最近、コンサートにはとんと行かない。以前も同様なことを書いたが、CDを気儘に聴いていたほうがはるかに心地よい。あるいは過去のライヴでの名演の印象が強すぎて、いまのコンサートなどから受ける感動があまりないからかも知れない。
そうはいっても、たまには行きたい、聴きたい指揮者もいる。ゲルギエフは同じ年という親近感もあり、また、ここのところ集中して聴いていることもあって、2月29日のコンサートには久しぶりに期待をもって足を運んだ。
「古典交響曲」とアンコールのチャイコフスキー、くるみ割り人形の「花のワルツ」は素晴らしかった。東京交響楽団の音が明らかに変わる。ゲルギエフ流の分厚い弦のハーモニーが前にでて構えの大きい、明確な解釈がはっきりと伝わってくる。いいなあと頬が緩む。
その一方、スタートの「亡き王女のためのパヴァーヌ」はいまだ集中感に欠け不安定、かつ管はもっとセーヴして被せてほしかったと思ったし、「未完成」も平凡な出来。特に「未完成」は、怖い曲で良い演奏とそうでない場合の落差が大きい。繰り返しが煩瑣に感じられるくらい起伏、気迫に乏しい演奏だった。
もっともほとんど練習の時間がないぶっつけに近い対応であったろうから、それは仕方がないことかも知れない。
しかし、花束贈呈もないし、雪のせいもあってか空席も目立った。せっかくゲルギエフがソウル、北京公演の「1日の合間」をぬって来てくれたのに、ステージではいささかそっけない接遇だった。そこはちょっと残念だった。
(参考)
1998年7月、ザルツブルクでの録音。ウィーン・フィルはだいぶん、個性を殺してこの将来有望株と目線あわせをしているなと感じた。マリインスキー劇場管弦楽団との6番での魅力は「低弦のぶ厚い音響を強調しつつ金管が効果的にこれに被さる」点にあるが、ウィーン・フィルでは低弦の威力はそう感じない。また、金管も亀裂的ではなくむしろ完璧な質量でオーバーラップさせている。だがその過不足ない音量、涙がでるくらい巧い。
ただ鳴らすだけの演奏とはまったく異質で頭脳的な解釈に特色。ジャケット付属のインタビューにもあるが、むしろ、チャイコフスキー解釈をウィーン・フィルと共有することに意義があるという基本スタンスは聴いていて、随所でなるほどと思う。ライヴなので拍手、ブラボーが当日の出来を如実に示しているだろう。この邂逅は、シェーンブルン・サマー・ナイト・コンサート2011にいたる両者のその後の幸福な関係を築いたろう。実力派ゲルギエフの面目躍如たる記録。
ゲルギエフの音楽は、どの曲をとっても「明解」な解釈と「明確」な音づくりのアプローチがあるように思う。
まず、明確な音づくりに関してはこの6番(マリインスキー劇場管弦楽団)がその典型。弱音部は情感をもってゆっくりと奏で、強音部は速度を増してメカニックに疾走する。全体にリズミックで切れ味がよいが、前者ではフレージングをやや長めにとり、後者ではザックリと短く鋭く刻む。
そのコントラストにははじめは驚くが、一般に凡長に繰り返されると逆に興ざめとなる場合もある。しかし、彼の演奏でそれがマンネリ化せず鼻につかないのは、手兵たるこのオーケストラの各パートの使い方が絶妙だからだ。
全体として低弦のぶ厚い音響(実に心地よい響きだ)を強調しつつ金管(音がクリアで巧い)が効果的にこれに被さる。その場合、意外にも金管をやたらと大きく前面に出すのではなく、よく切れるカッターのように亀裂的に用いる。弦楽器と木管楽器のハーモニーも文句なく美しい。そこが真骨頂といえるだろう。
顔が<濃厚>系(失礼!)なので、音楽もそうかと言うと、実は別の感想を抱く。明解な頭脳的解釈とでも言うべきか、全体構成がくっきりとしており、リスナーの期待を裏切らない。シャイーなどに共通する感度の良さが身上。そのうえで、音のテクスチャーがよくわかり、局面局面での語りかけてくる音楽のボキャブラリーが豊か。だからリスナーに安心感をあたえ、かつ飽きさせない。
はっきり言えば、原曲が多少退屈で、中だるみがあったとしても、それをカヴァーするようなテクニックをもっている(ロシア管弦楽集などで遺憾なく発揮)。カラヤンがそうであったように。
チャイコフスキーの6番は、彼が自信をもって高く評価しこよなく好きなのだろう。その相乗効果ゆえか、こんなに良い曲だったのかと久しぶりに聴いて心動いた。6番ではジュリーニ以来の驚きである。
(参考)
ただ鳴らすだけの演奏とはまったく異質で頭脳的な解釈に特色。ジャケット付属のインタビューにもあるが、むしろ、チャイコフスキー解釈をウィーン・フィルと共有することに意義があるという基本スタンスは聴いていて、随所でなるほどと思う。ライヴなので拍手、ブラボーが当日の出来を如実に示しているだろう。この邂逅は、シェーンブルン・サマー・ナイト・コンサート2011にいたる両者のその後の幸福な関係を築いたろう。実力派ゲルギエフの面目躍如たる記録。
まず、明確な音づくりに関してはこの6番(マリインスキー劇場管弦楽団)がその典型。弱音部は情感をもってゆっくりと奏で、強音部は速度を増してメカニックに疾走する。全体にリズミックで切れ味がよいが、前者ではフレージングをやや長めにとり、後者ではザックリと短く鋭く刻む。
そのコントラストにははじめは驚くが、一般に凡長に繰り返されると逆に興ざめとなる場合もある。しかし、彼の演奏でそれがマンネリ化せず鼻につかないのは、手兵たるこのオーケストラの各パートの使い方が絶妙だからだ。
全体として低弦のぶ厚い音響(実に心地よい響きだ)を強調しつつ金管(音がクリアで巧い)が効果的にこれに被さる。その場合、意外にも金管をやたらと大きく前面に出すのではなく、よく切れるカッターのように亀裂的に用いる。弦楽器と木管楽器のハーモニーも文句なく美しい。そこが真骨頂といえるだろう。
顔が<濃厚>系(失礼!)なので、音楽もそうかと言うと、実は別の感想を抱く。明解な頭脳的解釈とでも言うべきか、全体構成がくっきりとしており、リスナーの期待を裏切らない。シャイーなどに共通する感度の良さが身上。そのうえで、音のテクスチャーがよくわかり、局面局面での語りかけてくる音楽のボキャブラリーが豊か。だからリスナーに安心感をあたえ、かつ飽きさせない。
はっきり言えば、原曲が多少退屈で、中だるみがあったとしても、それをカヴァーするようなテクニックをもっている(ロシア管弦楽集などで遺憾なく発揮)。カラヤンがそうであったように。
チャイコフスキーの6番は、彼が自信をもって高く評価しこよなく好きなのだろう。その相乗効果ゆえか、こんなに良い曲だったのかと久しぶりに聴いて心動いた。6番ではジュリーニ以来の驚きである。
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