ブラームス交響曲全集は、第4番(1956年3月24-25日)、第2番(1957年3月4-8日)、第1番(同年9月23-24日)、第3番(同年9月28-29日)の順で、ウィーン・ゾフィエンザールにてDECCAによってステレオ初期収録されたもの。フルトヴェングラー亡き後、カラヤンのウィーン席巻までの空隙を埋めるかのように、俊英クーベリックがいかに当時注目されていたかの証左。演奏は作為性のないストレートな解釈だが、ときに凝縮されたパッショネイトさもあって第2番、第4番など実に好演(但し、音は籠もってややクリアさに欠ける)。その後、同じDECCAで斬新なカラヤン盤(第1番、第3番)が出たので、いわば本全集はお蔵入りになってしまったが、クーベリック後継全集盤(バイエルン放送響)と聴きくらべても遜色のない出来映えである。若きクーベリックのウィーン・フィル操舵の見事さは刮目に値するだろう。その確かなメモリアルである。
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ドヴォルザークでは前年にいれたスラヴ舞曲集(Op.46、Op.72)の抜群の切れ味にくわえ、さらに音に磨きをかけるような交響曲第7番&第9番のカップリングである。1956年初期ステレオ録音ながらDECCA特有のほのかな艶やかさはある。第7番は濃厚に表情をつけて陰影ふかき音を奏でている。いまふうに言うなら中期のマーラーを聴いているような錯覚すらある。一方、第9番は一切の虚飾も小細工もなく正攻法の演奏。それでいて、否、それゆえにウィーン・フィルの音のふくよかさと奏者の技量が前面にでている。並入る『新世界から』の録音でいまも現役盤を維持しているのは、いかにこの演奏がリスナーの心に響いてきたかの証しだろう。暗さがない。希望と共にある、といった屈託のなさと胸をはって前をみる矜持がそれを支えているのではないかと感じる。
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ウィーン・フィルがこんなに火のついたような”熱い演奏”をするのか!しかも演目はスラヴ舞曲集。クーベリックはものの見事に“じゃじゃ馬”ウィーン・フィルを乗りこなしている。この1点においては、ベーム、カラヤン以上かも・・・。
それは、本曲へのクーベリックの指示の周到な的確さとなによりも”迸るような熱意”によるのだろう。シカゴ響で詰め腹を切らされて欧州に戻って2年後、1953年にウィーン・フィルと入れた本録音の“吹っ切れた”ような演奏の凄味はなんとも異質である。ウィーン・フィルがときにこんなトリッキーな烈しい演奏もするんだという驚きとともに、録音は良くないことはあらかじめ覚悟して一聴をお奨めしたい。思いきり楽しめますよ。
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クーベリックには、バイエルン放送交響楽団とのマーラー交響曲全集(録音:1967-71年、ミュンヘン、ヘルクレスザールにおけるステレオ録音)があり代表盤のひとつである。
第1番ではほかに数種のライヴ盤が残されている。バイエルン放送響との1979年2月11日の録音 Mahler Symphony 1 、20年前のRAIトリノ交響楽団とのもの(録音:1959年4月24日) Mahler/Janacek: Symphony No 1 に加えて、本盤はRAI盤からさらに約5年前の1954年6月にウィーン・フィルを振っての音源で、クーベリック40才頃の録音。シカゴを去って、コヴェント・ガーデン王立歌劇場の音楽監督に就任する前年にあたり、ウィーン客演時の記録である。
1951年の5番(コンセルトヘボウ)のライヴ演奏 Mahler: Symphony No.5 もすばらしかったが、本盤もそれに負けない魅力をたたえる。なんといっても音響のみずみずしさが新鮮だ。第1楽章、弦のフラジオレット、郭公の鳴き声からホルンに続く、柔らかで包み込まれるような弦と木管の融合には至福感がありこれが途切れることなく終楽章まで続行する。全体に自然体な構え、素直で伸び伸びとし奇を衒うことなき運行、ウィーン・フィルの最良のものを引き出している。
ワルター/ニューヨーク・フィル盤が世にでたのが同年の1954年。ワルター/コロンビア響盤が1961年、バーンスタイン/ニューヨーク・フィル盤が1966年のリリースであったことを考えると、このクーベリック盤の先駆性に思いはいたる。
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ラファエル・クーベリック/シューベルト: 交響曲第4番、マーラー: 大地の歌 (tower.jp)
ラファエル・クーベリック/マルティヌー: ピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画、チャイコフスキー: 交響曲第6番《悲愴》 (tower.jp)
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