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「春の祭典」、ここでは1950、60、70、80、90年代の名盤を各1枚、並べてみた。マルケヴィッチのモスクワ・ライヴを除き、いずれも、ボストン響、ニューヨーク・フィル、クリーヴランド管と米国の有力オケの当時の至芸を聴くことができる。
◇モントウ―
モントゥーによるストラヴィンスキー:春の祭典(ボストン響、1951年1月28日録音)を聴く。モントゥーは言わずお知れた本曲の初演指揮者であり、サンフランシスコ響(1945年3月)、フランス国立放送管(1955年6月)、パリ音楽院管(1956年11月)のほかライヴ音源もあり、いわば手中の玉の演目。
本曲では、デフォルメの効いた厚化粧の演奏も多いのだが、実にすっきりとした演奏。大胆なリズムの刻み方、楽器の自在な奏法から、作曲家「監修」による忠実な「原曲」演奏とはこうしたものか、といった思いを改めて抱く。その一方、第1部では、各楽器は、ときに生々しい獣の息吹を感じさせるが、それは、とりもなおさず当時のボストン響の各楽器パートの巧さを見事に表象している。
◇マルケヴィッチ
マルケヴィッチ、鬼気迫る「春の祭典」ライヴ盤 (amazon.co.jp)
1962年1月にワルシャワでのライヴ盤。惜しむらくはあまり質のよくないモノラル音源である。マルケヴィッチは1912年7月27日キエフ生まれ。ロシア帝国によるウクライナ統治を嫌って両親は2歳のマルケヴィッチとともに一家で西欧に出国した。半世紀をへて、当時の東側での故国所縁のプログラム中心の演奏記録である。
得意の「春の祭典」では、その鋭いリズム感と思い切ったダイナミズムで鬼気迫る録音。ストラヴィンスキーの音楽から、一切の夾雑物をのぞいて、純粋に鋭利なリズムと強烈な管弦楽の響きのみを抽出したような演奏。その一方、ときおりのメローディアスな旋律では、ロシアの芳香が地から立ちあがってくるような感覚もある。
チャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」では劇的な表現が、ブリテンの「青少年のための管弦楽入門」では色彩的かつ明確なオーケストラの音色が際立つ。
◇バーンスタイン
「春の祭典」は、1972年4月の収録(いずれもステレオ録音)。古くからのファンにとっては、本盤は、ストラヴィンスキー・ブーム以前の代表的演奏だった。バーンスタインの解釈は、自身の作曲家としての感性がストラヴィンスキーに共鳴しているように、弾けるようにリズミックでめくるめく色彩的な音楽を巧みに浮き彫りにしていると感じる。特に録音の古い「火の鳥」のほうがバーンスタイン流の白熱度が高くいまだに斬新な印象をよくとどめている。
◇シャイー
遅いテンポのなか、ふんだんにテクスチャーを盛り込みながら、それでいて、それは拡散することなく統一感はしっかりと保たれている。クリーヴランド管から、残響を控えたややデッドでドライな音を引き出しているが、これが本曲の“不安”、“不気味さ”にいっそうの凄みを与えている。しかも後半にいくほど、リズムの刻み方は深くなり、激しい情念をそこに表現している。
後日、ペトルーシュカ(コンセルトヘボウ)でみせた明るく輝かしい音色との大きな違いを感じる。同じ作曲家でも、作品とオーケストラによってここまで音の印象は変わるのか。シャイーの途轍もない技量と楽団操舵の底力をうかがわせる1985年10月、クリーヴランドでの収録。
◇ブーレーズ
春の祭典とペトルーシュカなどストラヴィンスキー解釈について、ブーレーズ「以前」と「以降」では指揮者に再考を促したともいわれる音源。ブーレーズにはほかの録音もあるが、クリーブランドを振った本盤が規準版といっていいと思う。初演以来、スキャンダルさをもって登場した「春の祭典」では、それに引きずられ演奏も過度にアクセントをつけたものも多いが、ブーレーズは、緻密な構成と音楽の純度を高め、冷静に劇的な叙事詩としてこれを表現しているように感じる。一方、「ペトルーシュカ」も同様なアプローチだが、細部をゆるがせにせず、リズムとメロディの最適バランスをもって、管弦楽の精華とでもいうべき高みに達している。いまだベスト盤の一角を占める名演である。1991年3月、クリーヴランドにて収録。
(参考)
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