金曜日, 4月 19, 2019

マーラー 交響曲第4番 覇を競う名盤5点


ワルター

第1楽章、ワルターの演奏には、生きとし生けるものへの讃歌を感じさせる。もちろんそれのみに一辺倒ではなく、マーラー特有の複雑な表情が背後に隠されており、それが折節、頭をもたげるが、全体の基調は明るさを失わない。   

第2楽章,鋭い観察者なら躁鬱の明らかな兆候をみるだろうが、それをあえて嚙み殺した笑いでごまかそうとするかのような音楽。ワルターは虚飾なく、あるがままにこれを表現している。第3楽章、マーラーの書いたもっとも美しいアダージョの一つを端正に精魂をこめてワルターが演奏している様が想像できる。この約17分半は至福の時間。

終楽章、ソプラノの デシ・ハルバンの声は録音のせいかも知れないがあまり前に出ず、個性的でもない。それが本盤では惜しくもあり、またワルターのあるいはマーラーの求めていた歌は実はこれだったのかな、ともふと思う。

➡ New York Philharmonic 175th Anniversary Edition も参照            


マーラー:交響曲第4番
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クレンペラー

クレンペラーのマーラーは、有り難いことにいまやとても廉価で聴くことができる( Mahler: Symphonies 2, 4, 7 & 9 / Das Lied von der Erde を参照)。第4番は1961年4月の録音だが2012年デジタル・リマスターされており、低音部が強調されすぎている憾みはあるものの比較的良好な音質で耳にすることができる。

クレンペラーらしい独自の解釈で迷いも曖昧さもない。鷹揚とした構えで、テンポをあまり動かさず、それでいて細部の目配りは怠りなく粛々と音楽がすすんでいく。第4番の場合、ライナーのようにこよなく美々しく演奏する流儀もあるが、クレンペラーのマーラー像は各番に通底し、美もあれば醜もあり、明るさの次には暗部がひかえ、幸福の快感と懊悩の痛みもまた隣り合わせにあるといった展開である。それはマーラー音楽のなかでも、明るく美しさをたたえた第3楽章アダージョにおいても例外ではなく複雑な表情は変えない。終楽章、シュヴァルツコップの歌唱もこのクレンペラーの解釈に沿って、美しさよりも劇的で深い表現力にこそ特色がある。            


マーラー:交響曲第4番
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テンシュテット

マーラー:交響曲第4番    
クラウス・テンシュテット | 2018

 
凄まじい演奏。しかし、強烈な音響、劇的な要素の表現をもって、そう言うのではなく、マーラーという作曲家を必死で理解せんとするそのアプローチにおいて、である。たとえば第3楽章、嫋々たるハーモニーの部分では、あたかもマーラーの胸に我が耳をあて、その鼓動をじかに聴いているような寄り添い感である。

また、第1楽章の「完結性」はそれだけで1曲の多様性と重みをもつが、この渾身の演奏は、もうそれだけで十分なくらいの充実度である。さらに、終楽章、ルチア・ポップの生真面目な詠唱もテンシュテットと完全に同化しより音楽の高みに達している。

→ Mahler: Complete Symphonies も参照            
 
 
マーラー:交響曲第4番
 
カラヤン

はじめ聴いて、ライナー盤 マーラー:交響曲第4番 との共有点を思った。ライナーもカラヤンもマーラーのなかではとりわけ「優しく典雅な」本曲をその線にそって完璧に表現せんとする姿勢は共通しているように感じる。しかし、カラヤンのほうが、明るい色調と美音に徹底したライナー盤よりも表情に深みを与えている。
(良い意味で)屈託のないアバドの演奏ともちがって、カラヤンには独自のマーラー観があるのだろう。パセティックな暗さも、マーラー特有の脱力的な空白感もときに顔をだす(そういう複雑な表現ももちろん冷静に処理しているといった感じ)。文句の言いようのない見事な演奏なのだが、このどこか醒めているマーラー解釈には違和感を覚える向きもあろう。それゆえに、最後のマティスの詠唱がリスナーを暖かく包み込んでくれる癒しの効果は大きい。

→ People's Edition にて聴取  


メンゲンベルク

Symphony 4
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メンゲルベルクの有名な音源。2つの留意事項がある。第一に、1939年11月9日のライヴ音源であること。音質については望むべくもない。第二に、その解釈のユニークさ。通常の4番を聴く気持ちで接すると強い違和感があるだろう。

そこまで覚悟して聴くと別の面白さが見えてくる。兎がぴょんぴょんと跳ねているようなリズミックさと思い切りのポルタメントのねちっこさが同居しており、ときに歯切れよく、ときに粘着質の音楽が自在なテンポのなかで交錯する。はじめは驚くが、聴きすすむとマーラー音楽の多面性を懸命に伝えようとしている、これは一つの技法ではないかと思えてくる。飽きさせない熱演であり、音が痩せている分、その切実さが強き線状のようにストレートに伝わってくる。

マーラーがメンゲルベルクの演奏を高く評価し、かつ楽譜どおりの演奏でないことも認めたことは著名なるエピソードだが、同時代人としてマーラーの天才に傾倒し、系統的に多くの演奏を行い、コンセルトヘボウにそれをしっかりと根付かせた功績は大きいだろう。この演奏は、マーラーのお墨付きをもらったというよりも、マーラーの内心に真剣に寄り添ったという意味で貴重な音源であると言えよう。


(参考)    
ラトル       
 
マーラー:交響曲第4番
 

マーラーの交響曲のなかでも、4番は明るい雰囲気が横溢して人気の演目。「子供の不思議な角笛」のメロディが用いられていることで、2番、3番とも共通する特質があるが、ラトルは3曲ともに一貫して、柔らかくて緻密な演奏スタイルである。
「緻密さ」といっても、たとえばライナー盤などは、濃厚で、重層的で、統率的なオーケストラの響きだが、ラトルは、その比較においてだが、淡泊で、各楽器が並列的で、自由な曲想をうまくドライブしていると感じる。

第1楽章、テンポは速く軽妙な棒さばき、第2楽章のスケルツォも諧謔的な要素はあまり感じない。甘美な旋律にかぶさる管楽器の音は滑稽さを演出している。第3楽章は静謐な大人の時間といった案配で音が余裕をもってゆっくりと拡散する。終楽章のアマンダ・ルークロフトのソプラノは線は細いが若々しく美しい詠唱、目だなないがオーケストラに溶けこむように協奏的、魅力的である。

➡ Mahler: the Complete Symphonie も参照   

ライナー

 ショルティのマーラーの第4番では、キリ・テ・カナワ(ソプラノ)、シカゴ交響楽団を振った1983年のデジタル録音が代表盤と言われるが、これはスタールマン(ソプラノ)、コンセルトヘボウとの1961年の旧盤である。ショルティ、はじめてのマーラー録音とのことだが、その美しい響きに陶然となるような名演である。

 コンセルトヘボウは、遡ること20年以上前の1939年に、ヴィンセント(ソプラノ)で名匠メンゲンベルクと歴史的なライヴ名演を残しているが、マーラーの最良の抒情性が結晶したような4番のメローディアス性がこのオーケストラの音質ととても合っていると感じる。

 ショルティという指揮者は、ワーグナーの『指輪』での金字塔のイメージが強すぎダイナミックな演奏の権化のように思われがちだが、その実、こうした絹のような手触りの曲づくりでも抜群の巧さをみせる。
 スタールマンの声は端整でけっして出すぎずにオーケストラの音色と溶け込み好印象を与える。最終部の木管楽器との柔らかな掛け合いの部分などは、まだ終わってほしくない、もっと聴いていたいという陶酔感をリスナーに与えずにはおかないだろう。

マーラー:交響曲第4番


マーラー:交響曲第4番

シノーポリ
マーラー:交響曲第4番

バーンスタイン
マーラー:交響曲第4番ト長調

ショルティ


マゼール
マーラー:交響曲第4番

(注目)




 

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