土曜日, 10月 30, 2010

チェリビダッケ ブルックナー9番


 チェリビダッケのブルックナー交響曲第9番の録音は、少なくとも以下の3つが入手可能である。
1.録音:1969年5月2日 トリノRAI交響楽団 
2.録音:1974年4月5日 シュトゥットガルト、リーダーハレ[ステレオ] 
3.録音:1995年9月10日 ミュンヘン・フィル(ライヴ) 

いま聴いているのは、2であるが、重厚かつ真に厳しい感性が伝わってくる。特に終楽章の充実ぶりには舌を巻く。ここまで高密度で内的な力の籠もった演奏ができるということは、偶然ではありえない。いかに、チェリビダッケがこの曲を自家薬籠中のものとしていたか、「驚異的」という言葉を思いつく。

ハイティンク ブルックナー4番


 ぼくは、コンセルトヘボウのブルックナーではベイヌムの演奏が好きだ。ヨッフムも5番などは独壇場。さて、その後任のハイティンクは、一所懸命、先人の背中を追いながら、なかなかその距離が縮まらないと思ってきた。そのうち、代替わりがあってシャイーがでてきた。シャイーはジュリーニばりに音楽を柔らかく包括的にとらえ、他方、その音を磨き込み、先人とは違うアプローチでブルックナー演奏でも存在感を示した。

 さて、そのハイティンクの4番。オーケストラはウイーン・フィル。1985年の録音。聴いていて、素直にいいなと思える演奏である。ハイティンク、会心の出来ではないか。不慮の水死を遂げたケルテスも、ウイーン・フィルとはブラームスで立派な業績を残しているけれど、この狷介で、ときにじゃじゃ馬的な天下の名門オケは興が乗れば、凄い演奏をする。ブルックナーの4番では、ベームの秀演があるけれど、ハイティンクは、ベームには届かないものの、それ以来の録音を残したと言っても良いかも知れない。

金曜日, 10月 29, 2010

アイヒホルン ブルックナー5番


 アイヒホルンがバイエルンを振って、聖フローリアン教会でライヴ収録した5番。1990年の演奏だから晩年に近い記録だが、生き生きとした息吹は「老い」というより「老練」という言葉を惹起させる。解説書を読まずにまずは耳を傾ける。もしも、ブラインドで、オーケストラだけ知らせて、「さあ指揮者は誰?」と問えば、ヴァントかな・・・?否、ヨッフムではないか・・・?といった回答が多いのではないかと思う。

 端整、オーソドックスな解釈で、第1楽章の充実ぶりに特色があり、4楽章全体の力の入れ方のバランスが実に良い。その一方、第4楽章は引っぱるところは思いっきり伸ばし、残響豊かにブルックナー・サウンドを展開する。小刻みにアッチェレランドやリタルダンドも駆使する場面もあるけれどそう不自然さは感じない。テンポに関して小生の好みから言えば、いささか遅すぎ、ときに緊張感を削ぐけれど、実演に接しているリスナーには別の感動があったのかも知れない。

 アイヒホルンもブルックナー指揮者の一角をしめ、リンツ・ブルックナー管弦楽団との諸作品が残されているが、ヴァント、朝比奈隆らとともに晩年、特にその動静が注目された。「早起きは三文の得」をもじって、ブルックナー演奏に関しては、「長生きは指揮者冥利」とでもいうべきか。ヴァントはベルリン・フィルを、朝比奈はシカゴ響を、そしてアイヒホルンはこのバイエルンを振って話題を集めた。老いの一徹がなぜかブルックナーには良く合うのが不思議ではある。

(参考)以下はウィキペディアの引用
クルト・ペーター・アイヒホルン(Kurt Peter Eichhorn, *1908年8月4日 ミュンヘン - †1994年6月29日 ムルナウ)はドイツの指揮者。ヴュルツブルクで音楽教育を受け、1945年からミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団、バイエルン国立歌劇場、ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者を務めるかたわら、ミュンヘン音楽アカデミーで教鞭を執る。リンツ・ブルックナー管弦楽団の桂冠指揮者に任ぜられて、日本のカメラータ・レーベルにブルックナーの《交響曲第2番》ならびに《第5番》から《第9番》までを録音した。これらの音源はいずれも、ギュンター・ヴァントの解釈に匹敵するものとして批評筋から評価が高い。また、《第9番》の第4楽章補作版を録音している。また、音楽監督をつとめたミュンヘン・ゲルトナープラッツ劇場を拠点に長年オペレッタやオペラを指揮。数点のオペレッタ録音では、青年期にここで修行したC・クライバーを連想させる推進力に満ちた指揮ぶりを残している。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%92%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%83%B3

スクロヴァチェフスキ ブルックナー第2番


 スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮ザールブリュッケン放送交響楽団の演奏。ジャケットは全集で本盤とは別、ここで取り上げるのは交響曲第2番(1877年、第2稿)。1999年の録音、基本的にはライヴ盤だが、部分的には微調整がなされ、その後の編集で修正されているようだ。
 ブルックナー愛好家の特色は、一種の判官贔屓(レパートリーの広い大家よりもブルックナーに「強い」指揮者を好む)、来日演奏家への敬意(もちろん、いわゆる「畢生の演奏」をやった人)、高齢者尊重といった傾向がある。この3要素をスタニスラフ・スクロヴァチェフスキは見事に満たしている。
 聴いていて、根強いファンがいる理由がよくわかる。きめ細かい周到な解釈、オーケストラを縦横にコントロールして渋い良さを引き出す、76才のブルックネリアーナ指揮者としての充実した演奏。かつてのマタチッチ、レーグナーなどの系譜を継いで、スクロヴァチェフスキも訪日時に多くファンに親しまれている。
 この2番も良い演奏である。アクがない素直さが持ち味。難を言えば淡泊すぎて突出した個性が乏しいことだろうか。レーダーチャートで分析すれば、どの要素も平均をはるかに超えるが、ここが一番といったところが際だたない。しかし、そうした演奏スタイルがあってもよいと思う。同じ2番でショルティ盤と聴き比べる。キュッキュと締めた演奏のショルティに対して、オーケストラを無理なく緩めにコントロールしているスクロヴァチェフスキの姿が浮かび上がる。どちらの行き方もあるのだろうし何が好ましいかは聴き手の心象次第とも言える。


(参考)以下はウィキペディアからの引用
スタニスワフ・スクロヴァチェフスキ(Stanisław Skrowaczewski, 1923年10月3日 -)は、ポーランド出身の指揮者、作曲家。ファースト・ネームは日本では「スタニスラフ」と表記されることが多い。名前が長く読みにくい為、欧米では略してMr.Sとも呼ばれる。彫琢された細部の積み重ねからスケールの大きい音楽を形成する独特の指揮で定評がある。作曲家としての活動も活発で、世界的評価がある。

ポーランドのルヴフ(現ウクライナ)生まれ。4歳でピアノとヴァイオリンを始め、7歳でオーケストラのための作品を作曲したという。11歳でピアニストとしてリサイタルを開き、13歳でベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を弾き振りするなど、神童ぶりを発揮した。しかし、第二次世界大戦中の1941年、ドイツ軍の空襲によって自宅の壁が崩れて手を負傷したため、ピアニストの道を断念。以後、作曲と指揮に専念するようになる。
1946年、ブロツワフ・フィルハーモニー管弦楽団指揮者。
1949年、カトヴィツェ・フィルハーモニー管弦楽団指揮者。
1954年、クラクフ・フィルハーモニー管弦楽団指揮者。
1956年、ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団音楽監督。同年、ローマの国際指揮者コンクールに優勝。
1958年、ジョージ・セルから招かれて渡米、クリーブランド管弦楽団を指揮してアメリカデビューを果たす。
1960年-1979年、ミネアポリス交響楽団(現ミネソタ管弦楽団)音楽監督。現在桂冠指揮者。
1984年-1991年、イギリスのハレ管弦楽団(マンチェスター)首席指揮者。
1994年からザールブリュッケン放送交響楽団(現ザールブリュッケン・カイザースラウテルン・ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団)首席客演指揮者。
2007年4月、読売日本交響楽団常任指揮者(~2010年3月〔2010年4月から桂冠名誉指揮者〕)。

もともと実力派の指揮者として好事家の支持を受けていた。1960・70年代のミネアポリス交響楽団音楽監督時代には、マーキュリー・レーベルに大量の録音を行い、同レーベルの録音の優秀さとともに注目を集めていた。1990年代以降、ザールブリュッケン放送交響楽団とのブルックナーの交響曲全集録音でカンヌ・クラシック賞及びマーラー・ブルックナー協会の金メダルを受賞し、ウィーンではトーンキュンストラー管弦楽団などを指揮し、日本でも一躍知られるようになった。ウィーン国立歌劇場、メトロポリタン歌劇場、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、フランス国立管弦楽団、ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団、フィラデルフィア管弦楽団など世界各地の歌劇場・オーケストラに客演している。日本では、NHK交響楽団と読売日本交響楽団、さらに札幌交響楽団に客演している。
録音も多く、そのどれもが水準が高いが、とりわけ、ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー、ショスタコーヴィチの演奏は名盤とされる。現在アメリカ・ミネアポリス市在住。

【作曲家としての活動】
戦後の1947年にフランス大使館の奨学金を受けて2年間パリに滞在、ナディア・ブーランジェやアルチュール・オネゲルに作曲を師事した。パリ滞在中に、「ゾディアク」という前衛グループを設立した。世代的にはルトスワフスキとペンデレツキの中間のポーランド楽派における繋ぎ役とされる。
20世紀を代表する作曲家ピエール・ブーレーズ、ルイジ・ノーノ、カールハインツ・シュトックハウゼンらとの交流がある。しかし、最も強い影響を受けたのは、ブルックナーという
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD

水曜日, 10月 27, 2010

アバド ブルックナー1番

 
 1996年1月ウイーンでのライヴ・レコーディング。ノヴァーク1866年リンツ稿での録音。なんとも白熱の演奏である。ウイーン・フィルは実に巧い。「ブルックナーってこんなに面白かったのか」といった新たな発見があるかも知れない。
 しかし、これは何度も聴くには問題がある。フレーズの終わりに奇妙な装飾的処理があり、はじめは新鮮、驚きをもって惹きつけられるが、繰り返し聴くとこの部分の作為性がいささかならず鼻につく。

 CD付録の解説書が参考になる。ヨッフム、ノイマンそして、カラヤンらに比べて、アーティキュレーション(※1)の技法に工夫があり、「アバドはアーティキュレーションのあり方を、音楽の進行(未来)に対して千変万化させる。それによって生まれる音楽の息づき方は、かつて出会ったことのないしなやかさを獲得する」と賛美、分析される。この指摘は聴いていて得心できる。しかし、それをもって、カラヤン(でなくとも良いのだが)の手法にくらべて、ポリフォニーが個々の楽器ごとに際だつことが、ブルックナー解釈の新たな行き方だとするのはどうかなと思う。

 アバドを聴きおわったあと、比較の対象になっているカラヤンの1番を聴く。果たしてどちらが、長期、反復的なリスニングに耐えうるのか・・・。ぼくは、明らかにカラヤン盤であると思う。サラリと処理し、全集のための消化試合といった穿った見方もあるが、完璧主義者で、あれだけ音楽に拘りのあるカラヤンが、大切なブルックナーでそんな安易な対応をするはずはない。録音の計算も周到だ。カラヤン盤は、はじめ聴くとパンチ力に欠ける印象があるだろう。弦楽器のアンサンブルが前にでて、木管のメロディの浮き彫りがこれに重なり、金管は距離をおいて抑制されたバランスで響く。アバド盤のように、金管は熱く目眩るめく鳴ってくれ!というリスナーの要望は少しく裏切られるだろう。しかし、このある意味、禁欲的なブルックナーは、硬質な初期ブルックナーらしさ(といっても何度も改訂をしているのでいわゆる「初々しさ」とは別物だが)が看取できる。なるほど、楽譜に忠実とは、安易な技巧を労さず、音楽の自然の流れを尊重することなのだなと感じる。だから反復して聴くとスーッと入ってくる。カラヤン嫌いは、この処理そのものが問題だとするのだろうが、それはさておく。

 アバド盤の熱気は若きブルックナーファンには受けるかも知れない。しかし、俗に言う、おもちゃ箱をひっくりかえしたような矢継ぎ早の個々の楽器パートの次から次へとフレーズのバトンタッチの強調は、4Dオーディオといった録音技術で一層倍加され、面白いけれどもブルックナーが本来、伝えたかったであろう素朴なメッセージを背後に隠してしまうように思える。ぼくには、地味な作家の本を派手な装丁で売っているような違和感がある。

 いわゆる初期ブルックナーでも、0番のショルティ、2番のジュリーニは、流列を尊重し、一定の抑制を効かせた、したたかな巧者であると思う。また、1番ではノイマンの駘蕩とした見事な自然さはやはり心地よい。でも、アバド盤、この白熱さをかって、これもまたありかなと今日は言っておこうか。多様性の重視、あくまでも好みの問題かも知れないし・・・。
http://shokkou3.blogspot.com/2008/05/1-19651213-14berlin-classics-0094662bc.html

(※1)アーティキュレーション(articulation)とは、音楽の演奏技法において、音の形を整え、音や音のつながりに様々な強弱や表情をつけることで旋律などを区分すること。
 フレーズより短い単位で使われることが多い。スラー、スタッカート、アクセントなどの記号やそれによる表現のことを指すこともある。アーティキュレーションの付けかたによって音のつながりに異なる意味を与え、異なる表現をすることができる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3_(%E9%9F%B3%E6%A5%BD)

金曜日, 10月 22, 2010

メータ ブルックナー0番、8番

 
 メータをはじめて聴いたのは16才の時、1969年、ロスアンジェルス・フィルとの来日演奏会だった。2夜聴いたが、9月7日に、ベートーヴェン/エグモント序曲、ストラヴィンスキー/ペトルーシュカ、ブラームス/交響曲第1番、 9月10日は、アルベニス/イベリア、セビリアの聖体祭~トリアーナ~ナバーラ、クラフト/4人の打楽器奏者と管弦楽の為の協奏曲、チャイコフスキー/交響曲第4番(いずれも東京文化会館)というラインナップであった。
 その頃、写真の「ツァラトゥストラはかく語りき」が話題となっていた。溌剌たる精気、猛進の迫力がくっきりとでており、若き獅子のイメージどおりであった。
 忘れられないのは9月7日の公演前で、文化会館の2階に早く食事をするために上がったら(当時は、ここでハヤシライスを食べるのが楽しみだった!) 、メータも正装した団員とともに腹ごしらえをしていたことである。そのフランクさというか、リラックスぶりに驚いた。当時メータは33才、写真のとおりの若さ、エネルギッシュという言葉そのものであったろう。

 さて、ブルックナーである。イスラエル・フィルを振った2曲を聴く。
<DISK1>交響曲第8番ハ短調(1890年稿 ノヴァーク版)第1~3楽章
<DISK2> 同第4楽章、交響曲第0番ニ短調(1869年稿 ノヴァーク版)
いずれも1989年の録音である。メータ53才頃の演奏である。このCD付録の解説書を読むと、評者はどうも戸惑っているようで、そのブルックナー解釈について「確たる芯の欠陥を見ることも可能」といった表現をポロッとしている。前後ではいろいろと糊塗した言い方もしているが、これはどう考えても褒めていない。珍しいことではある。メータのブルックナーは、ほかにウイーン・フィルとの9番やテデウムもあるが、こちらも一般に評価は芳しくない。


 予断を廃して聴くが、まず感じるのはいかにも「大味」だということである。録音、あるいはオケのせいかも知れないが全体にメリハリの乏しい茫洋、淡々とした演奏。メータは、チェリビダッケを大変尊敬していて、特にその速度感について、「あそこまで遅くして崩れないのは驚異」といった発言をしていたはずだが、メータ盤のテンポはそう遅くない。
 8番については、下記のブーレーズ/ウイーン・フィルの巧みすぎるようなポリフォニー解析に感心した直後に聴いたこともあって、余計に感じたかも知れないが、よく言えば鷹揚、悪く言えば音楽の細部に神経が通っていない印象である。0番はまあ、程良くアクセントをつけて指揮者の技倆で乗り切っているが、各指揮者、渾身の8番では、切れ味のよいメータらしくない不思議な解釈である。好きな指揮者であるがゆえに誠に残念!
 あえて想像を逞しくすれば、チェリビダッケ的ではなく、晩年のカラヤン的な雰囲気を参考とした節がある。しかし、細密画をさらに入念にチェックするような晩年のカラヤン(ぼくはあまり好きではない)に対して、メータはむしろ非統制的な運行、いわば大仰さを強調したかったのかも知れないが、その試みは巧くいっていない。バレンボイム/ベルリン・フィル盤とともに再度、手に取ることに逡巡するものである。

日曜日, 10月 17, 2010

ブーレーズ ブルックナー8番

 ブルックナー没後100年記念として1996年9月、ザンクト・フローリアン教会でのウイーン・フィルとのライヴ録音。ハース版による演奏。なぜ、この記念すべきコンサートにブーレーズが起用されたのかどうかはわからないが、それまでブーレーズがブルックナーを振った音源が一般に知られておらず、その話題性は十分だった。
 ブーレーズは周到に準備をしたと思う。驚くべき解析力であり、さすがにスコアを読み尽くし音楽を再構成するという、自身も現代音楽の代表的な作曲家であるブーレーズならではアプローチの演奏である。
 残響効果も巧みに計算に入れて全体構成を考えており、ウイーン・フィルの持ち前の木管楽器の世界最高水準の美しさは絶品。その分、金管の咆哮はかなり抑え気味で(実際の臨場感は別、こちらは録音テクニックかも知れないが)、全体のバランス感が見事に統御されている。

 アゴーギクなどは抑制されほとんど感じないレベル、いわゆる「激情型」とは無縁の理知的な運行ながら、しかしクールな計算だけでない、音楽へのブーレーズ流の渾身の「入れ込み」は確実に伝わってくる。特に、テンポの微妙な変化と休止ごとに刻み込むようなフレーズの融合、シンクロナイズが絶妙で、長い楽章も局所変化が多様でまったく飽きさせない。ブルックナーでもこうした「知的」演奏スタイルは実に有効といった見本のような演奏。恐れ入って聴いた。

月曜日, 10月 04, 2010

バーンスタイン

 

§ 作曲家としてのバーンスタイン

 バーンスタイン作曲の交響曲は、コープランドが後世を託したといわれるだけの実力を感じさせる力作で、メロディの親しみやすさが現代音楽の晦渋さを緩和している。ラフマニノフの自作自演コンサートをライヴで聴いて感動したといわれるバーンスタインが、そうした体験を自身生かしているといえるかも知れない。リズムの切れ味はストラヴィンスキーに通じる部分もある。マーラーやショスタコーヴィッチで秀でた演奏を残したバーンスタインだが、この2人の影響も垣間見えるような独特の量感もある。作曲家としてのバーンスタインは、フルトヴェングラー、ブーレーズなどと違い若き日から最高の栄誉を得ていた。創造性の高い、しかし誰でもが親しめる人々の心を鷲掴みにする時代の子であった。


バーンスタイン作品集)
交響曲
第1番『エレミア』 (Symphony No.1 "Jeremiah") (1942年)
第2番『不安の時代』(ピアノと管弦楽のための) (Symphony No.2 "The age of anxiety") (1947年-1949年/1965年改訂)
第3番『カディッシュ』(管弦楽、混声合唱、少年合唱、話者とソプラノ独唱のための) (Symphony No.3 "Kaddish") (1963年/1977年改訂)

バレエ『ファンシー・フリー』 (Fancy Free) (1944年)
ミュージカル『オン・ザ・タウン』 (On the Town) (1944年初演)
ミュージカル『ウエスト・サイド物語』 (West Side Story) (1957年初演)
ミュージカル『キャンディード』 (Candide) (1956年初演/1989年最終改訂)
オペラ『タヒチ島の騒動』 (Trouble in Tahiti) (1952年)
この作品は後年に大幅な拡大改訂が施され、オペラ『静かな場所』 (A Quiet Place)となった。(1983年)
クラリネット・ソナタ (Sonata for Clarinet and Piano) (1942年)
5つの子供の歌『私は音楽が嫌い』 (I Hate Music) (1943年)
合唱曲『チチェスター詩篇』 (Chichester Psalms) (1965年)
歌手と演奏家、踊り手のためのミサ曲 (Mass - A theatre piece for singers, dancers, and players) (1971年)
合唱曲『ソングフェスト』 (Songfest) (1977年)
前奏曲、フーガとリフ (Prelude, fugue and riffs) (1949年/1952年改訂)
映画『波止場』 (On the Waterfront)の音楽 (1954年)
セレナード (Serenade) (1954年)
バレエ『ディバック』 (Dybbuk) (1974年)
オーケストラのためのディヴェルティメント (Divertimento for Orchestra) (1980年)
ハリル (Halil) (1981年)
ピアノ曲『タッチズ』(コラール、8つの変奏とフーガ) (Touches - Chorale, Eight Variations and Coda) (1981年)
アリアとバルカロール(メゾ・ソプラノ、バリトンと4手ピアノのための) (Arias and Barcarolles) (1988年)
 

§ クラシック高踏主義を砕いた音楽家

クラシックとそれ以外のジャンルの垣根を自在に跳び越えるスケール感もバーンスタインの特色である。グルダはじめ後進は、バーンスタインが切り開いた道を歩み、ゆえなきクラシック高踏主義を砕いた。
レパートリーの広さも他を圧していた。カラヤンと双璧とも言われたが、オペラではカラヤンが圧倒的ながらそれ以外の領域、現代音楽ではバーンスタインのほうがはるかに広範だとも言えよう。
 小澤征爾、クラウディオ・アバド、ズデニェク・コシュラーはじめ
ヨーヨー・マ、ティルソン・トーマス、エッシェンバッハ、ネルソンスなど後進の音楽家の育成にも熱心であり、青少年のためのコンサート(これはTVで結構見た)などの語り口も絶妙で時代を風靡した。この点でも小澤征爾らに与えた影響は大きい。



§ 気さくなスーパースター

 さて、オールド世代にとって、バーンスタインは気さくなスーパースターだった。1970年、東京文化会館でマーラーの第9番をライブで聴いた。当時、コンサートがはねた後、文化会館の楽屋口で待っていると運がよければサインをもらえた。当夜(1970.9.7)、バーンスタインはとても疲れていたろうが一高校生に笑顔でサインをしてくれた。帝王カラヤンではあり得ないことだった。40年たったいまもぼくの貴重な財産である。