木曜日, 10月 07, 2021

マーラー 交響曲第6番 名盤5点






バーンスタイン/ニューヨーク・フィルのマーラーはいずれも最高の水準のものだが、第6番ではウィーン・フィル盤を取り上げよう。

バーンスタイン

1988年9月、ウィーン・ムージフェラインザールでのデジタル・ライヴ録音。
ウィーン・フィルが本気を出してマーラーに臨戦するとかくも凄まじき演奏をするのかと驚く(メータの「復活」しかり)。しかし、そうならしめているのはバーンスタインという巨匠の技量と統率力であり、そして、ライヴでこの難しい楽団をいかに気持ちよく「乗せるか」の指揮者の大きな包容力なのだろう。

第1楽章のリズムの大胆不敵な刻み方は強烈な効果。リズムとテンポの置き方は可変的で、かなり強引にオーケストラを引っ張っているようで、その実、メロディの歌わせ方のツボはしっかり心得ており、ウィーン・フィルは伸びやかに実力を出し切っている。第2楽章は、オーケストラの表情が多彩に変化する。その万華鏡的な音を包み込む弦楽器の艶やかな響きがなんとも美しい。こういう音はウィーン・フィルからしかでないだろうなと思わせる。第3楽章は、抒情的な雰囲気のなかで弦楽器の至純のハーモニーがさらに強調される。第4楽章も迫力に満ち、音響的にも秀逸。

さて、しかし全曲を聴き終わってみると、壮年期のバーンスタインのマーラー演奏における解答なき「不可知なものへのあくなき探求」といった姿勢はやや影をひそめているのではと思った。破天荒なパッション(ダイナミズムではなく)も、ウィーン・フィルの完成度の高い音楽の中に居場所をえて収まっているような感じ。名盤の名に恥じないけれど、かつてバーンスタインの演奏に感じた、破壊への欲求や底知れぬ情念をたたえた作品といった印象は少しく薄らいでいるようにも思った。

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次は、第5番につづきテンシュテットである。テンシュテットの解釈を知るうえで、両番を連続して聴くことに意味があると思うがゆえである。

テンシュテット

テンシュテット 稀代の演奏 (amazon.co.jp)


1991年11月のライヴ録音。6番について、マーラーは5番までの作品を聴いた理解者しか、その特質はわからないだろうと語ったとのことだが、3楽章まではそれ以前の作品との連続性も強いと感じるながら、第4楽章に入ると、古典的なソナタ形式に対するアンチテーゼの思いが横溢しているようだ。「形式」が崩れゆく有り様は、強い芳香を発する熟れすぎた果物のような感をもつ。ハンマーが破壊の象徴であれば、なおのことその感を倍加する。

テンシュテットの特質である豊饒な音楽の拡散感がこの4楽章に実にマッチしている。しかし、それが「だれない」のは、音楽へののめり込み、集中力が少しも途切れないからだろう。交響曲という名称が付されながら、その実、「交響」の意味は複雑で多義的で、それは、かっての積木をキチッと組み上げていくような律儀な「形式美」ではなく、雪崩をうって積雪を吹き飛ばすような「崩壊美」に通じるように思う。第3楽章の美しいメロディに浸ったあと、音の雪崩が突然と起こり、それに慄然とする恐懼がここにある。

 テンシュテットには、そうした効果を狙ってタクトをとっているような「作為」がない。テクストを忠実に再現していく過程で、崩壊美は「自然」に現れると確信しているような運行である。こうした盤にはめったにお目にかかれない。稀代の演奏と言うべきだろう。 

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Klaus Tennstedt Mahler: The Complete Symphonies  も参照

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ミトロプーロスの第6番も一聴に値する。バーンスタインの先代として、ニューヨーク・フィルに君臨しマーラーを同フィルに定着させたことも含めて。

ミトロプーロス

Amazon | マーラー:交響曲第6番「悲劇的」 | ミトロプーロス(ディミトリ), マーラー, ミトロプーロス(ディミトリ), ケルン放送交響楽団 | 交響曲・管弦楽曲・協奏曲 | ミュージック

👉 ミトロプーロス Dimitris Mitropoulos


コンドラシン

キリル・コンドラシン/マーラー: 交響曲第6番 「悲劇的」 (tower.jp)

ギーレン

ミヒャエル・ギーレン/ミヒャエル・ギーレン マーラー: 交響曲 第6番(2種の演奏) (tower.jp)


(参考)

ダニエル・ハーディング/マーラー: 交響曲第6番 (tower.jp)


👉 織工Ⅲ: 名盤5点 シリーズ (shokkou3.blogspot.com)


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