ブラームスの交響曲等
OP 作品名 作曲年
56a ハイドンの主題による変奏曲
変ロ長調 1873 Orch
68 交響曲第1番 ハ短調 1876 Orch
73 交響曲第2番ニ長調 1877 Orch
90 交響曲第3番 ヘ長調 1883 Orch
98 交響曲第4番 ホ短調 1885 Orch
ブラームスの交響曲を4曲味わって、もっと聴きたいなと思うときには、いわば交響曲”第0番”(上記参照)とでもいうべきハイドンの主題による変奏曲を取り出す。
また、それとは別に「聖アントニウスのコラール」の晴れがましいメロディを味わいたくて、この曲に耳を傾けるときもある。
以下で、小生が好む名盤5点をしめすが、いずれも交響曲全集とともに併録されており、よって、本曲単独ではなく、ブラームス交響曲全体の印象についてのコメントを記載している。
◇ケンペ/ベルリン・フィル
ハイドンの主題による変奏曲op.56a (1957年)。ベルリン・フィルを基準にとれば、意志力の強さが前面にで、また低弦が、ここまで分厚いかと感嘆する迫力のあるベーム盤が、また、録音は正直悪いが、それがゆえに想像力を喚起してやまないフルトヴェングラーのデモーニッシュな歴史的な名盤がある。
それらに比べるとケンペの演奏はとても地味に聞こえる。また、オーケストラをぐいぐいと引っぱり緊張感をいやがうえにも高めていくような部分に乏しく、特色のない平板な演奏とも言われかねない。
しかし、良く耳を澄ますと、アンサンブルが見事にあっていて、丁寧なスコアの読みを感じさせるし、ベルリン・フィルからまことに伸びやかな音楽を最大限引きだしている。自然な、素直な演奏であるとともに、ブラームスの「憂愁」が時にそこはかとなく伝わってくる。
「凄い」演奏ではないかも知れないがとても「佳い」演奏であり、また、テンポの動きは実にしなやかで、オケの自らのもつ運動能力が存分に発揮されているようにも思われる。
今日は、特定の指揮者ではなく、地肌の「ブラームス」の音楽を聴きたいという気分のときには得難い演奏である。しかも本曲をふくめて通番で聴いていて安定感がある。
◇ベイヌム/コンセルトヘボウ管
ハイドンの主題による変奏曲op.56a (1952年11月)。全体として、「力押し」の部分のない自然体の構え。コンセルトヘボウの音色は、そのブラームス像に柔らかさとほの明るさを点じており、聴きやすく落ち着きのある心地よき響きである。ゆえに、チェリビダッケ Conducts Brahms-Sym 1-4 のような情念の渦巻きを感じることもなければ、フルトヴェングラー流「渾身の一撃」のリズミックさ ブラームス:交響曲第4番 など「エッジのきいた」アプローチとは明らかに異なる。全体に自由度をもったオーケストラ操舵を感じさせ、ベーム ブラームス:交響曲第1番 の如き厳しい緊張感、統制力はない。
感情移入の奥深さこそベイヌムの魅力であり、統制の緩さは、独特のほのぼの感を滲ませ、コンセルトヘボウ管の内燃度は高く、ここぞという場面でのダイナミズムに不足はない。格調あるブラームスの世界に浸れるという意味では、ケンペ ブラームス:交響曲全集 とともに佳き成果であり、ベイヌム・ファンにははずせないアイテムだろう。◇ムーティ/フィラデルフィア管
ハイドンの主題による変奏曲op.56a (1989年)。とても充実した、そして流麗感ある立派な演奏である。聴いていて、この演奏スタイルは、 ブラームス:交響曲第1番、悲劇的序曲 に似ていると感じた。このカラヤン/ウィーン・フィルのブラームス演奏の「源流」は、そのテンポ設定、切れ味の良さなどで、実はトスカニーニ/NBC響 ブラームス:交響曲全集 にあるのではないかとかねてより思っているが、そうするとムーティの演奏には、結果的に同じイタリア出身でアメリカ楽壇の最高権威でもあった大指揮者の伝統が脈々といきているのかも知れない。それにしてもフィラデルフィア管の響きの美しさは格別。弦楽器にはしっとりとした潤いがあり、管楽器にはスキルフルでかつ輝かしさがある。そして心地良い疾駆感とともに締めくくられる。オーマンディが自身の後任にムーティに白羽の矢を立てたのがわかる気がする。併録の「ハイドン変奏曲」は落ち着いた好演。➡ THE ART OF RICCARDO MUTI にて聴取。
ムーティ/フィラデルフィア管、流麗感、疾駆感ある演奏 (amazon.co.jp)
◇フルトヴェングラー/ウィーン・フィル
ハイドンの主題による変奏曲op.56a (1952年1月)。かつてドイツ滞在中、毎朝、日が昇らずマイナス20度の寒さに街頭にでる経験をしたが、北ドイツの冬は暗くて実に寒い。同じドイツでもバイエルンなどの南の地方は少しく印象がちがうが、北方の生活者には憂鬱症といつも熟考する思慮深さ、そして厳しい環境、困難に負けない強い意志などがない交ぜになっているように感じることがある。よくブラームスを聴きながら通勤したが、これぞ風景と一体の感興があった。この演奏は、交響曲作曲家として満を持しての決意表明たる第1番、比較的温暖で明るい第2番をへて、叙情性のもっとも良くでた第3番ののち、晩年の集大成としての第4番と、ウィーンでの名声や華やかな生活の影響などどこにも感じられず、原点回帰、ブラームスの心象風景たる北ドイツの冬の寂寥感を強く意識させる。
フルトヴェングラーの演奏は、その寂寥たる雰囲気を保ちながらも、その一方、北方ドイツ人の強靭な意志をより印象づける。大胆なリズミックさとどこまでも底知れず沈降していく深みの感覚、テンポのたくまぬ可変性、フレージングの自由な処理、そして全体から受ける孤独に耐える知性的な闘争心。こういう演奏は他にない。→ Wilhelm Furtwangler: The Great EMI Recordings も参照◇トスカニーニ/NBC響
ハイドンの主題による変奏曲op.56a (1952年2月)。トスカニーニのブラームスの交響曲全集。古き録音のせいもあるだろうが、全体に筋肉質な響きで、音に<贅肉>がない。言い換えれば、甘い感傷とか、ドイツ的なエモーションとか、そうした抽象的な<フリンジ>を一切感じない。
注意して聞くと、各番とも全4楽章の力のバランスに最大限配慮しており、1曲を聴き終わるとき充足感に過不足がない。次に、ダイナミズムの懸け方が要所要所でピタリと決まっており、それを基点に前後の抑揚をはっきりとつけている。それはいわば一定の「山稜」構造とでも言うべきかもしれない。緩徐楽章のカンタービレに特色があるとの見方もあるが、むしろ磨きぬかれた硬質の叙情性(それがトスカニーニらしさのひとつの特色と思うのだ)がストレートに胸にくる。こうした機能主義的なアプローチが、実はブラームスの雄渾で緻密な作風とよく合致していると感じる。ブラームスの雄渾で緻密な作風と合致 (amazon.co.jp)
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