Friday, April 08, 2016

ドビュッシー Claude Achille Debussy


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最近、フランス音楽を集中的に聴いている。何年かぶりにフランス哲学の本を手にとり、読むうちに音楽もフランスものを聴きたくなったからである。

ドイツは論理、フランスは心理。ドイツは演繹的、フランスは帰納的。ドイツは体系好み、フランスは構造好み。ドイツは知識から認識へ、フランスは感覚から知覚へ。あまりに二分法的だが、フランスにおける「論理」は柔構造的だと思うし、「演繹」をする場合でもアプリオリな直観がその前提にあるような気がするし、固い、詰まった「体系」よりもスケルトン(空間に余裕をもった)構造に目が向くように思う。
柔構造、アプリオリな直観、空間的余裕は、音楽にも投影されているように思う。形式を破壊し、感性を重視し、空間的・時間的な広がりに価値をおく。その最たるもの、先鋭的な取り組み、天才的な閃きにおいて、ドビュッシーは卓越している。

ドビュッシー:「遊戯」、「映像」(SACDハイブリッド)
ドビュッシー:「遊戯」、「映像」(SACDハイブリッド

ドビュッシーには明らかに現代音楽の先駆の顔がある。しかも、一筋縄ではいかない狷介さもあわせもっている。「遊戯」や「映像」という標題性や具体的な楽曲につけられた解説を読んで、イメージをふくらませることはできるが、聴後に、それだけでは得心できないものを感じるリスナーも多かろう。

ドビュッシー音楽のこのような複雑な構造を、クリュイタンスは「あるがまま」に描き出そうとしているようだ。標題性の強調よりも、斬新なパーカッションの使い方や、弦楽器のデフォルメされたグラマラスな響きなどを実に慎重に扱いながら、魅力的な音楽空間をそこに創り出している。たとえば、フォーレのレクイエムでみせた「非作為」のスタンスから導かれる自然の美しさの表出をここでも感じる。

クリュイタンスという秀でた指揮者は、どんな音楽でも、彼のもつ抜群の平衡感覚で素材の良さを最大限に引き出せるところにあるのでないか。クリュイタンスの手によって、ドビュッシー音楽の先駆性を考えさせられた1枚である。

ボレロ~ラヴェル&ドビュッシー..
ボレロ~ラヴェル&ドビュッシー..

1960~70年代、日本でのオーマンディの評価は不当に低かったと思う。それはさらに一時代前、かのカラヤン/フィルハーモニー管弦楽団の清新溌剌たる演奏についてすら、音が「軽い」と一刀両断に評論家からいわれたくらい、「重厚なドイツ的な響き」、「艶やかなウィーンの響き」こそ最上といったステロタイプ化された価値観が、当時の日本では根強かったからかもしれない。

それゆえ1967年のオーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団の初来日ライヴをはじめて聴いた人は、その響きの明耀さと技量の確かさに舌をまいたという。それは1970年のセル/クリーヴランド管弦楽団の来日公演でも音色、アンサンブルこそフィラデルフィアとは異なれ同様の驚きがあったことだろう。今日からは隔世の感があるけれど、これは海外来日クラシック音楽界揺籃期の出来事である。

さて本盤。いま虚心坦懐に耳をかたむけると、この曲集の完成度が実に高いことがわかる。特に「ダフニスとクロエ」の色彩感あふれる表現ぶりー水に反射する陽光に似たりーにはぞくぞくするような感動がある。それはオーマンディが巷間いわれるように技術的に「巧い」からだけではなく、曲の本質をしかと掴み、フィラデルフィア管弦楽団と完全共有していたからこそではないかと思わせる。ドビュッシー、ラヴェルといえばミュンシュLa Merやブーレーズラヴェル:作品集(SACD)の演奏も好きだが、この曲集には真似のできないオーマンディ流の自然体の構えと独立の美意識があろう。
 
→ Eugene Ormandy Conducts 20th Century Classics

La Mer
La Mer

 ミュンシュのドビュッシーは最晩年のミュンシュ&パリ管/ドビュッシー:交響詩「海」 他 (Berlioz:Symphonie fantastique&Debussy:La Mer / Munch & Orchestre de Paris (14/11/1967)) があまりにも有名だが、慣れ親しんだボストン響を振った本盤の秀演も甲乙はつけがたいだろう。なによりも豊かな表情と高音部の伸びやかさに特色のあるボストン・サウンドはミュンシュが磨いたものであり、このフランスものの1枚はその到達点を示している。

全般にテンポがはやく、曖昧さのない歯切れの良いサウンドで、しかもその質量は軽からず重からずの程よさ、ドビュッシーのきらきらと揺らめくような色彩感が幽玄郷にあるごとく示される。こうした至芸はミュンシュの独壇場ともいえるだろう。

→以上はClassique-La Discotheque Idealeでの聴取による。

【収録情報】は下記のとおり。
・ドビュッシー:交響詩『海』La Mer(1956年)
・ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲Pr'lude ' l'Apr's-midi d'un faune(1962年)
・ドビュッシー:交響組曲『春』Suite symphonique 'Printemps'(1962年)
・ドビュッシー:夜想曲Nocturnesより(雲Nuages、祭りF'tes)(1962年)
・イベール:交響組曲『寄港地』Ports of Call(1956年)

ドビュッシー:管弦楽曲集
ドビュッシー:管弦楽曲集

ドビュッシーは、詩(マラルメ)や絵画(印象主義絵画や浮世絵)からの啓示をもって、天才的な感性でこれを音楽化せんとした作曲家である。その試みは、風景描写(交響詩『海』、夜想曲:雲、祭り、海の精)や季節感の表現(交響組曲『春』)、静的なものから動的なものへの転換(バレエ音楽『遊戯』)そして、抽象的挿話の語り部(牧神の午後への前奏曲)までとどまるところを知らない。

そうした創作の技法を同じ作曲家として追体験し、解剖学的にはじめて世にだしたのが、このブーレーズの本集である。

また、ラヴェル同様、ドビュッシー音楽の魅力は、管と弦の<完全融合>のえもいわれぬ<愉悦感>にあると思うが、ブーレーズは実にブレンダー能力の高いシェフである。音量よりも特有の柔らかなリズムと研ぎ澄まされた絶妙な音質に耳を傾ける見事な成果である。
 
Ravel:Bolero/Debussy:La Mer
 

シノーポリ/フィルハーモニア管による「ラヴェル, ドビュッシー」集。「ボレロ」、「ダフニスとクロエ第2組曲」から無言劇、全員の踊り、「海 3つの交響的スケッチ」海の夜明けから真昼まで、波の戯れ、風と海との対話を収録。1988年8月ロンドンでのデジタル録音。

シノーポリがこの曲集が苦手の訳がない。ラテンの血はイタリアもフランスも共通するものも多い。イタリアオペラで鍛えた感性表現は当然、フランスものでもしっくりとくるものもあろう。さて、それに加えて、である。フランス的理詰め、エスプリ、哲学的直観―これらは、いずれもシノーポリの得意とするところ。フランス人はイタリアオペラを好みつつも、安普請なところはちょっと低くみるような「意地悪」もあるが、その優越感のなせるところは、自分たちの文化の背後に、理詰め、エスプリ、哲学的直観があるという自負によるからかも知れない。しかし、シノーポリは最高度にそれらを持っている。

まず「ボレロ」を聴いて参る。わずかに音に混濁があるようにも感じるが、理知的な名演。対して、「ダフニスとクロエ」と「海」は鷹揚としたスタイルであくまでもメローディアスな音楽空間にたゆたうような錯覚がある。しかし、それは単に「上手い」のではなく、音楽(作曲家)のツボを1点、迷うことなく瞬時にぴたりと押さえたような演奏をイメージさせる。
 

 

 
Art of Charles Dutoit (Coll)
 
 
【CD4】 
 ・ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲(1989年)
 ・イベール:交響組曲「寄港地」(1992年)
 ・イベール:バッカナール(1992年)
 ・ラヴェル:バレエ「マ・メール・ロワ」(1983年)
→ ラヴェル:マ・メール・ロア、クープランの墓、他
 ・ガーシュウィン:パリのアメリカ人
 
Icon: Claudio Arrau-Virtuoso Philosopher of the Pi
 
◆ドビュッシー:スティリー風タランテッラ、雨の庭(版画 第3番)(1939年4月)
 
Piano Recital
 
・ドビュッシー:喜びの島
 
 
Pollini Edition (Bonus CD)
 
CD9:ドビュッシー&ブーレーズ/ピアノ作品集ードビュッシー:練習曲集(1992年)、・ブーレーズ:ソナタ第2番(1976&1977年)
 
Art of Maurizio Pollini
 
4. ドビュッシー:雪の上の足跡、西風の見たもの、沈める寺
 
ドビュッシー & ラヴェル:弦楽四重奏曲集(クラシック・マスターズ)
 
アルバン・ベルク四重奏団は、その名前のとおり新ウイーン学派演奏の旗手として登場した。しかし、たとえばベートーヴェンの弦楽四重奏曲集を聴いて、その完璧な構成力に魅了されたリスナーも多かろう。

本集は「フランスもの」が中心のプログラムだが、弦楽四重奏曲に関して、ドイツ的とか、ウイーン風とか、プロ・フランスといった区分自体、あまり意味がないようにも思える。この演奏を聴いていると、いわゆる分析的な演奏であり、あらゆるフレーズの<有意>な意味をあまねく表現しうる方法論を彼らが希求しているのではないかと感じる。

秀でた音楽家が、楽曲を分析し最高の「ひとつの響き」に昇華するために徹底して統一感を追究するといった場をここに実感する。ドビュッシーやラヴェルの見事な楽曲構成やメロディの華やぎに驚くことからはじまり、それを紡ぎ出す本団の深い解釈と技術に脱帽する。それは、真のユニバーサルさの模索と言っても良いように思う。
 


 

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