月曜日, 1月 03, 2022

マルケヴィッチ その軌跡


 









表記のCDを順に聴きながらマルケヴィッチ(イーゴリ・ボリソヴィチ・マルケヴィチ Igor Markevitch1912年7月27日1983年3月7日のことを考えている。まず、彼を世に出したディアギレフとの関係から。

セルゲイ・ディアギレフSergei Diaghilev,1872年3月31日 1929年8月19日)は、ロシアの芸術プロデューサー

マルケヴィッチとディアギレフ (seikaisei.com)

ディアギレフの委嘱作品の多くが、「春の祭典」はじめ、その後のマルケヴィッチの主要な演目と重なっていることは意識せねばならないだろう。上記の記事にあるとおり、1929年に逝去したディアギレフの「最後の恋人」という事実は、ディアギレフの高名さゆえに、マルケヴィッチの履歴に大きく刻まれることになった。

同じくディアギレフの「恋人」であり、そのバレーダンサーとしての才能を高く評価したヴァーツラフ・ニジンスキーもマルケヴィッチにとってその前半生、影響をあたえたであろう主要な人物の一人である。 マルケヴィッチは、1936年、ニジンスキーの娘キュラと結婚(1947年に離婚)している。しかし、結婚時にはニジンスキーはすでに精神病院で生涯戻れぬこととなる悲惨な生活に入っていた。

ヴァーツラフ・フォミッチ・ニジンスキー (Vaslav Fomich Nijinsky1890年3月12日1950年4月8日)は、ロシアバレエダンサー振付師

マルケヴィッチは、その修行時代と華麗なデビュー活動の時期が交差している。彼は、ウクライナ出身だが、キエフの貴族の血をひくといわれる。ロシア革命前の1914年、2才のときに家族とともにスイスのヴェヴェイに移住。音楽教育は父の手ほどきによるが、その才能をアルフレッド・コルトーに注目され、1926年にコルトーのもとパリに行き、エコール・ノルマル音楽院にて、コクトーにピアノを、ナディア・ブーランジェに和声学と作曲を学ぶ。これが、ピアニストとして、作曲家としての第1の修業時代である。

アルフレッド・ドニ・コルトーAlfred Denis Cortot1877年9月26日~1962年6月15日)は、20世紀前半のフランスを代表するピアニスト指揮者教育者著述家

ナディア・ブーランジェ(Nadia Boulanger, 1887年9月16日1979年10月22日)は、フランス作曲家指揮者ピアニスト教育者大学教授)。

そして、ディアギレフの目にとまり作曲を委嘱される。1929年、ロシア・バレエ団のコヴェントガーデン公演の際に、ピアノ協奏曲《コンチェルト・グロッソ》がパリで初演され、十代にして若手、気鋭の作曲家兼ピアニストとして認知されるようになる。さらに翌年、18才にしてアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮して、指揮者としてのデビューを果たす。1934年から翌年にかけて、今度はヘルマン・シェルヘンのもと指揮を学ぶ。デビュー後の第2の修行時代である。

ヘルマン・シェルヘンHermann Scherchen1891年6月21日 ~ 1966年6月12日)は、ドイツ出身の指揮者作曲家現代音楽の推進者として知られた。

第二次世界大戦中は、イタリアに居を移しパルチザン活動にも加わったという。1944年にはフィレンツェ5月祭の音楽監督に就任する。この間、1942年に病気を患い、以降作曲の筆を折る。その後1947年にイタリア市民権を取得している。同年にイタリア女性トパツィア・カエターニと再婚(指揮者オレグ・カエターニは1956年彼女との間に生まれた子である)

1950年代にはいり、マルケヴィッチは指揮者として本格的な活動期に入る。首席指揮者、音楽監督などシェフを務めた記録は次のとおり(※1参照)。

ストックホルム・フィル(1952年~)、ラムルー管(1954年~)、モントリオール響(1956年~)と北欧、パリ、カナダと活動の領域を広げるが、いずれも長期にわたる常任ではない。この傾向はその後も、モンテ・カルロ・歌劇場管(1967-1972年)、ローマ・聖チェチーリア音楽院管(1973-1975年)と続くが、チェリビダッケ同様、リハーサルの緻密さにオーケストラが根負け、嫌気をさす傾向があったからとの見方がある。このほか、客演では1955年のボストン響での米国デビュー、1960年の日本フィルでのわが国への来初日、1965年以降はスペイン放送交響楽団やイスラエル・フィルなどでも活発な動きもみせている。

一方、レコーディングでは、19501960年代にドイツ・グラモフォン、フィリップス、EMIレーベルで、ベルリン・フィル、シンフォニー・オブ・ジ・エアー、ラムルー管、ロンドン響、フィルハーモニア管、フランス国立放送管などと多くの録音がある。特に、カラヤンがシェフ就任以前、1950年代前半のベルリン・フィルとの録音は大変優れたものであり、ドイツ・グラモフォンはその後もラムルー管との録音は継続するが、ベルリン・フィルとは疎遠になる。フィリップス、EMIレーベルの録音も充実しており、1953年にロンドンに居を構えたことから、英国オケとの音源も知られている。プラハの春・音楽祭では、1959年5月16日、スメタナ・ホールでチェコ・フィルを振った「春の祭典」のライヴ盤なども著名である。また、ドイツの楽団とのライヴ盤も見逃せない(※2参照)。

さらに、世界各地で指揮者養成のための講習にも積極的に参加し、サヴァリッシュ、バレンボイム、ブロムシュテットのほか、日本人では湯浅卓雄や高関健など、彼に師事した指揮者も多い(※3参照)。

親日家で来日コンサートの記録はいまも語り継がれている。1983年にアンティーブにて逝去。ウクライナで生まれ、スイスで育ちパリで開花し、イタリア国籍を取得したのちは、世界中を旅し多くの後進に多大な影響を与えた名指揮者であった。

イーゴリ・マルケヴィチ 切れ味満点の天才音楽家|NIKKEI STYLE


※1<シェフとしての活動>

◆ストックホルム・フィル(1952-1955年

ロイヤル・ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団 - Wikipedia

◆ハヴァナ管(1957-1958年

◆モントリオール響(1956-1960年

モントリオール交響楽団 - Wikipedia

◆ラムルー管(1954-1961年

コンセール・ラムルー - Wikipedia

◆モンテ・カルロ・歌劇場管(1967-1972年

モンテカルロ歌劇場 - Wikipedia

◆ローマ・聖チェチーリア音楽院管(1973-1975年

サンタ・チェチーリア国立アカデミー管弦楽団 - Wikipedia


※2<主要なレコーディング>

イーゴリ・マルケヴィチ/ドイツ・グラモフォン録音集<限定盤> (tower.jp)

イーゴリ・マルケヴィチ/ザ・フィリップス・レガシー<限定盤> (tower.jp)

イーゴリ・マルケヴィチ/The Complete EMI Recordings<限定盤> (tower.jp)

イーゴリ・マルケヴィチ/イーゴリ・マルケヴィッチの芸術 (tower.jp)

イーゴリ・マルケヴィチ/イーゴリ・マルケヴィチ 名演奏集 (tower.jp)

イーゴリ・マルケヴィチ/イーゴリ・マルケヴィチ 第1集 (tower.jp)

イーゴリ・マルケヴィチ/Igor Markevitch The Collection (tower.jp)

マルケヴィッチの客演、ライヴ音源は今後も発掘、リリースされることが期待されている。北ドイツ放送響やゲヴァントハウス管との以下なども注目されるものである。

イーゴリ・マルケヴィチ/NDR ARCHIVE:FRENCH ORCHESTRAL WORKS:Debussy:La Mer/Ravel:Daphnis et Chloe/etc (tower.jp)

イーゴリ・マルケヴィチ/マルケヴィッチ&ゲヴァントハウス ステレオ録音! (tower.jp)


※3<指揮者養成の指導者としての活動>

◇ザルツブルク モーツアルテウム音楽院(1946~56年)

◇メキシコシティ(1957~58年)

モスクワ音楽院(1963年)

マドリード(1965~69年)

モンテカルロ(1969年~)

<出典>『名演奏家事典』音楽之友社,1982年ほか


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