金曜日, 2月 11, 2011

カラヤン Karajan Symphony Edition 


 
カラヤンはデビュー以来、晩年にいたるまで常に時代の寵児であり、並ぶものなきスターであった。よって、その膨大な録音記録(同一演目の再録音が多いことでも例がない)が以下の年代別に出ている。

カラヤンは、大宗において初期から後期に至るまで、その演奏スタイルは一貫している。その一方、初期は並々ならぬ気迫に満ちており、後期は同時代の先頭を走るがごとく音響学的に充実している。しかし、両者は時とともにいわば【トレード・オフ】の関係にある。 

小生は初期カラヤンの「斬新さ」に強い魅力を感じる一人(★)だが、カラヤンを評価するという共通の立ち位置から、どの時代のカラヤンを聴くかはリスナーの嗜好如何と言えよう。70年代のカラヤンは、覇気、音響両ファクターで丁度「中庸」の時代と言えるかも知れない。 

★デビューから1960年まで(1938-60年)
Herbert von Karajan: Recordings 1938-60 Collection
 
第二次大戦後、フルトヴェングラーが苦労のすえ古巣のベルリン・フィルの指揮台に再び立ち、その復興に尽力したことが、どれほど大きくベルリン市民のみならずドイツ国民全体に勇気を与えたか。同様に、冷戦下の大変厳しい政治環境にあって、カラヤンが、世界最高のスキル・フルな楽団としてのベルリン・フィルをいかに手塩にかけて育て上げ世に問うたか。それによって、当時「孤島ベルリン」の安全保障になんと有形・無形の貢献をしたことか。
いまから過去を振り返れば、至極あたりまえに見えることが、両人の血の滲むような努力なくしては決して成し得なかったことを考えると、フルトヴェングラーからカラヤンにいたる連続した時代の重みをズシリと感じる。
そのカラヤンのデビューから1960年までの昇竜期の117枚の記録。以下は小生の聴いてきた初期の録音を中心に若干のコメントを。

まず、1938〜43年にかけてのSP録音の≪序曲/前奏曲集≫。戦前、戦中の若き日のカラヤンの英姿がここにある。ドイツ・イタリア枢軸国の代表的な名曲集といった「きな臭い部分」はあろうが、耳を傾けると、そこには類い希な才能にめぐまれた若手指揮者の立ち姿が浮かび上がってくる。特に、イタリアものの響きが、切なく可憐で、しかも初々しくも凛々しい。よくこんな音楽を奏でることができるものかと思う。30代前半のカラヤンの充ち満ちた才能に驚く1枚。

◆序曲集 Herbert von Karajan : The Early Recordings (1938-1946)
(1938年2月〜)
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同様に30歳台を中心とするカラヤンの青壮年期の記録。圧倒的なスピード感、メリハリの利いた解釈、気力溢れる演奏。しかし、力押しばかりでなく、ときに柔らかく溌剌としたフレーズが心に滲みてくる。天才的な「冴え」である。後日、ベルリン・フィルがフルトヴェングラーの後任にカラヤンを指名した理由がよくわかるような気がする。カラヤンのベートーヴェンの斬新さはいま聴いても凄いと思う。
40年代のコンセルトヘボウとの共演も興味深く、ブラームス交響曲第1番でのカラヤンは溌剌とし実に巧い。

◆ベートーヴェン 交響曲第3番  Herbert von Karajan : Early Recordings, Vol. 7 (German Radio Recordings 1944)
(1944年5月)
◆ベートーヴェン 交響曲第5番  Symphony 5/Adagio
(1948年11月)
◆ベートーヴェン 交響曲第7番  Herbert von Karajan : Early Recordings, Vol. 3 (1941-1942)
(1941年6月)
◆ベートーヴェン 交響曲第9番  Herbert von Karajan - Beethoven: Symphony No. 9
(1947年11月〜12月)
◆ブラームス 交響曲第1番 Herbert von Karajan : Early Recordings, Vol. 6 (Amsterdam 1943)
(1943年9月6〜11日)
◆チャイコフスキー 交響曲第6番 Herbert von Karajan (Early Recordings Volume 1 1938 - 1939)
(1939年4月15日)
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カラヤン、50年代のフィルハーモニア管弦楽団との演奏。モノラルながら聴きやすい録音。明確な解釈、快速な運行、品位ある抒情性に特色。特に、ヴェルディ「レクイエム」は迫力にあふれた出色のもの。
協奏曲では相性のよいギーゼキングとベートーヴェンの4,5番、グリーグなども名匠ギーゼキングと相性よく粒ぞろいの名曲・名演集となっている。

◆1950年代ボックス・セット(各10枚) Karajan
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1951年、カラヤンのバイロイト音楽祭「デビュー戦」の旧盤。カラヤンの凄まじいまでのプライドと気概が伝わってくる演奏。これはカラヤン・ライブラリイのなかでも、その異質性において、インパクトの強い代物である。カラヤンは自己主張がはっきりしている性格。天下のバイロイトも翌年はでたがその後、演出の考え方の相違で袂をわかって足を運ばず。後にウィーン国立歌劇場とも同様に決裂。「既存」の「権威」に対して、いつでも闘うがゆえの「帝王」の呼称か。しかし、音楽の豊かさ、しなやかさ、抒情性などは別物。素晴らしく純化され、しかし颯爽としたマイスタージンガーの演奏である。

◆ワーグナー マイスタージンガー  Wagner: Die Meistersinger
(1951年8月)
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1950年代の古い音源で、その後の新録もあるのでスーパー廉価盤。しかし、いずれも歴史的名演の名を欲しい儘にしてきたもの。この時代ならではの名歌手の熱唱がぎっしりと詰まっている。
  「レクィエム」は、リザネク、クリスタ・ルートヴィヒらによるザルツブルグ音楽祭のライヴ録音。「アイーダ」は、テバルディ、ベルゴンツィ、シミオナートが競演したもので、テバルディにとっても代表盤。同じく、「トロヴァトーレ」はカラス、ステーファノ、パネライが、「ファルスタッフ」では、ゴッビ、シュヴァルツコップにくわえて美貌でならした若きアンナ・モッフォを起用。
 ベルリン・フィルに活動を集中する以前、ウィーン、ザルツブルク、ミラノ、ロンドンを股にかけ、欧州オペラ界を制覇したかの観のある帝王カラヤンの最盛期の記録である。

◆カラヤン ヴェルディ集 Verdi/ Aida - Il Trovatore - Falstaff - Requiem

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60年代
Karajan 1960's: the Complete DG Recordings

70年代
Karajan 1970's: The Complete DG Recordings

80年代
Karajan 1980s: Complete Deutsche Grammophon Recordings 1979-1990


 
また、これとは別にオペラ演目し絞った
Various: the Opera Recordings

本集は、70年代を中心に、8人の作曲家による59曲の交響曲集(ほかに序曲なども収録)を38枚のCDに収めた超×超廉価盤である。

その内訳は、ベートーヴェン9曲(6枚組:1975-77年録音)、ブラームス4曲(3枚組:1977,78年録音)、ブルックナー9曲(9枚組:1975-81年録音)、ハイドン18曲<パリ・セット6曲、ロンドン・セット12曲>(7枚組:1980-82年録音)、メンデルスゾーン5曲(3枚組:1971,72年録音)、モーツァルト10曲<29,32,33番、35~41番:1965,75-77年録音>(3枚組)、シューマン4曲(3枚:1971,87年録音)、チャイコフスキー6曲(4枚:1975-79年)となっている。
 

Beethoven: The 9 Symphonies, Overtures
 
Karajan Symphony Editionにて聴取。カラヤンの70年代のベートーヴェン。1970年大阪万博でカラヤンの交響曲第4番、第7番をライヴで聴いた。強烈なインパクトであった。

カラヤンは、大宗において初期から後期に至るまで、その演奏スタイルは一貫している。その一方、初期は並々ならぬ気迫に満ちており、後期は同時代の先頭を走るがごとく音響学的に充実している。しかし、両者は時とともにいわばトレードオフの関係にある。

一例としてベートーヴェンの第5番をみれば、40年の懸隔のある初期(初出の1948年11月盤 20th Century Maestros にて聴取可能)と後期(最後の1988年12月盤)の楽章別演奏時間は、I. Allegro con brio(7:21、7:29)、 II. Andante con moto(10:45、9:43)、III. Allegro(5:00、5:15)、 IV. Allegro(8:45、9:00)、全体計(31:51、31:27)である。初期盤ではII.で大胆に減速はしているがそれ以外は驚くべきほど差がないことがわかる。

小生は初期カラヤンの「斬新さ」に強い魅力を感じる一人だが、カラヤンを評価するという共通の立ち位置から、どの時代のカラヤンを聴くかはリスナーの嗜好如何と言えよう。70年代のカラヤンは(それはもちろんベートーヴェンに限らないが)、覇気、音響両ファクターで丁度「中庸」の時代と言えるかも知れない。
 
Brahms: The Symphonies
 
Karajan Symphony Editionにて聴取。カラヤンの70年代のブラームス。1970年大阪万博でカラヤン/ベルリン・フィルは大阪ではベートーヴェンの交響曲全曲演奏、一方、東京ではざまざまな演目を取り上げたが、ブラームスの第2番、第3番をライヴで聴いた。強烈なインパクトであった。

カラヤンは、大宗において初期から後期に至るまで、その演奏スタイルは一貫している。その一方、初期は並々ならぬ気迫に満ちており、後期は同時代の先頭を走るがごとく音響学的に充実している。しかし、両者は時とともにいわばトレードオフの関係にある。

一例としてブラームスの交響曲ではカラヤン、現存する最初の録音記録である第1番(1943年9月6~11日、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団との演奏  Maestro Vol. 1: Herbert von Karajanにて入手可能)を比較の上で取り上げよう。

第1楽章冒頭の重くパセティックな出だしから、基本的にカラヤンの解釈は後年のあまたの録音と変わっていないことに驚く。テンポは遅くじっくりと音を積み上げていく。一方、フレーズは短く艶やかに処理していく。
第2楽章のアンダンテ・ソステヌートは、明暗交錯する複雑な心理の綾を表情豊かに描いてみせる。やや濃厚な味わいという気もするが、この時代のコンセルトヘボウの音色ゆえかも知れない。
第3楽章に入ると速度を上げ陰から陽への移行提示がこめられる。終楽章の劇的な展開も後年の録音と共通し、すっきりと機敏な進行は思い切りがいい。全般に、なお荒削りながらもブラームス解釈を概成していた若き日のカラヤン像がそこにあり、後年はこれに老練の技が加わっていったという感想をもつ。

小生は初期カラヤンの「斬新さ」に強い魅力を感じる一人だが、カラヤンを評価するという共通の立ち位置から、どの時代のカラヤンを聴くかはリスナーの嗜好如何と言えよう。70年代のカラヤンは(それはもちろんブラームスに限らないが)、覇気、音響両ファクターで丁度「中庸」の時代と言えるかも知れない。

価格の信じられない安さに加えて、かつてカラヤンの「バラ売り」では入手できなかった曲(初期のブルックナーやチャイコフスキーなど。そうした一般にはマイナーなものでも一切の妥協のない質の高さを誇る。ブルックナー Karajan Bruckner: 9 Symphonies はヨッフム盤とともに、チャイコフスキーTchaikovsky: The Symphoniesはムラヴィンスキー盤とともにいまもベストの全集と言ってよい)も所収されており、その点でもコレクション上、誠に有意である。
 

Karajan Bruckner: 9 Symphonies
 
≪カラヤンのブルックナー≫
1950 年代、日本でいまだブームが胎動するまえだが、ブルックナーのレコードはなかなか入手できなかった。フルトヴェングラー、ワルター、クナッパーツブッシュ、コンヴィチュニー、ヨッフムらが先鞭をつけたが、カラヤン/ベルリン・フィル盤の8番 Bruckner: Symphony No.8 - Overtures by Mendelssohn, Nicolai, Wagner & Weber が1959 年頃にリリースされ、名演の誉れ高しとの評価を得た。

1930 年代から幅広い演目で多くのレコードを精力的に録音してきたカラヤン Herbert von Karajan in Berlin The Early Recordings だが、ブルックナーの取り上げについては実は慎重な印象があった。いまでは全く考えられないことだが、「カラヤンはブルックナーが実は苦手なのでは・・」といった勝手な風説すら当時の日本ではあった。

1970 年頃を境に、この「風説」が一吹される。順番は別として、4,7,9番が相次いでリリースされ、その録音がベルリンの教会で行われたことから残響がとても豊かで美しく、ブルックナーのシンフォニーに見事に適合しており、これを境にブルックナーはカラヤンのメインのレパートリーと認識されることになった。

その後、この全集がでて、カラヤンの評価は決定的となる。1,2,3,5,6番の正規録音(ライヴ盤を除く)はこの全集所収のみである。再録の多いカラヤンにあって、これは記憶にとどめておいていいだろう。いずれも非常にレヴェルの高き演奏で、カラヤンは3,5番は別の機会を考慮していたかも知れないが、概ね「これで良し」と一応の評価をしていたのではないかと考える。5番および6番については1楽章を欠いているがフルトヴェングラーの音源があるけれど、他はフルトヴェングラーの記録はない。カラヤンは密かに独壇場と思っていたかも知れない。

晩年、ウィーン・フィルとの7,8番が出る。特に7番は、ブルックナーの作曲時のエピソード(ワーグナーへの葬送)に加え、死の3ヶ月前の最後の録音であったことから、カラヤン自身への「白鳥の歌」と大きな話題を呼んだ。オーストリア人カラヤンにとって、故国の大作曲家たるブルックナーは、むしろ特別な存在であったのかも知れない。なお、7,8番に関しては、この新録音よりも本全集所収の旧録の迫力を小生は評価している。

全番に一貫するカラヤンらしい明晰な解釈、流麗な音の奔流、なによりもその抜群の安定感からみて、ヨッフムとともに全集決定盤の最右翼である。
 
Tchaikovsky: The Symphonies

Tchaikovsky: The Symphonies

カラヤンは、チャイコフスキーを得意としていた。交響曲第1〜3番は全集化するための一種の「消化試合」でたった1回の録音だが、4番は53〜85年にかけて8、5番は52〜84年にかけて10、そして6番にいたっては39〜88年に14の録音記録があるようだ(旧録として Masterworks も参照)。特に「悲愴」は半世紀にわたって主要演目の中心にあったことがわかる。

本集はこのうち75〜79年(スラヴ行進曲、イタリア奇想曲は66年)の録音だが、メロディの彫琢において完成度が高い一方、覇気の優越においては、それ以前の後期3曲を一気に収録した71年盤 
Symphonies Nos 4 5 & 6 (Bril) のほうに軍配を上げる向きもあろう。

カラヤンのチャイコフスキー(に限らないかも知れないが)には一定の「節度」を感じる。メランコリーはあるが、それにのめり込まずメロディの美しさが強調される。劇的な表現でも「激烈」にはならず、オーケストラのバランスは崩れない。全体が調和とともに最大のボルテージに達する。チャイコフスキーは聴かせどころ満載で、両者の交互の相克はスリリングである。

「悲愴」はその典型であり、小生は聴きなれた64年盤 
チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」/バレエ組曲「くるみ割り人形」 が好みだが実にカラヤン手中の演目であったろう。

ほとんどをライヴ(197086年)、LP、テープ、CDで聴いてきた身からすれば、腹立たしさすら感じる強烈な<価格破壊>だが、カラヤン生誕100周年記念のドイツ・グラモフォンのファン・サービスと考えようか。

カラヤン嫌いの向きは別として最盛期の集大成であり、その均質性、完成度から各作曲家別に通番で聴く選択としては、いまも最優秀。

<2016.5.14追記>

Karajan Symphony Edition
http://www.amazon.co.jp/Karajan-Symphony-Herbert-von/dp/B001DCQIAU/ref=sr_1_3?s=music&ie=UTF8&qid=1463214355&sr=1-3&keywords=karajan+box

土曜日, 1月 22, 2011

The Complete Christmas Celebration

 ガーディナーは、リヒター以来のバッハ/4大宗教曲集(クリスマス・オラトリオ:本セット所収、マタイ受難曲、ヨハネ受難曲、ロ短調ミサ曲)の名録音で知られる。一方、古楽器演奏の大家ホグウッドは、ヘンデル演奏でも第一人者でありメサイアは得意の演目。この2つのカップリングだけで十分に元は取れる。
 ドイツ系ソングのレーゲンスブルク大聖堂少年聖歌隊は、単発でも販売されていて渋いが根強い支持のあるもの。イギリス系ソングのケンブリッジ・キングズ・カレッジ合唱団も実力ある合唱団でこの手の小品集では双璧の構えだろう。ここまでの企画は文句なしに素晴らしい。
 しかし、なぜかこれにゲルギエフの「くるみ割り人形」が入っている。通俗名曲も、これも名の通った人気指揮者で「販売戦略上」入れたかったのかも知れないが、異質な感を否めない(★ひとつダウン)。ゲルギエフを除き、全体に派手さはないが低廉かつ実のある良質なクリスマス・セットである。

【収録作品】
■CD1~2:J.S.バッハ/クリスマス・オラトリオBWV.248 モンテヴェルディ合唱団 イングリッシュ・バロック・ソロイスツ ジョン・エリオット・ガーディナー(指揮)1987年1月録音
■CD3~4:ヘンデル/オラトリオ『メサイア』HWV.56(1754年版)オックスフォード・クライスト・チャーチ聖歌隊(サイモン・プレストン指揮)エンシェント室内管弦楽団 クリストファー・ホグウッド(指揮)1979年9月録音
■CD5:チャイコフスキー/バレエ音楽『くるみ割り人形』Op.71(全曲)マリインスキー(キーロフ)劇場合唱団&管弦楽団 ワレリー・ゲルギエフ(指揮)1998年8月録音
■CD6:ドイツのクリスマス・ソング集 レーゲンスブルク大聖堂少年聖歌隊 ゲオルク・ラッツィンガー(指揮)
■CD7:イギリスのクリスマス・キャロル集 ケンブリッジ・キングズ・カレッジ合唱団  ステファン・クレオバリー(指揮)

土曜日, 1月 08, 2011

クラシック音楽の危機 

 
 クラシック音楽だけが危機にあるわけではない。西欧の価値観そのものが揺れている世紀である。かつては、ヨーロッパ領主らにとって豪勢な料理と同様、ひとつの嗜好品であった宮廷「音楽」、聖歌に代表され、ミサなどの儀式に欠くことができない宗教「音楽」、民衆のフォークロアとしての民族主義的な「音楽」、思想を表現する手段としての標題「音楽」などなど、クラシック音楽の源流にも多様性がある。
  
 宮廷の嗜好品としての音楽は市民革命とともにとっくに時代遅れになった。また、宗教的な音楽の伝統は西欧に限らないが、カトリック、プロテスタントなどの宗派の別はあれど、いまも大きな儀典的な役割を演じているだろう。しかし、それは宗教関係者以外では、どちらかといえば限定的、非日常的なものだろう。一方、民衆のなかから生まれおち継承されてきた音楽の裾野は広く健在だ。もちろん、それはクラシック音楽のジャンルを超えて、より大きな集合、広い領域で語られるべきものであろう。さらに、思想性のある音楽、たとえばワーグナーの楽劇のようなそれは、むしろ原初の思想性の纏を脱いで、今日純粋な古典として迎えられているようにも思う。  

 さて、いずれにせよ、いわゆるクラシックという音楽ジャンル自体が時代とともに、大きく変化をしているはずだが、一時的なブームはあっても長期の趨勢としてこれが拡大しているようには見えない。

 
クラシック音楽とは、まず西欧の音楽といってよいのだろうが、「西洋(西欧)の没落」(オスヴァルト シュペングラー, Oswald Spengler) 以来、水平的な国家・民族の多元主義が台頭し、文明史観そのものがかわっているのだから、西欧の音楽の相対化、あるいは地位低下は当然のことであろう。

 西欧の考え方の基底には、ギリシア哲学やローマ文明がある。その後、キリスト教が燎原の火のように域内に拡大して浸透する。ゲルマンが力を得て、そこから融合型、統合的な音楽が生み出されてくる。

 音楽の領域でもはじめに理論として登場するのはピタゴラス、プラトン、アリストテレスらのギリシア哲学においてであろう。その後、キリスト教との関係ではグレゴリア聖歌などは容易に想像できる名前である。ルネサンス、バロックの時代に、ローマ文明の再興とでもいうべきブレークスルーがあって、いまのクラシック音楽の塑形がつくられ、楽器が発明、開発され、イタリア、フランスがこうした革新の先導役を果たす。ラテン語がクラシック音楽で重要なのは自明である。ルターの宗教改革以降、欧州の後進地とみなされたドイツでそれ以前の価値観や技術が体系的されて、クラシック音楽の発展の苗田が生まれる。

 産業革命とともに世界標準としての価値観たらんと勃興した西欧文明は、先のシュペングラーの指摘を俟つまでもなく多元化の時代に突入していく。クラシック音楽は素晴らしいけれど、それはあくまでも音楽ジャンルのひとつである、という相対化の進行である。アメリカの影響は大きかった。ジャズ、ソウル、そしてロックといった音楽が人々の心を捉えていく。そして、いまやそうしたジャズ、ソウル、ロックも時代の変遷をへて「古典」、すなわち広義の「クラシック音楽」化という認識もなされている。


 

日本という「極東」の島国から見ていると、クラシック音楽は西欧文明の一部を形成するものであり、日本自体の西欧化(「近代化」という言葉が支配的な理念となったが)とともに広がっていったと言えよう。第二次世界大戦を区切りとする見方からすれば、戦前も刻苦勉励した日本人先覚者はいたが、なんと言っても、戦後の民主化の過程とともに学校教育でもその地位の向上が図られていく。雅楽は知らなくとも笑われないだろうが、バッハやモーツアルト、ベートーヴェンという名前くらいは小学生でも「学習」する。

 さて、クラシック音楽の危機は、その担い手論に直結する。小澤征爾をおそらく現在までの頂点として、最近の日本の若者のこの世界での活躍ぶりはいつも眉目をあつめるけれど、日本で音楽大学をでても、国内のオーケストラに入団するのはとても狭き門であり、俗にいう食っていくのは大変だろう。でも、それをもってクラシック音楽の危機というのではない。

 

ぼくはクラシック音楽を聴き始めて40年以上になる。1960年代の終わり頃からだが、現在までの間に、とても大きな環境変化があった。中学生の時にその魅力に取り付かれたが、その頃は本当に多くの大家が元気にひしめいていた。音楽雑誌を読んでいても実にスリリングだった。当時はわからなかったが、厳しい競争関係のなかで、レコードやコンサートで口の端にあがるのは、そのごく一部の音楽家であっただろうが、有名音楽家の来日コンサートなどは行幸並みの扱いだったし、ましてヨーロッパなど世界にライヴで音楽を聴きにいくなどは夢のまた夢に近かった。そこは日本の経済成長もあり、グローバル化の進行もあって、いまは何のこと?といった隔世の感があるだろう。

 事例と言っては失礼かも知れないが、ぼくは諏訪内晶子さんの活動がその典型のように覚えている。その意味で 1990年はひとつの基準年であろう。 1981年、全日本学生音楽コンクール(小学校の部、東日本大会)で第1位。 1985年、全日本学生音楽コンクール(中学校の部、全国大会)で第1位。 1987年、日本音楽コンクールで第1位。 1988年、パガニーニ国際コンクールで第2位。 1989年、エリザベート王妃国際音楽コンクールおよび日本国際音楽コンクールで第2位。 1990年、チャイコフスキー国際コンクールで第1位(最年少、日本人初、全審査員の一致による優勝)。同時にバッハ作品最優秀演奏者賞とチャイコフスキー作品最優秀演奏者賞を受賞。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%86%85%E6%99%B6%E5%AD%90

 

日本人がこのクラシック業界で活躍することもそうだが、1990年代以降、日本の若いリスナーにとっても、ザルツブルクだろうがバイロイトだろうが憧れの世界の音楽祭にも相応の努力をすれば行ける時代になった。夢はかなう時代、しかし、皮肉なことに、その頃からいわゆる大家はとても少なくなった、というよりも、かつての大家の時代は終わってしまったということかも知れない(60年代に活躍した大家達が鬼籍に入っていった)。ぼく自身、この頃を境にコンサートにはほとんど行かず、過去のCDばかりを聴くようになった。

 いま、さまざまな媒体で、いわゆるクラシック音楽ファンが聴いているのは、圧倒的に過去の大家の演奏の俗に言うリマスター版である。 かつ、作曲家、曲目での蓄積は、クラシック全領域のなかでもかなり限定されている。そこにいまのクラシック音楽の危機の一因があると思う次第であるが、この問題を少し自分なりに考えてみたいと思っている。

金曜日, 12月 31, 2010

謹賀新年



2011年 元旦

以下は昨年このブログに書いた記事の一覧です。今年も宜しくお願いします。

サンソン・フランソワ
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クレンペラー 
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ホロヴィッツ
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フルトヴェングラー ブラームス 交響曲第4番 
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マタチッチ/N響 ブルックナー8番 
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チェリビダッケ ブルックナー9番 
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ハイティンク ブルックナー4番 
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アイヒホルン ブルックナー5番 
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スクロヴァチェフスキ ブルックナー第2番 
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アバド ブルックナー1番 
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メータ ブルックナー0番、8番 
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ブーレーズ ブルックナー8番
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バーンスタイン 
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ベーム ブルックナー8番
http://shokkou3.blogspot.com/2010/08/blog-post_28.html
ムラヴィンスキー チャイコフスキー:交響曲第4-6番
http://shokkou3.blogspot.com/2010/08/4-6.html
ブルックナー メモ書き 
http://shokkou3.blogspot.com/2010/08/blog-post.html
CD時代の終焉! 
http://shokkou3.blogspot.com/2010/08/blog-post_07.html
クラシック音楽 聴きはじめ 3 マルケヴィッチ
http://shokkou3.blogspot.com/2010/07/blog-post_09.html
カルロス・クライバー 
http://shokkou3.blogspot.com/2010/07/blog-post.html
ショパン ボックス・セット 
http://shokkou3.blogspot.com/2010/06/blog-post_11.html
クラシック音楽 聴きはじめ 2 ミュンシュ
http://shokkou3.blogspot.com/2010/06/blog-post.html
クラシック音楽 聴きはじめ 
http://shokkou3.blogspot.com/2010/05/blog-post_21.html
大指揮者の「先生」
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ベイヌム ブルックナー 
http://shokkou3.blogspot.com/2010/04/blog-post_30.html
ベーム ブルックナー8番 
http://shokkou3.blogspot.com/2010/04/blog-post_27.html
バーンスタイン マーラー9番 
http://shokkou3.blogspot.com/2010/04/blog-post_24.html
ブルックナー 雑感 
http://shokkou3.blogspot.com/2010/04/blog-post_20.html
カラヤン エクセレンス!
http://shokkou3.blogspot.com/2010/04/blog-post_13.html
ブルックナー vs フルトヴェングラー 交響曲第9番
http://shokkou3.blogspot.com/2010/04/blog-post_08.html
ブルックナー vs ホルスト・シュタイン
http://shokkou3.blogspot.com/2010/04/vs.html
ブルックナー vs カラヤン 
http://shokkou3.blogspot.com/2010/04/blog-post_05.html
織工から http://shokkou3.blogspot.com/2010/04/blog-post_03.html
ブルックナー vs フルトヴェングラー 交響曲第7番
http://shokkou3.blogspot.com/2010/04/blog-post.html
ブルックナー vs  カラヤン 交響曲第8番(1944年)
http://shokkou3.blogspot.com/2010/03/1944.html
ブルックナー vs フルトヴェングラー 交響曲第6番
http://shokkou3.blogspot.com/2010/03/blog-post_6454.html
ブルックナー vs フルトヴェングラー 交響曲第5番
http://shokkou3.blogspot.com/2010/03/blog-post_28.html
ブルックナー vs フルトヴェングラー 交響曲第4番
http://shokkou3.blogspot.com/2010/03/blog-post.html
ブルックナー vs クナッパーツブッシュ
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ブルックナー vs ダヴァロス
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ブルックナー vs クレンペラー
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ウイーン・フィル 魅惑の名曲
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ブルックナー vs マタチッチ
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ブルックナー vs  カラヤン
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パーヴォ ヤルヴィ @ ベートーヴェン
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ブルックナー HMVランキング
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土曜日, 12月 25, 2010

サンソン・フランソワ


 サンソン・フランソワ(1924-1970年)の文字通りの集大成である。1970年代、レコードを集中して聴きはじめた頃、フランソワはすでに活動を終えており当初は親近感がなかった。しかし、56年、67年の来日公演があったので日本での知名度は高かった。
 その後、ショパンを聴くようになって、ルビンシュタインとフランソワの演奏には深く心動かされた。はじめにルビンシュタインを聴き、その比較でフランソワに接したが、フランソワの激情に驚きこんなに違うのかと感じた記憶がある。当時、ショパンではこの2人が、一方ドイツ系ではバックハウスとケンプがそれぞれ2大巨匠というのが通り相場だった。

 神童中の神童であり、19才でロン・ティボー国際音楽祭で優勝するが、これでもあまりに遅すぎるデビューと言われた天才肌のピアニスト。46才での逝去は普通なら「これから円熟期」と惜しまれるところだが、この人に限っては、23才のSP録音から20年にわたってすでに下記の膨大なデスコグラフィを残していたのだから驚愕を禁じえない。抜群のテクニックを軽く超越したような奔放、華麗な演奏スタイルはこの時代でしか聴けない大家の風貌である。本価格とボリュームなら文句の言いようのないボックスセット。

<収録内容>
CD1~14:ショパン、CD15~16:ラヴェル、CD17:ラヴェル、フランク、CD18:フランク、フォーレ、CD19:フォーレ、ドビュッシー、CD20~22:ドビュッシー他、CD23:フランソワ、ヒンデミット、CD24: J.S.バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、CD25:ベートーヴェン、シューマン、CD26:シューマン、リスト、CD27:メンデルスゾーン、リスト、CD28:リスト、CD29:プロコフィエフ、バルトーク、スクリャービン、CD30:プロコフィエフ、CD31:(SP録音)ショパン、ラヴェル他、CD32:ブザンソン音楽祭(1956年9月)、モントルー音楽祭(1957年9月17日)他、CD33:ブザンソン音楽祭(1958年9月12日)他、CD34:日本来日公演(東京、1956年12月6日、1967年5月8-9日)、CD35~36:サル・プレイエルリサイタル(1964年1月17、20日)

日曜日, 12月 19, 2010

クレンペラー


◆ブルックナー:交響曲第5番

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%BC-%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC5%E7%95%AA-%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%83%BC-%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC/dp/B000CSUWQW/ref=cm_cr-mr-title

 クレンペラーのブルックナーは、4番<ウィーン交響楽団、バイエルン放送交響楽団>に加えて4~9番はフィルハーモニア管弦楽団で録音、その他の音源もリリースされており、幸いかなり数多く耳にすることができる。そのなかにあって、本盤の魅力は1968年6月2日ウイーン・フィルとのライブ録音であることである。
 音楽の構築が実に大きく、テンポは遅く安定しており滔々とした大河の流れのような演奏。その一方、細部の音の磨き方にも配慮は行きとどいている。録音のせいもあるかも知れないが、ウイーン・フィルらしい本来の艶やかなサウンドを抑えて前面にださず、むしろ抜群の技倆のアンサンブルを引き立たせている印象。そこからは、ウイーン・フィルがこの巨匠とのライブ演奏に真剣に対峙している緊張感が伝わってくる。
 また、ブルックナーの交響曲の特色である大きな枠組みをリスナーは聴いているうちに自然に体感していくことになる。マーラーが私淑していたブルックナー。そのマーラーから薫陶をうけたクレンペラーだが、マーラーの解釈が、クレンペラーを通じて現代に甦っているのでは・・と連想したくなるような自信にあふれた演奏であり、晩年のクレンペラーの並ぶものなき偉丈夫ぶりに驚かされる貴重な記録である。

◆ブルックナー:交響曲第8番

 1957年6月7日ケルンWDRフンクハウスでの演奏。クレンペラーの8番では、最晩年に近い1970年ニュー・フィルハーモニア管弦楽団を振ったスタジオ録音があるが、こちらは第4楽章で大胆なカットが入っており、それを理由に一般には評判が芳しくない。一方、本盤は遡ること13年前、カットなしのライヴ録音である。


 驚くべき演奏である。巨大な構築力を感じさせ、またゴツゴツとした鋭角的な枠取りが特色で、いわゆる音を徹底的に磨き上げた流麗な演奏とは対極に立つ。また、第3楽章などフレーズの処理でもややクレンペラー流「脚色」の強さを感じる部分もある。小生は日頃、クナッパーツブッシュ、テンシュテットの8番を好むが、このクレンペラー盤は、その「個性的な際だち」では他に例をみないし、弛緩なき集中力では両者に比肩し、第1、第4楽章のスパークする部分のダイナミクスでは、これらを凌いでいるかも知れない。ケルン響は、クレンペラーにとって馴染みの楽団だが、ライヴ特有の強い燃焼度をみせる。「一期一会」ーいまでも日本では語り草になっているマタチッチ/N響の8番に連想がいく。リスナーの好みによるが、小生にとっては8番のライブラリーに最強カードが加わった新たな喜びを感じる。

◆ブルックナー:交響曲第6番 ハース版

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8A%E3%83%BC-%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC6%E7%95%AA-%E3%80%90HQCD%E3%80%91-%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%83%BC-%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC/dp/B002WQ7HRE/ref=cm_cr-mr-title

 オットー・クレンペラーはフルトヴェングラー亡きあと、19世紀「最後の巨匠」との異名をとった人物です。特に、私淑したマーラーやブルックナーなどの演奏では独自のスケールの大きさを示すことでいまも根強いファンがいます。
 6番は、ハース版での演奏です。1964年の録音ですが、その古さを割り引いても大変な名盤だと思います。6番は第1、2楽章にウエイトがかかっていて特に第2楽章のアダージョの美しさが魅力ですが、緩楽章の聴かせ方の巧さはマーラーの9番などに共通します。一方、クレンペラーの照準はむしろ後半にあるように思えます。短いスケルツォをへて一気にフィナーレまで駆け上る緊縮感は他では得難く、ここがクレンペラーの真骨頂でしょう。ハース版が嫌いな方は別として、6番ではいまだ最高レベルの演奏と思っています。

土曜日, 12月 18, 2010

ホロヴィッツ

Horowitz: Complete Recordings [Box set, Import, from US]
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B0041O9AW0/ref=cm_pdp_rev_itm_img_1

 20世紀の音楽界は巨匠が覇を競った時代。ピアノ界で若き日から名声を欲しいままにし、かつ晩年も元気に輝いたその1人がホロヴィッツであり、本集は1985~87年(81~83才の時)に、ニューヨーク、モスクワ、ミラノ、ウイーン、ハンブルクで録音されたもの。
 ホロヴィッツがながき沈黙を破って、1965年5月9日カーネギーホールに再デビューしたときの衝撃はいまも忘れていない。過去のピアニストと思っていた巨人がふたたび歩みだした鮮烈な印象だった。
 さて本集では、まずは80才を超えて旺盛に活動する芸術家とは・・・といった「畏敬の念」がまずは必要。次にプログラムとの適合性に注目。下記のとおり、J.S.バッハからモシュコフスキまで10名の作曲家の作品が取り上げられているが、おそらく技巧、体力面から、そしてなによりもっとも共感し得意とする演目を慎重に選んでのことだろう。よって同じ曲がなんども重複して取り上げられている点は注意(【回数】で表示)。
 ホロビッツファンにとっては垂涎のものだろうが、下記のリストはいまにいたるまで最高級の演奏として記憶されるべきものでもある。 

<収録曲>
・J.S.バッハ(ブソーニ編):コラール前奏曲『いざ来たれ、異教徒の救い主よ』
・D.スカルラッティ:ソナタ ロ短調K.87、ホ長調K.135、ホ長調K.380 
・モーツァルト:ピアノ・ソナタ第3,10【2回】,13番【2回】、ロンドニ長調K.485【2回】、アダージョ ロ短調K540
・ショパン:マズルカ(へ短調Op.7-3,イ短調Op.17-4, 嬰ハ短調Op.30-4, ロ短調Op.33-4)、スケルツォ第1番ロ短調Op.20、ポロネーズ第6番『英雄』【2回】
・シューベルト:即興曲(変イ長調D.899-4,変ロ長調D.935-3)、(タウジヒ編):軍隊行進曲変ニ長調D.733-1、(リスト編):ワルツ・カプリース第6番『ウィーンの夜会』【4回】、楽興の時~第3番ヘ短調D780-3【2回】、(リスト編):白鳥の歌~セレナードD957-4、ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調D.960【3回】
・シューマン:ノヴェレッテ ヘ長調Op.21-1、クライスレリアーナOp.16、子供の情景Op.15~トロイメライ【3回】
・リスト:コンソレーション第3番変ニ長調、即興曲嬰へ長調、忘れられたワルツ第1番、巡礼の年第2年『イタリア』~ペトラルカのソネット第104番
・ラフマニノフ:前奏曲嬰ト短調Op.32、W.R.のポルカ
・スクリャービン:練習曲(嬰ハ短調Op.2-1【2回】、嬰ニ短調Op.8-2、嬰ニ短調Op.8-12)
・モシュコフスキ:練習曲ヘ長調Op.72-6 、花火Op.36-6【2回】

土曜日, 12月 11, 2010

フルトヴェングラー ブラームス 交響曲第4番














http://www.geocities.jp/furtwanglercdreview/bra4.html によれば、フルトヴェングラーのブラームス4番には、以下の5種類の演奏がある。

1 1943.12.12- BPO PH 
2 1948.10.22 BPO Dahlem 
3 1948.10.24 BPO TP 
4 1949.6.10 BPO Wiesbaden 
5 1950.8.15 VPO Salzburg 

  聴いているのは3であり、TPはティタニア・パラストの略である。かつて以下の感想を書いた。  

1948年10月24日、ティタニア・パラストでの演奏。フルトヴェングラーのブラームスでは、憂愁の深みを表現するうえで、感情移入によるテンポの大胆な緩急などについて多く語られるが、それに加えて、この演奏でのリズムの刻み方の切れ味はどうだろう。  一般に語られる4番のもつブラームスの「人生の秋、枯淡の味わい」といった抒情的な解釈よりも、古典的な造形美を最後まで貫き、絶対音楽のもつ孤高性こそを生涯、変わることなく主張したブラームスの芯の強い本質にフルトヴェングラーは、鉈を振り下ろすような圧倒的にリズミックな隈取りと時に自信に満ちた強大なダイナミクスをもって応えているように思われる。  しかもオーケストラは指揮者の意図を明確に理解し、細心の注意と最大限の集中力をもって臨場している。だからこそ、そこから湧きたつ音楽は、少しの曖昧さもなく説得的であり、深い感興をリスナーに与えることができるのだと思う。ドイツ的な名演という意味は、彼らのもつ「絶対音楽」の伝統を誇りをもって示しうるところにこそあるのかも知れないーーそうしたことをこの類い希な名演はわれわれに教えてくれている。 http://www.amazon.co.jp/gp/cdp/member-reviews/A185EQOC8GHUCG?ie=UTF8&display=public&sort_by=MostRecentReview&page=7  この1週間くらい、

また全集を取り出して聴いている。かつて毎朝、日が昇らずマイナス20度の寒さに街頭にでる経験をしたが、北ドイツの冬は暗くて実に寒い。同じドイツでもバイエルンなどの南の地方は少しく印象がちがうが、北方の生活者には憂鬱症といつも熟考する思慮深さ、そして厳しい環境、困難に負けない強い意志などがない交ぜになっているように感じることがある。よくブラームスを聴きながら通勤したが、これぞ風景と一体の感興があった。  この4番は、交響曲作曲家として満を持しての決意表明たる1番、比較的温暖で明るい2番をへて、叙情性のもっとも良くでた3番ののち、晩年の集大成としての作品だが、ウイーンでの名声や華やかな生活の影響などどこにも感じられず、原点回帰、ブラームスの心象風景たる北ドイツの冬の寂寥感を強く意識させる。  フルトヴェングラーの演奏は、その寂寥たる雰囲気を保ちながらも、その一方、上に記したように北方ドイツ人の強靭な意志をより印象づける。大胆なリズミックさとどこまでも底知れず沈降していく深みの感覚、テンポのたくまぬ可変性、フレージングの自由な処理、そして全体から受ける孤独に耐える知性的な闘争心。こういう演奏は他にない。

土曜日, 11月 27, 2010

マタチッチ/N響 ブルックナー8番


1984年3月7日,NHKホールでのコンサート・ライヴ。全曲74分13秒

 有名なN響とのライヴである。本当に久しぶりに聴く。まずもって驚かされるのはN響の緊張感あふれる応対で、第1楽章から管楽器も実力を思いっきり発揮すべく、奮戦の気構えで臨場している様が伝わってくる。
 マタチッチの音楽づくりは、いつもどおり隈取りくっきり、リズムも小刻み、よく切れる包丁でザクザクと刃をいれていく印象ながら、その切り口はけっして大雑把ではない。否、細部に神経の行き届いた、それでいて生き生きとした溌剌さを失わせない統率力こそその持ち味だろう。名シェフといった趣である。

 かつ、ハイテンションの気迫が最後まで衰えない。演奏がすすむほど熱気が籠もってくる感じで、こういうライブに居合わせたら、聴衆は徐々に「金縛り」の状況になっても不思議はない。
 全般にテンポは早く、第3楽章も一気に駆け抜ける爽快感があり、そのため弦、木管の叙情性あふれる表情は抑えられているように感じる。