズムが跳躍し若々しい力動感がある一方、それを覚めた遠目で眺めているような老人のごとき詠嘆的エレジーも挿入される。しかし全般には、フルトヴェングラーお得意の鉈で薪を次々に割っていくような激しいリズムの刻み方が耳に残る。
第3楽章。俊足な前楽章とのコントラストで、冒頭の慎重な処理は第1楽章同様、姿勢を正すような独特の緊張感とともにある。さて、その表情は複雑で解析しにくい。シューリヒトやワルター(※1)のような恬淡さとも、対極の立つチェリビダッケのような濃厚濃密さ(※2)とも異なる。
あえて言えば、未完のものは、あるがまま未完で置いておこうといったザッハリッヒな解釈ともいえる。ブルックナーが「生との訣別」と言ったという荘厳なコラール風楽曲も、べたつく感情はなく、むしろ凛と美しく上質な響きを際立たせている。その一方、前後では不協和音の表象も等量に響き渡る。
音が重い。その重量感はベルリン・フィル低弦の威力に支えられているが、ワーグナーチューバと交感しつつ、厚みある重層的な響きに結実していく。
フルトヴェングラーのブラームスの名演同様、その構成力からはドイツの誇る「絶対音楽」の精華、ここにありといったアプローチであろうか。静謐なコーダの終了。純音楽的深い感動が後に尾をひく。
■※1 ワルター/コロンビア響(1959年11月)
■※2 チェリビダッケ/シュトゥットガルトSO(1974年4月5日)
■ブルックナー vs シューリヒト
0 件のコメント:
コメントを投稿