土曜日, 7月 21, 2012

トスカニーニ ベートーヴェン 交響曲全集(1949~53年録音)を聴く


   週末の金曜日から土曜日にかけてトスカニーニのベートーヴェンの交響曲を1~8番、ぶっとおしで聴く。以下は各番別の感想。くわえて、かつて書いた9番についても付記する。 




【第1番】 ハイドンの古典的な交響美をよりいっそう厳しく追求したような本曲第1楽章の冒頭から、トスカニーニはいきなりトップ・ギアを入れるような発進である。以降、全般に斧を正確に振り下ろし均一に薪を割っていくような運動を連想させる。第2楽章では効果的に木管を響かせ、第3楽章のメヌエット(というよりもスケルツォ)はとにかく早く、終楽章は音量を一段上げて、歌舞伎の大見得を切るごとくビシッと極める。
Recorded:  No. 1: 21/12/1951 (Session) Carnegie Hall, New York

【第2番】 第1楽章のアレグロ・コン・ブリオの本曲のはじめの聴かせどころの明瞭な処理の「スカット」感から引き込まれる。第2楽章のラルゲットは上質の抒情をたたえ木管楽器の伸び伸びとした響きが気分を寛がせる。後半2楽章は、高性能なスーパー特急に乗っているような抜群の疾走感が味わえる。
Recorded: No. 2:7/11/1949,5/10/1951 Carnegie Hall, New York

【第3番】 スピードとダイナミズムを重視し、緊迫感に満ちた「エロイカ」である。瞑想的なフルトヴェングラーの演奏とは対極に、一切の観念を振り払って、即物的にベートーヴェンの交響曲のもつ造形美を彫刻せんとするような解釈。第2楽章葬送行進曲も感傷的ではなく表情はあくまでも抑制的。しかし、原曲のもつ深い心象は不思議なことに自然に浮かび上がってくる。大家トスカニーニの至芸だろう。ここではティンパニーの思い切った使い方にも注目。第3楽章スケルツォは1番同様、圧倒的な快速感があり、終楽章で緊張感は頂点に達して、終演後「天下の名曲」を堪能した爽快な充足感に満たされる。
Live Recording: 06/12/1953 at Carnegie Hall, New York JVC K2 24 BIT REMASTERING / MONO

【第4番】 第1楽章の長い導入部はトスカニーニとしては遅いテンポ、じっくりと奏でた後の主部の転換は、強烈な音響の炸裂で劇的に盛り上げる。第2楽章アダージョも緩徐楽章というイメージよりは二度目の転調といった風情で生気に溢れた明るさが身上。第3楽章のメヌエット(というよりもスケルツォに近い)は快速かつハイテンションで一気に疾駆する。終楽章は大きな構えとくっきりとした隈取りで光輝あるエンディングである。シューマンは本曲を「二人の北国の巨人(第3と第5)の間の窈窕(ようちょう)のギリシアの乙女」にたとえたが、トスカニーニの演奏は、どうして乙女ではなく活力に満ちた青年を連想させる。
Recorded: No. 4:3/2/1951 Carnegie Hall, New York

【第5番】 第1楽章、序奏部なしに突然提示される4音の運命動機をこれほど強調し激烈に繰り返し表現する演奏はめずらしい。しかも疾風のようにテンポは速く、金管の被せ方が完璧で全体がひとつの響きに統一されて迫ってくる。第2楽章以降もトスカニーニは手綱をまったく緩めない。木管のパートも表情はむしろ控えめな吹奏で、統一感にいささかの乱れもない。第3楽章はクレッシェンドとディミヌエンドが自在に按配され低弦の迫力が強調される。終楽章は強靭な合奏を楯に、コントロールされた存分の音の奔流で圧倒する。
Recorded: No. 5:22/3/1952  Carnegie Hall, New York

【第6番】 全般に速度早く固有の表題性をあまり感じさせない。よって、楽章ごとのト書きにそって緩やかに聴きたいリスナーには、なんとせかせかと気ぜわしいことかと感じるだろうが、その実、滋味、潤いは欠かさないトスカニーニ的スタイリッシュな演奏。カラヤンが本盤を徹底的に研究していることがよくわかる。第2楽章の抒情性も甘さはなく微かに芳香する上質な香水のような感じか。第3楽章以降の連続楽章も情景描写よりも激しい内的パッションのほうが勝る雄雄しき「田園」である。
Recorded: No. 6:14/1/1952 Carnegie Hall, New York

【第7番】 トスカニーニのリズミックで気迫にすぐれた演奏スタイルからはもっともふさわしいのが本番だろう。叩きつけるような強打のリズムと切り込み鋭い音の彫琢によって激しい展開が最後まで一貫してつづく。第1楽章、オケを一瞬も休ませない凌ぎ方で、まるで格闘技を演じるかのように、よくここまで戦闘的な演奏ができるものだという驚きが走る。その緊迫感は第2楽章のアレグレットでも持続するが、音色の明るさが増しテンポを緩めたメロディアスな部分ではリスナーの別の抒情の感性を刺激する。後半2楽章は、威厳をもって堂々たる「舞踏の聖化」(ワーグナー)のなんたるかを語りかける。
Recorded: No. 7: 11/1951 (Live & Session), Carnegie Hall, New York

【第8番】 第1楽章の冒頭の全合奏からカラリとした晴天に注ぐたっぷりの明光をイメージさせる。第7番の姉妹編のようなリズムの饗宴の一方で、第2、3楽章ではハイドンやモーツァルトの古典に模したような遊び心の展開があり、ここではトスカニーニもベートーヴェンの演奏ではめずらしく実に洒脱な表情をみせる。第4楽章のアレグロ。ヴィヴァーチェは、ふたたび第1楽章の緊張感貫くアプローチに回帰し、引き締まって終結する。
Recorded: No.8: 10/11/1952  Carnegie Hall, New York

【第9番】 フルトヴェングラーのバイロイト盤と双璧をなす最高峰の演奏。演奏時間はフルトヴェングラー盤(約74分)より10分も短く、とにかく速くそして切れ味が鋭い。これよりも速い第9は大所ではミュンシュ(約61分)くらいではないか。
 音にさまざまな「想念」が付着し思索的で粘着度の強いフルトヴェングラー盤に対して、こちらは明燦でかつ「からり」と乾いた感じの音楽であり、純粋な音響美を彫刻していく印象である。しかし、その集中度、燃焼度は凄まじくリスナーは音の強靱無比な「構築力」に次第に圧倒されていく。そこからは「第9とはこういう曲だったのか」という新鮮な発見がある。どの音楽も最高に聴かせるトスカニーニ流とは、スコアから独自の音を紡ぎ出す専門的な技倆と言ってもいいかも知れない。なればこそ、高度な音楽技能者として、その後の指揮者に与えた影響は絶大だったのだろう。
 第4楽章を聴いていて、ベートーヴェンが管弦楽法の究極を追求するために、「楽器としての人声」を独唱と合唱をもって置いたのではないかという仮説をトスカニーニ盤ほど実感させてくれるものはないだろう。第3楽章までの完成されたポリフォニーでリスナーは十分に管弦楽曲の粋を聴き取り、それが第4楽章ではじめて肉声と融合しさらに一段の高みに到達する瞬間に遭遇する。しかもそれは宗教曲の纏のもとではなく世俗的な詩を語ることによって表現される。そうしたアプローチは、ドイツ精神主義とは対極のものかもしれない。しかし、そこには作曲家のひとつの明確な意図が伏在していると感ぜずにはおかない強い説得力がある。トスカニーニ盤は、その意味でも普遍性を意識させるし今日的な輝きをけっして喪っていないと思う。
Recorded: 31/03 and 01/04, 1952  Carnegie Hall, New York



(全体の総括)

 トスカニーニのベートーヴェン、指揮者にとってはいまも一種の教則本的な演奏といわれる。初期のカラヤンがこの演奏を強く意識していたことは有名だが、とりわけアメリカで活躍した指揮者にとっては(1950年代以降、否応なく比較の対象になっていたわけだから)、トスカニーニ/NBCの演奏はひとつの「規範」であった。ライナーやセル、バーンスタインらに、殿堂カーネギーホールでの本録音が与えた影響は計り知れない。
 最近、ベートーヴェンの交響曲全集がとても安い価格で市場にでるようになった。有名指揮者の全集を2~3千円で入手できるのだからオールド・ファンには隔世の感があるが、その中にあっても本全集は、その高質さから抜きんでた「買い物」といえる。194953年の録音であることは明記しておかねばならないが、はじめて聴くリスナーにとって、演奏そのものには、古さを感じるよりもおそらく新鮮な驚きがあるだろう。堅牢な楽曲アプローチ、明快かつ曖昧さのない解釈、専用オケたるNBCの忠誠と集中力ーそこから導かれる完璧なハーモニー、独特のダイナミズムと軽快なリズム・速度感。数多あるベートーヴェン交響曲全集中、今日でも最高峰の記録といえる。


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