水曜日, 11月 23, 2011

ゲルギエフⅥ チャイコフスキー交響曲第6番

チャイコフスキ-:交響曲第6番


ここのところ集中的にゲルギエフを聴いている。今日は初冬の入口ながら天気晴朗、屋上の芝生に寝そべって雲ひとつない青空を仰ぎみながら、いつになくしっかりと耳を傾ける。

ゲルギエフの音楽は、どの曲をとっても「明解」な解釈と「明確」な音づくりのアプローチがあるように思う。

まず、明確な音づくりに関してはこの6番(マリインスキー劇場管弦楽団)がその典型。弱音部は情感をもってゆっくりと奏で、強音部は速度を増してメカニックに疾走する。全体にリズミックで切れ味がよいが、前者ではフレージングをやや長めにとり、後者ではザックリと短く鋭く刻む。

そのコントラストにははじめは驚くが、一般に凡長に繰り返されると逆に興ざめとなる場合もある。しかし、彼の演奏でそれがマンネリ化せず鼻につかないのは、手兵たるこのオーケストラの各パートの使い方が絶妙だからだ。

全体として低弦のぶ厚い音響(実に心地よい響きだ)を強調しつつ金管(音がクリアで巧い)が効果的にこれに被さる。その場合、意外にも金管をやたらと大きく前面に出すのではなく、よく切れるカッターのように亀裂的に用いる。弦楽器と木管楽器のハーモニーも文句なく美しい。そこが真骨頂といえるだろう。

顔が<濃厚>系(失礼!)なので、音楽もそうかと言うと、実は別の感想を抱く。明解な頭脳的解釈とでも言うべきか、全体構成がくっきりとしており、リスナーの期待を裏切らない。シャイーなどに共通する感度の良さが身上。そのうえで、音のテクスチャーがよくわかり、局面局面での語りかけてくる音楽のボキャブラリーが豊か。だからリスナーに安心感をあたえ、かつ飽きさせない。

はっきり言えば、原曲が多少退屈で、中だるみがあったとしても、それをカヴァーするようなテクニックをもっている(ロシア管弦楽集などで遺憾なく発揮)。カラヤンがそうであったように。

チャイコフスキーの6番は、彼が自信をもって高く評価しこよなく好きなのだろう。その相乗効果ゆえか、こんなに良い曲だったのかと久しぶりに聴いて心動いた。6番ではジュリーニ以来の驚きである。

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【以下は引用】

HMV レビュー


チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調《悲愴》
幻想序曲《ロメオとジュリエット》

ヴァレリー・ゲルギエフ指揮
サンクト・ペテルブルク・キーロフ歌劇場管弦楽団

ゲルギエフ待望の《悲愴》がついに登場。彼のチャイコフスキーといえば、今の世に珍しい、野蛮なまでの豪快演奏が大反響を呼んだウィーン・フィルとの交響曲第5番(1998年ザルツブルグ・ライヴ)の記憶も生々しいところですが、その第5番の1年前、手兵キーロフ歌劇場管とフィンランドで収録された今回の《悲愴》も、予想通りヘヴィーで濃厚、そのドラマティックな資質を改めて印象付ける強烈な演奏となっており、ファンにはたまらない内容と言えます。
『ロシアの低弦』の威力をまざまざと見せ付けた重厚な冒頭から、金管セクションの炸裂に仰天の展開部を経て、深い溜息を思わせるコーダまで、一遍のドラマのように描き切った第1楽章からして、この指揮者独特の隈取り濃い表情付けに驚かされます。早めのテンポで流麗に進めながらも、分厚い旋律線が身に迫る思いがする第2楽章も圧巻、第3楽章では“野人”ゲルギエフの面目躍如たる痛快なマーチを聴かせ、そして、まさに『慟哭』としかいいようのない終楽章での激烈な表現に至っては、もう言葉もありません。ゲルギエフが要求する息の長い旋律形成に万全に応えて息切れひとつみせないキーロフ歌劇場管の底知れぬスタミナも特筆ものです。カップリングの《ロメ・ジュリ》での異様なまでのヴァイタリティも聴きもの。

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