金曜日, 10月 29, 2010

スクロヴァチェフスキ ブルックナー第2番


 スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮ザールブリュッケン放送交響楽団の演奏。ジャケットは全集で本盤とは別、ここで取り上げるのは交響曲第2番(1877年、第2稿)。1999年の録音、基本的にはライヴ盤だが、部分的には微調整がなされ、その後の編集で修正されているようだ。
 ブルックナー愛好家の特色は、一種の判官贔屓(レパートリーの広い大家よりもブルックナーに「強い」指揮者を好む)、来日演奏家への敬意(もちろん、いわゆる「畢生の演奏」をやった人)、高齢者尊重といった傾向がある。この3要素をスタニスラフ・スクロヴァチェフスキは見事に満たしている。
 聴いていて、根強いファンがいる理由がよくわかる。きめ細かい周到な解釈、オーケストラを縦横にコントロールして渋い良さを引き出す、76才のブルックネリアーナ指揮者としての充実した演奏。かつてのマタチッチ、レーグナーなどの系譜を継いで、スクロヴァチェフスキも訪日時に多くファンに親しまれている。
 この2番も良い演奏である。アクがない素直さが持ち味。難を言えば淡泊すぎて突出した個性が乏しいことだろうか。レーダーチャートで分析すれば、どの要素も平均をはるかに超えるが、ここが一番といったところが際だたない。しかし、そうした演奏スタイルがあってもよいと思う。同じ2番でショルティ盤と聴き比べる。キュッキュと締めた演奏のショルティに対して、オーケストラを無理なく緩めにコントロールしているスクロヴァチェフスキの姿が浮かび上がる。どちらの行き方もあるのだろうし何が好ましいかは聴き手の心象次第とも言える。


(参考)以下はウィキペディアからの引用
スタニスワフ・スクロヴァチェフスキ(Stanisław Skrowaczewski, 1923年10月3日 -)は、ポーランド出身の指揮者、作曲家。ファースト・ネームは日本では「スタニスラフ」と表記されることが多い。名前が長く読みにくい為、欧米では略してMr.Sとも呼ばれる。彫琢された細部の積み重ねからスケールの大きい音楽を形成する独特の指揮で定評がある。作曲家としての活動も活発で、世界的評価がある。

ポーランドのルヴフ(現ウクライナ)生まれ。4歳でピアノとヴァイオリンを始め、7歳でオーケストラのための作品を作曲したという。11歳でピアニストとしてリサイタルを開き、13歳でベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番を弾き振りするなど、神童ぶりを発揮した。しかし、第二次世界大戦中の1941年、ドイツ軍の空襲によって自宅の壁が崩れて手を負傷したため、ピアニストの道を断念。以後、作曲と指揮に専念するようになる。
1946年、ブロツワフ・フィルハーモニー管弦楽団指揮者。
1949年、カトヴィツェ・フィルハーモニー管弦楽団指揮者。
1954年、クラクフ・フィルハーモニー管弦楽団指揮者。
1956年、ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団音楽監督。同年、ローマの国際指揮者コンクールに優勝。
1958年、ジョージ・セルから招かれて渡米、クリーブランド管弦楽団を指揮してアメリカデビューを果たす。
1960年-1979年、ミネアポリス交響楽団(現ミネソタ管弦楽団)音楽監督。現在桂冠指揮者。
1984年-1991年、イギリスのハレ管弦楽団(マンチェスター)首席指揮者。
1994年からザールブリュッケン放送交響楽団(現ザールブリュッケン・カイザースラウテルン・ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団)首席客演指揮者。
2007年4月、読売日本交響楽団常任指揮者(~2010年3月〔2010年4月から桂冠名誉指揮者〕)。

もともと実力派の指揮者として好事家の支持を受けていた。1960・70年代のミネアポリス交響楽団音楽監督時代には、マーキュリー・レーベルに大量の録音を行い、同レーベルの録音の優秀さとともに注目を集めていた。1990年代以降、ザールブリュッケン放送交響楽団とのブルックナーの交響曲全集録音でカンヌ・クラシック賞及びマーラー・ブルックナー協会の金メダルを受賞し、ウィーンではトーンキュンストラー管弦楽団などを指揮し、日本でも一躍知られるようになった。ウィーン国立歌劇場、メトロポリタン歌劇場、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、フランス国立管弦楽団、ハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団、フィラデルフィア管弦楽団など世界各地の歌劇場・オーケストラに客演している。日本では、NHK交響楽団と読売日本交響楽団、さらに札幌交響楽団に客演している。
録音も多く、そのどれもが水準が高いが、とりわけ、ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー、ショスタコーヴィチの演奏は名盤とされる。現在アメリカ・ミネアポリス市在住。

【作曲家としての活動】
戦後の1947年にフランス大使館の奨学金を受けて2年間パリに滞在、ナディア・ブーランジェやアルチュール・オネゲルに作曲を師事した。パリ滞在中に、「ゾディアク」という前衛グループを設立した。世代的にはルトスワフスキとペンデレツキの中間のポーランド楽派における繋ぎ役とされる。
20世紀を代表する作曲家ピエール・ブーレーズ、ルイジ・ノーノ、カールハインツ・シュトックハウゼンらとの交流がある。しかし、最も強い影響を受けたのは、ブルックナーという
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD

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