火曜日, 12月 31, 2019

日曜日, 9月 15, 2019

テンシュテット 名盤 アップデート2


Beethoven: Symphony No 3
1979年7月、ハンブルクで北ドイツ放送響を振ってのライヴ盤。このエロイカを聴いていて、もしもベートーヴェンが3番までしか作品を残さなかったとしても後世最高の交響曲作曲家との評価をえたのではないか、といった感想をもった。それくらい作品の良さを引き出した入魂の演奏である。
この時代の少し後、FMでテンシュテットのブルックナーの第8番を聴いて、すっかりファンになった。その熱い演奏の衝撃は新鮮かつ強烈だった。
エロイカでは、後年の演奏も同様だが、その「熱さ」の背後に見事なオーケストラ操舵がある。統制を緩めて軽快に飛ばすドライブ感(第1、3楽章)と速度をぎりぎりまで減速してたっぷりと情感をもって丁寧に仕上げていく(第2、4楽章)交互の手法が見事にいかされている。その解釈の説得力とパッションが、エロイカ中のエロイカともいえる名演を生んだと思う。

ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」
Klaus Tennstedt: The Great EMI Recordings にて聴取。これだけの名演奏が「単品」では現役盤でないこと自体が不思議。ライヴとは思えない完成度であり録音も良好。
さりげなく自然体の構えに見せて、実は大変バランスよく均整のとれた演奏で、いままで聴いてきたほかの指揮者のあまたの音源と比較しても、トップクラスの名演であると思う。すこしオーケストラの統制を緩めて軽快に飛ばすドライブ感(第1、3楽章)と速度をぎりぎりまで減速してたっぷりと情感をもって丁寧に仕上げていく(第2、4楽章)交互の手法が見事にいかされている。
テンシュテットでは、かつて全集 クラウス・テンシュテット ベートーヴェン 交響曲全集(全曲Live)
も販売されたが本盤に限らず、是非廉価版での登場を望みたい。間違いなく再評価に繋がるだろう

Symphony Nos 3 6 7 8 Overtures
第3番はライヴ盤だが、大変バランスよく均整のとれた演奏で、いままで聴いてきたほかの指揮者のあまたの音源と比較しても、トップクラスの名演であると思う。すこしオーケストラの統制を緩めて軽快に飛ばすドライブ感(第1,3楽章)と速度をぎりぎりまで減速してたっぷりと情感をもって丁寧に仕上げていく(第2、4楽章)交互の手法が見事にいかされている。

これは6番や8番も同様で、とくに流麗、豊饒な音楽に特色のあるテンシュテット・サウンドのヒット感が6番では強く感じる。3番、6番、8番そして序曲集と聴いてきて思うのは、オーケストラ(メンバー)が心のなかで豊かに「歌っている」感じを抱くということだ。外形的ではなく、あたかもハミングでも聞こえてきそうな雰囲気がある。しかも、それは統制されたものではなく、音楽に身をゆだねて自然に歌がでてくるような臨場感がある。これぞ、テンシュテットの魅力の源泉。

◆ベートーヴェン:交響曲第3番『英雄』、1991年9月26日、10月3日(ライヴ)、『プロメテウスの創造物』、序曲『コリオラン』、『エグモント』序曲、1984年5月11-12日、ロンドン・フィル
◆ベートーヴェン:交響曲第6番『田園』、第8番、1985年9月15,16,19日、1986年3月27日、『フィデリオ』序曲、1984年5月11-12日、ロンドン・フィル

Great EMI Recordingsでの購入も一案

ベートーヴェン:序曲集
1984年5月11-12日にロンドン、アビー・ロード第1スタジオで収録されたベートーヴェンの序曲集。派手さとは無縁ながら1曲1曲丹念に演奏している。「フィデリオ」序曲では弦楽器の伸びやかな響きが心地よい。「レオノーレ」序曲第3番の終盤はライヴ的なノリも見せる。「プロメテウスの創造物」序曲では速い展開のなかリズミックさを強調している。一転、序曲「コリオラン」はインテンポで厳粛さのなかに哀切のメロディが映える。「エグモント」序曲も気負ったところなく、低弦を前面に堂々たる落着きある演奏。
あたかも、自然体で素材の良さを引き出せばいい、というテンシュテットのメッセージが込められているような滋味ある曲集。

ワーグナー:管弦楽曲集1
劈頭は、もっとも有名な「ワルキューレの騎行」からはじまる『指輪』の管弦楽集。奥行ある響きだが、管弦楽の爆発力を強調するのではなく、むしろ内燃的な演奏。
「夜明けとジークフリートのラインの旅」は低弦を基調に遅く、心理的な描写に照準をあわせているようだ。ベルリン・フィルの安定し表現力に優れた管楽器、分厚い低弦が主役の「ジークフリートの死と葬送行進曲」。ここはオケの実力が問われる試金石だが、テンシュテットは大きな構えで、統制を緩めに、存分にベルリン・フィルの自力を引き出そうとしており、そのうえで入魂の気を注入している。
後半「ヴァルハラ城への神々の入城」では、ライトモティーフを明確に浮かび上がらせ、全合奏でワーグナー・サウンドを迫真表現。「森のささやき」では木管が活躍。ドイツ人にはおそらくぐっとくる心地よき森林浴ヒーリング・メロディ的で一服感がある。そして終曲「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」では、ふたたびドラマティックな展開の妙を存分に楽しめる。
永らく東独の歌劇場の指揮者を務めていたテンシュテットである。『指輪』は何度も振っていたであろうから、全曲を聴いてみたいという欲求をリスナーに与える曲集である。

ワーグナー:管弦楽曲集2
静かで穏やかな出だしの『タンホイザー』序曲、全体に遅い運行で細かいニュアンスも丁寧に拾い上げながら、ロマン的オペラ(Romantische Oper)の牧歌的な雰囲気をよく表現している。『リエンツィ』序曲も遅いテンポのなか、ベルリン・フィルの深き低弦の響きが一転、悲劇(große tragische Oper)を暗示する。その後、金管主力の力強いテーマで明るく盛り上がるが、こうした色調の巧みな変化こそ指揮者の腕だろう。『ローエングリン』の有名な2つの序曲。『タンホイザー』と対をなすロマン的オペラだが、第1幕への前奏曲では弦楽器の高音の美しさが絶品。単に美しいだけではなく表情が多層的で磨かれている。ここは何度でもリピートで聴きなおしたくなる見事さ。第3幕への前奏曲は壮麗さが売りだが、ここでも美々しき高音のサポート効果は大きい。掉尾は定番『マイスタージンガー』 第1幕への前奏曲だが、一切の気負いも張ったりもなく実に伸び伸びとした演奏。ワーグナーのメロディ・メーカーとしての才能とベルリン・フィルの技量、両者を最適に表現しようとするかのようなテンシュテットである。


テンシュテット ブラームス 交響曲 第1番 第3番
〇交響曲第1番
1992年10月14日のライヴ録音だが、冒頭から音が籠っており意外にも鮮度が乏しく感じる。いかにもテンシュテットらしく構えが大きくテンポは遅い。第1楽章は低弦の響きが底部で常にうねっており重厚このうえない。
第2楽章もインテンポ、落ち着いた、内省的な、そして美しい音楽である。第3楽章、テンポがやや可変的となり、音の重心が中声部にうつり、木管・金管の触媒でダイナミクスの幅が広くなることで暗から明に徐々に色調が変化する。終楽章、ふたたび重い出だしだが、テンポは徐々に上がり、音の明暗は融合し、ダイナミクスはさらに拡大する。しかし、テンシュテットは、あくまでも沈着冷静な演奏に終始しており、往時の苛烈なフィナーレではない。

〇交響曲第3番
1983年4月7日のセッション録音。上記第1番よりもはるかに音がよく、第1楽章から思い切りのよい解釈で熱気に満ちている。小気味のよいテンポ、テンシュテットらしい音の奔流もあって、これが堪らない魅力である。第2楽章、木管を中心に基調は明るいが、ときに重たい低弦をかぶせ複雑な表情を演出する。自在に音を融合させ表情に変化をつけるのもテンシュテットの優れた持ち味。ブラームスの緩徐楽章の精華ともいうべき第3楽章、その切なる哀愁感は美しく、しかし芯のある響きによって引き立っている。終楽章、堂々とした構えを維持しつつ、音の躍動感が増す。魅力的で充実したブラームス・サウンドである。


Anton Bruckner: Symphony No. 3
ブルックナーの第3番は、作品そのものに狷介なところがあり指揮者にとっては難物である。初稿版は繰り返しも多く長大な印象だが、改訂がすすむ都度、カットが行われ演奏時間も短くなっている。テンシュテットは、ノヴァーク版(第3稿1879年)を使用し、演奏時間は52分強、比較的快速の演奏である。
録音のせいもあってか、バイエルン放送響の音感がやや軽く、テンシュテットにしては濃厚さをあまり感じさせないが、その分、すっきりとした仕上がりになっている(1976年11月4日/ミュンヘン・ライヴ)。
たとえば、ショルティ盤(ノヴァーク版1877年、59分)ブルックナー:交響曲第3番「ワーグナー」 は分厚い音響美を構築している(その反面、ややもたれる部分もある)が、それとの比較では淡泊に聴こえるかも知れない。
しかし、テンシュテット盤の魅力は、いつもながら作品に対する集中度とよどむことなき流麗さにあり、メロディラインの美しさは自然で実に好感がもてる。その点で本曲が苦手な向きにも受容しやすいかも知れない。

→ アントン・ブルックナー ~ エディション (Anton Bruckner ~ The Collection) (20CD Box) [輸入盤] にて聴取


ブルックナー:交響曲第4番
クラウス・テンシュテットは東独の指揮者(1926年メルセベルク生まれ)だったので、早くから頭角はあらわしつつも、冷戦下「西側」へのデビューが遅れました。しかし、豊穣なボリューム感をもった音楽性には独自の良さがあります。ブルックナーは得意の演目です。

 当初は、フルトヴェングラー、クレンペラーに続く古式ゆかしい指揮者と思っていましたが、聴き込むうちになんとも素晴らしい音づくりは彼独自のものと感じるようになりました。音の流れ方が自然で、解釈に押しつけがましさや「けれんみ」が全くありません。その一方で時に、柔らかく、なんとも豊かな音の奔流が聴衆を大きく包み込みます。そのカタルシスには形容しがたい魅力があります。ブルックナーの第4番は、こうしたサウンド・イメージにぴったりですし、ベルリン・フィルとの相性も良いと思います。数多の名演のある第4番ですが、小生は最も好きな演奏の一つです。

<以下は2019.3.2に追記>
第1楽章、ゆっくりと慎重に主題を提示していく(以降、再現部などの主題提示でもこの傾向は一定)。全体として、ペースを崩さず一歩一歩踏みしめながら坂道を登るがごとき演奏。一方、“音量”の増加と“色調”の明るさが“同期”しており、はじめのクライマックス形成後は、若干テンポを動かし変化ももたせるが、鷹揚とした構えはかわらない。
第2楽章、低弦を前面に重い出だしは第1楽章同様。テンポは一定で遅い。緩徐楽章の魅力的なメロディは前述の“音量と色調の同期”によって奏でられるが暗き影も差し込む。
第3楽章、テンポを上げ、ベルリン・フィルの全奏による迫力十分のスケルツォ。一転、牧歌的なメロディは情感たっぷり、ふたたび畳みかける強奏という「入れ子」状の変化のメリハリがよく効いている。
終楽章も第1楽章を踏襲しながら、テンポ上昇、音量増加によって、ブルックナーの壮大なアーチを音響空間に出現させる。その後の静謐回帰のあとのフィナーレへの道程はテンシュテット流の大胆さが顕著。カラヤン/ベルリン・フィルの同番演奏ではありえないが、一部では金管楽器の思い切った咆哮や弦楽器のせり上がっていくような音も聴くことができる。このように躊躇なく強奏を打つのはコンヴィチュニーほか旧東独の指揮者に共通するが、テンシュテットの場合は、ゴツゴツした感じがなく流麗な音の奔流が魅力。
 
Great EMI Recordingsでの購入も一案

Bruckner: Symphony No.8
全般に遅い運行で、特に第3楽章のアダージョ後半の第2主題を奏するヴァイオリンの引っぱり方などは限界に挑んでいるかのような緩慢さである。しかし、そこに籠められているのはとても深い豊かな響きである。

フルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、そしてチェリビダッケなどにも共通するが、遅いテンポの持続は、その少しの変化でも微妙な表情づけを可能とする一面がある。これは第4楽章も同様。速くなく(nicht schnell)どころではなく第3楽章の長い延長線が続く。フィナーレもコラール風の句の前後で若干、テンポが上がるが最後までほぼ巡航速度は維持される。フルトヴェングラーのようなアゴーギグにともなうクレッシェンドやディミニュエンドの多用はなく、使われる場合はかなり抑制的に(しかし、それゆえ効果的に)発動される。

本演奏の評価は、こうしたテンポの設定がテンシュテットが、たとえばマーラーでみせる「激烈さ」の魅力を削いでいるのではないかという点にあるかも知れない。しかしよく耳を傾ければ、内燃するエネルギーは強く、なんど聴いても終了後深い感動がある。小生はこうしたテンシュテットの演奏を好ましく思う一人である。

◆ブルックナー:交響曲第8番(ノーヴァク、1890年版)、1982年9月24-26日、ロンドン・フィル

Great EMI Recordingsでの購入も一案

R.シュトラウス:ツァラトゥストラはかく語りき
このアルバムは象徴的である。「ツァラトゥストラ・・・」は不思議な曲、難解な曲と言われ、「埋葬の歌」や「病から回復に向かう者」といった表題をもった部分もある。テンシュテットは録音時点の1989年3月、重篤な病気闘病中であり、なぜこの曲の録音を行なったのか、いかなる心象で臨んだのかといった関心は否が応にも高まる。
 しかし、そんなことは付随的とも思わせる素晴らしいスケール感の、これは名演である。オルガンのぶ厚く低いイントロ、低音のトレロモ、トランペットの輝かしい閃光的な登場といった有名な序奏から終曲「さすらい人の夜の歌」まで一気に駆け抜けるような集中力ある演奏で、とても病気を押して演奏しているような風情はない。気迫にあふれ、バランス感絶妙の本演奏を接して、これほど気宇浩然の魅力的な曲だったのかと驚くリスナーも多かろう。1986年3月録音の「ドン・ファン」も同様な印象。テンシュテットがいかにR.シュトラウスを得意にしていたかを知る格好な1枚である。

ドヴォルザーク:交響曲第9番
1984年3月14〜15日ベルリンでの録音。カラヤンが帝王としてベルリンに君臨していた時代にもかかわらず、テンシュテットは同時期に比較的多くの録音をベルリン・フィルと残している。ライヴェルの存在には人一倍厳しかったと言われるカラヤンがなぜそれを許容したのか、という疑問は残るが、東独出身でおそらくは自分とは全く違うタイプの演奏家であり、覇を競う相手とは考えていなかったのかも知れない。

たしかに完璧な構成力を誇るカラヤン/ベルリン・フィルとは趣きのことなった「新世界」である。ベルリン・フィルはとても伸び伸びと演じているように聞こえる。テンシュテットらしくオケの自由度の幅を大きくとり、全体に鷹揚とした構えながら、要所要所では鋭角的なリズミックさを強調しつつ、メロディの丹念な彫琢もキチンと行っていく。木訥とした泥臭さをどこか遠くに感じさせながら、ベルリン・フィルのアンサンブルは申し分ない。弦と木管が前面にでて、全体に自然でしなやかな感じをよくだしている。
小生好みのノイマン/チェコ・フィルの演奏 ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」&第7番 にも通じるものがある。聴いて飽きのこない佳演。  

シューマン:交響曲第3番
揺れ動く心の振幅―激しいパッションと崩れ落ちそうになるような抒情性の葛藤―この曲の演奏は難しいと思う。思い切りのよい踏み込みで作曲家の心情と同化せんとするテンシュテットの没入型のアプローチで、この曲の「凄み」がはじめて理解できたような気がした。第2楽章は複雑な音型が交錯し、それは希望と懊悩の隠れた表現になっているように感じる。ひとときの静けさの第3楽章、ふたたび心の荒野を見つめるような第4楽章、そして終楽章。色調が明るくなって躍動感が増してくる。このあたりの解釈のメリハリの効いた明快さこそテンシュテットらしさか。最高度の表現能力をもつベルリン・フィルが真剣に臨場している緊迫感、それを十全に引き出しているテンシュテットの実力と背後のひたむきさ。「ライン」の名演である。
珍しい選曲の4つのホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュックは、「ライン」的な心情の複雑さはなく、むしろ重厚なホルン協奏曲をベルリン・フィルの至芸で聴く喜びがある。

シューマン:交響曲第4番
生き生きと躍動する音楽。弦楽器の堰を切ったような奔流に吞み込まれる快感。とくに低弦は底流に引きずり込むような迫力である。第1楽章を聴いただけで、この特異な音作りにたじろくだろう。短い第2楽章はロマンツエ、シューマンの夢想的なメロディは聴かせどころだがベルリン・フィルの木管の表情が美しい。仕切り直しの第3楽章、屹立する雄々しさと官能的甘さが共存するスケルツォ。テンシュテットの曖昧さのない解釈が冴える。減速し、遠くから雷鳴が近づくような緊迫感をもって終楽章は開始され、それまでのすべての主題が再構成される。徐々に明るく、力強く、前向きに、開放的に音楽が一層の高みに上昇し一気のエンディングを迎える仕儀は見事。シューマン:交響曲第3番 ともに名演の誉れがあろう。

Symphony No 4 Italian / Symphony No 9 Great
堅牢な構成力にすぐれつつも、ときに統制を緩めたような音の奔流が魅力のテンシュテットらしさが良くでた1枚(1983年4月収録)。ブルックナーの交響曲へと通じるシューベルトの「遺作」をもっとも感じさせる演奏。ベルリン・フィルではカラヤン盤(1978年)シューベルト:交響曲第8番「未完成」&第9番「ザ・グレイト」 も迫力に満ちた代表盤だが、その5年後のテンシュテット盤には、もう少し素朴で、一切の技巧のない自然体の雰囲気がある。たとえば第4楽章の音の大きなうねりのあと、意想外にスッと引くようなしなやかなエンディングは、強烈なカラヤン盤とは異なるが、かえってなんとも嫋嫋たる余韻が残る。こうしたところにこそ、いかにもテンシュテットらしい朴訥さがあると思う。

Great EMI Recordingsでの購入も一案。