土曜日, 12月 29, 2007

カラヤン ブルックナー8番(1957年)

ブルックナー:交響曲第8番ハ短調 WAB108(ハース版)[86:57] 
録音時期:1957年5月23~25日(ステレオ) 
録音場所:ベルリン、グリューネヴァルト教会

ウェーバー:歌劇『魔弾の射手』序曲[10:25]
メンデルスゾーン:序曲『フィンガルの洞窟』[10:13]
・ワーグナー:歌劇『さまよえるオランダ人』序曲[10:58]
ニコライ:歌劇『ウィンザーの陽気な女房たち』序曲[09:00]
録音時期:1960年9月(ステレオ) 
録音場所:ベルリン、グリューネヴァルト教会 

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 
ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮)

 8番は2枚組になっていて、第4楽章とウエーバー以下がカップリングされている。いまどき一気に聴けないのが少し鬱陶しいが、2枚に分けざるを得ないくらい遅めの演奏である。
 その遅さとともに、ベルリン・フィルの音色は、重く、かつ暗い。運行はまことに慎重で、与えられた時間にどれだけ充実した内容を盛り込むことができるかに腐心しているようだ。よってリスナーにとってはとても疲れる演奏である。しかし、このハシリのレコードが日本におけるブルックナー受容の先駆けになったことは事実で、ながらく8番といえばこのカラヤン盤ありとの盛名を轟かせた演奏である。

 俗っぽい見方かも知れないが、この8番を聴くとカラヤンがフルトヴェングラーのブルックナー演奏を徹底して研究していたのでないかと感じる。そのフルトヴェングラーには1949年に同曲についてベルリン・フィルとの名録音がある。以下はそれについてかって書いた自分の感想。

ーー聴く前に深呼吸がいるような演奏である。これから音楽による精神の「格闘技」に立ち会うような気分になって・・・。フルトヴェングラーのブルックナーの8番は数種の入手が可能だが、1949年3月14日録音の本盤の録音がベストと言われる。ライブ録音ながら、雑音が少なく比較的柔らかな響きが採れているとはいえ、しかし全般に音はやせており、金管も本来の咆哮ではないであろう。緊張感をもって、無意識に補正しながら聴く必要がある。

  その前提だが、演奏の「深度」は形容しがたいほど深く、一音一音が明確な意味付けをもっているように迫ってくる。それゆえに、テンポの「振幅」は、フルトヴェングラー以外の指揮者には成し得ないと思わせるほど大胆に可変的であり、強奏で最速なパートと最弱奏でこれ以上の遅さはありえないと 感じるパートのコントラストは実に大きい。

  しかしそれが、恣意的、技巧的になされているとは全く思えないのは、演奏者の音楽への没入度が凄いからである。これほど深遠な精神性を感じさせる演奏は稀有中の稀有である。根底に作曲家すら音楽の作り手ではなく仲介者ではないかと錯覚させる、より大きな、説明不能な音楽のエートスを表現しようとしているからであろうか。ーー

 カラヤン盤は、かのウォルター・レッグのプロデュースによる初期ステレオ録音でこの時代のものとしては良質で新鮮な音色である。フルトヴェングラーと比較して、いわゆるアゴーギク(Agogik)やアッチェレランド(accelerando)はけっして目立たせず、テンポは滔々と遅く意識的にほぼ一定を保っている(8番に関してこれはほかのカラヤン盤でもかわらない)。
 音の「意味づけ」はスコアを厳格に読み尽くして、全ての音を再現せんと神経質なくらい慎重になされている印象だが、その背後には「冷静な処理」が滲み、フルトヴェングラー的感情の「没入」とは異質である。しかし、そこから湧出する音色は、オーケストラの個性なのか冒頭書いたように重く、暗く透明さは増しているが、なおフルトヴェングラー時代のブルックナー・サウンドの残滓を強くとどめているように感じる。
 象徴的に言えば、フルトヴェングラーは、この曲を舞台に自らの「精神」の格闘技を演じたが、カラヤンはそのフルトヴェングラーの「亡霊」との格闘技を行いつつ自己実現を図っているようだ。その強烈なモティベーションがあるゆえか、この演奏の緊張感は実に強く、カラヤン的な濃密な音楽空間を形成しようと全力を傾けており、よってリスナーは興奮とともに聴いていてなんとも疲労する。
 後年のベルリン・フィルとの正規盤(1890年ノーヴァク版、録音年月日:1975年1月20~23日、4月22日、録音場所:フィルハーモニーザール、ベルリン)では、そうした肩の力のぬけた自信に満ち一点の曇りもないといった堂々たる風情だが、1957年盤の歴史的な価値とは、フルトヴェングラーからカラヤン時代への過渡期のおける<緊張感>に満ちた演奏といった観点からも十分にあると思う。

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