木曜日, 10月 07, 2021

マーラー 交響曲第7番 名盤5点


 




アバドのマーラーには屈託というものがない。第7番はよく研究された名演だと思う。

アバド

生きとし生ける物への愛着 (amazon.co.jp)


アバド/ベルリン・フィルのライヴ盤。  Mahler: Symphony No. 3  同様、熱のこもった演奏。アバドのマーラーには一切の張ったりがない。自然体の構えで屈託のなさこそ、アバドの魅力である。「生病老死」のなか、マーラーの音楽には、しばしば「生」の明るさのうちに「死」の翳がさすが、アバドのアプローチは、生きとし生ける物への愛着のまえに、「病老死」の不安を巧みにセーブしているかのようだ。聴いていて暗さも妙な深刻さもない。

その一方、ベルリン・フィルの能力全開に、オーケストラの饗宴とでもいうべき素晴らしい音響を引き出している。ベルリン・フィルはカラヤン時代に比べて、生き生きと思い切りよく臨場しているように思われる。特に声楽を伴わない7番ではそうした特質が遺憾なく発揮されている。大変優れた7番ライヴである。

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ロスバウトのマーラー解釈、分析的でこの時代としては先駆性があると思う。

ロスバウト

ロスバウト、先駆的・革新的マーラー第7番 (amazon.co.jp)


ロスバウトのブルックナー  Bruckner: Symphonies 2/5/7  についで、マーラー(
Gustav Mahler: The Symphonies, Das Lied von Der Erde(The Song of The Earth) に収録)も聴きたくなった。

第7番を手にとる。強烈なインパクトを感じた。この人の演奏は筋肉質である。あえて「線条的」とでも言うべきか。骨格がはっきりとしており、そこにモデレされる音には曖昧さもべとつくような感情もない。有機的に意味がある音が、必要な感情を適量に保持しながらリスナーに提供されるような演奏。
では、聴く側はそんな即物的な音楽を喜ぶのか。1950年代の多くのリスナーにとっては、マーラーの音楽自体(特に第7番)が珍奇であったことにくわえて、こうした演奏スタイルだと親和性はなかったかもしれない。しかし、今日、マーラーの交響曲はメジャーであり、かつ即物主義的な解釈もまた当然といった風潮。そうした時代の変遷のなかで、ロスバウトの演奏には普遍性を感じるし、余分な感情表出がない分、すっきりとした仕上がりが爽快でもある。
ロスバウトは本盤に先立って第7番の別の収録  
Mahler: Symphony No 7  もしている。当時、そんな指揮者はごく少数であった。取り上げは先駆的であり、演奏は革新的であり、しかもそれを密かに楽しんでいるような風情もある。
録音は古く音は良くないが、楽器の起用には工夫がある。カウベル、銅鑼、鐘、グロッケンシュピールなどぶっきらぼうに、音楽を亀裂するように使用する。非調和的なのだが、そのトリッキーな登場は全体を引き締める効果がある。しかし、そんな「ゲリラ」はなくとも、基調の流れがしっかりとしており、いわば全体の「軍律」に弛みがないので、飽きのない緊張感が持続する。
その一方、有名な2楽章の夜曲(Nachtmusik)といった表現は正直、感じなかったが、現代音楽の「夜明け前」といった連想は容易にイメージできる。

<収録情報>
・マーラー:交響曲第7番ホ短調
 南西ドイツ放送交響楽団
 ハンス・ロスバウト(指揮)
 録音:1957年2月18,20日(モノラル)

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ショルティ

ショルティの再認識 (amazon.co.jp)


今日、マーラーもブルックナーも得意とし双方を積極的に録音する指揮者は少なくない。インバルなどはその代表であろう。また、どちらかは全集、他方は選択的という指揮者は数多い。例えば、バーンスタインはマーラー交響曲全集はあるがブルックナーは選択的、カラヤンはその逆といった具合である。さて、ショルティは早くから双方ともに全集を録音している数少ない指揮者である。しかも、両全集ともに極めて均質的で素晴らしい出来である。

 ショルティはライナーやセル、オーマンディら「ハンガリアン・ファミリー」の一人。いずれも共通し、ハンガリー生まれで欧州で学びアメリカで活躍した音楽家だが、そのレパートリーは広大でムラや「駄演」がない。ハンガリアン・ファミリーはライナーが典型だが、オケを徹底的に鍛え上げ、テクストを深く読み込み、集中力溢れる演奏を心がける。

 マーラーの7番も他の演奏同様、高いレベルにあるが、特に手兵とも言うべきシカゴ響との共演であり他で聴けない独自の交響空間を形成している。オケが精密機器のような完璧な演奏をする一方、音の肌ざわりは時にシルキーである。第2、第5楽章の「夜曲」ではそうした肌理のこまやかさを表出する一方、ブレスの大音響の迫力でも音質は崩れない。マーラーの複雑な心象をより抉って表現する流儀とは異なるが、標準的に曲を聴きたい向きにはクセのない最適な演奏だろう。また、7番に限らないがショルティの高度なマーラー演奏を再認識するに十分な1枚でもある。


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ラトルも優れた演奏である。

ラトル

ラトルのマーラー第7番、演出効果の巧さが光る (amazon.co.jp)


豊穣なる音の広がりを大切にしながら、音楽の起伏を大胆につけていく。第6番(1989年12月)収録後2年をへた本7番(1991年6月ライヴ)では、よりアクセントをつけた演奏となっている。

テノールホルンやトランペットが活躍する第1楽章の響きはより奥深くなっており、弦楽器の抒情的旋律との拮抗と融合が繰り返される。第2楽章「夜曲」では、森の鳥たちの鳴き声と何者かの行進曲、そして平安な館での団らんといった場面が想像力をかきたてる。

第3楽章スケルツォの魅力的な旋律とこれに纏わりつくような「おどろおどろしさ」では、ラトルは多彩な楽器を駆使して、「魔法使いの弟子」のような物語性を強調している。第4楽章ふたたびの「夜曲」は、親しみやすい分、やや甘ったるい通俗的な音楽になりがちだが、ここではあえてあざとく演奏することでパロディ感をだしているようだ。終楽章は、複雑な構造をもち長大感がある。マーラーには期するところがあったのだろうが、聴き手はイメージを形成しにくい。ラトルは、リスナーの集中力を途切れさせないような工夫をふんだんに盛り込んでおり、サーカスの明るい音楽のような「ノリ」で一気に駆け抜ける。全体にラトルの演出効果の巧さが光る。 

➡  
Mahler: the Complete Symphonie  も参照


ペトレンコ

キリル・ペトレンコ/マーラー: 交響曲第7番「夜の歌」 (tower.jp)


👉 織工Ⅲ: 名盤5点 シリーズ (shokkou3.blogspot.com)


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