日曜日, 7月 06, 2014

カラヤン ふたたび 初期の立ち姿



http://www.hmv.co.jp/artist_%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%A4%E3%83%B3%EF%BC%881908-1989%EF%BC%89_000000000213588/biography/

 第二次大戦後、フルトヴェングラーが苦労のすえ古巣のベルリン・フィルの指揮台に再び立ち、その復興に尽力したことが、どれほど大きくベルリン市民のみならずドイツ国民全体に勇気を与えたか。同様に、冷戦下の大変厳しい政治環境にあって、カラヤンが、世界最高のスキル・フルな楽団としてのベルリン・フィルをいかに手塩にかけて育て上げ世に問うたか。それによって、当時「孤島ベルリン」の安全保障になんと有形・無形の貢献をしたことか。
 いまから過去を振り返れば、至極あたりまえに見えることが、両人の血の滲むような努力なくしては決して成し得なかったことを考えると、フルトヴェングラーからカラヤンにいたる連続した時代の重みをズシリと感じる。

 そのカラヤンのデビューから1960年までの昇竜期の117枚の記録。以下は小生の聴いてきた初期の録音を中心に若干のコメントを。
 
Herbert von Karajan: Recordings 1938-60 Collection [Import, from US, Box set]
http://www.amazon.co.jp/dp/B008VT20TQ/ref=wl_it_dp_o_pC_S_ttl?_encoding=UTF8&colid=2AP6H65EZ6KPB&coliid=I1KE3M4DPWDOIT


 まず、193843年にかけてのSP録音の≪序曲/前奏曲集≫。戦前、戦中の若き日のカラヤンの英姿がここにある。ドイツ・イタリア枢軸国の代表的な名曲集といった「きな臭い部分」はあろうが、耳を傾けると、そこには類い希な才能にめぐまれた若手指揮者の立ち姿が浮かび上がってくる。特に、イタリアものの響きが、切なく可憐で、しかも初々しくも凛々しい。よくこんな音楽を奏でることができるものかと思う。30代前半のカラヤンの充ち満ちた才能に驚く1枚。


Herbert von Karajan : The Early Recordings (1938-1946)
 


 
  同様に30歳台前半のカラヤンの青年期の記録。圧倒的なスピード感、メリハリの利いた解釈、気力溢れる演奏。しかし、力押しばかりでなく、ときに柔らかく溌剌としたフレーズが心に滲みてくる。天才的な「冴え」である。後日、ベルリン・フィルがフルトヴェングラーの後任にカラヤンを指名した理由がよくわかるような気がする。カラヤンのベートーヴェンの斬新さはいま聴いても凄いと思う。


40年代のコンセルトヘボウとの共演も興味深く、ブラームス交響曲第1番や「サロメ」でのカラヤンは溌剌とし実に巧い。



【録音記録】



◆ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調op.92 1941/ベルリン)


◆「レオノーレ」序曲第3op.72a 1943年9月15日/アムステルダム):アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

◆ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1&第3幕への前奏曲(1939年2月、4月/ベルリン):ベルリン国立歌劇場管弦楽団
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

カラヤン、50年代のフィルハーモニア管弦楽団との演奏。モノラルながら聴きやすい録音。明確な解釈、快速な運行、品位ある抒情性に特色。特にウィーン・フィルとのベートーヴェン「第九」、ヴェルディ「レクイエム」は迫力にあふれた出色のもの。

協奏曲では相性のよいギーゼキングとベートーヴェンの4,5番、グリーグなども名匠ギーゼキングと相性よく粒ぞろいの名曲・名演集となっている。

 
「展覧会の絵」について 
 
1959年、この頃のカラヤンの演奏の切れの良さは、いま聴いてもいささかも古さを感じない。本曲についても後年のベルリン・フィルとの演奏のほうが完成度は高いとは思うけれど、曲想を大胆にイメージさせて、彫琢しすぎぬ、程よいオーケストラ・コントロールの即興的なドライブ感にはぞくぞくとさせるものがある。品位を失わない遊戯感覚(「テュイルリーの庭 - 遊びの後の子供たちの口げんか」)も壮麗な音響空間に佇む感覚(「鶏の足の上に建つ小屋 - バーバ・ヤガー」~終曲「キエフの大門」)も、カラヤンならではの醍醐味。

http://www.amazon.co.jp/Mussorgsky-Ravel-Tableaux-exposition-Version/dp/B00J6DXGUS/ref=cm_cr-mr-title
 
 


1960年フィルハーモニア管弦楽団との録音のシベリウスの2番。その響きの「外延的」なひろがりと「内在的」なものを感じさせる音の奥行き、そこから独特の≪立体感≫がうまれてくる。そうした音楽がある種の威圧感をもって迫ってくる。けっして、よくいわれる表面的で軽いサウンドではない。そう簡単には解析できないし、解析できない以上、たやすく真似もできない。カラヤンの音づくりの典型がこのシベリウスには満ちている。

 レコードを聴きはじめた頃、カラヤン/ベルリン・フィルの新盤は高かったが、エンジェル・レーベルからのフィルハーモニア管弦楽団の旧盤は、録音が古くなったとの理由からダンピングされ安く買えた。しかも、旧盤は過去のもの、更改されて克服されるものとの受け止め方が一般で、その評価も一部を除き新盤に比べて「求心力にかける」「表面的」といった言い方で片付けられていた。
 しかし、今日聞き返してみてどうだろう。こうした独自の立体感あるサウンドを微塵の乱れもなく表現できること自体、もしも、いま同じような指揮者が彗星のように登場したら、おそらく評者の驚きは大きいだろう。30代は30代なりに、50代は50代なりに、その時代にあってカラヤンの実力とはたいしたものだと改めて感心しつつ、フィルハーモニア管弦楽団との演奏には独立の価値があると感じる。

http://anif.blogzine.jp/anif/2010/11/post_b0c3.html

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