水曜日, 7月 23, 2008

シャイー ブルックナー9番

 シャイーはブルックナーの全集を録音している。

■第0番 ニ短調(1869年ノヴァーク版) ベルリン放送交響楽団 1988年2月 15:15+13:47+06:47+10:35=46:24
■第1番 ハ短調(1891年ウィーン版)  ベルリン放送交響楽団 1987年2月 13:13+13:45+09:11+18:05=54:14
■第2番 ハ短調(1877年ハース版)   コンセルトヘボウ管弦楽団 1991年10月 19:39+18:13+09:42+19:39=67:13
■第3番 ニ短調(1889年ノヴァーク版) ベルリン放送交響楽団 1985年5月 20:41+15:49+07:01+12:20=55:51
■第4番 変ホ長調(1886年ノヴァーク版) コンセルトヘボウ管弦楽団 1988年12月 18:43+15:05+10:20+21:56=66:14
■第5番 変ロ長調(1878年原典版)   コンセルトヘボウ管弦楽団 1991年6月 20:24+18:07+13:07+23:31=75:29
■第6番 イ長調(1881年原典版)     コンセルトヘボウ管弦楽団 1997年2月7:05+16:44+08:58:14.27=57:30
■第7番 ホ長調(1885年ノヴァーク版)  ベルリン放送交響楽団 1984年6月22:46+22:48+09:58+13:21=69:08
■第8番 ハ短調(1890年ノヴァーク版)  コンセルトヘボウ管弦楽団 1999年5月 16:05+14:59+25:29+22:06=79:01
■第9番 ニ短調(1894年ノヴァーク版)  コンセルトヘボウ管弦楽団 1996年6月 24:44+10:41+27:22=62:47

 しかし、一気呵成にではない。7番の1984年から8番の1999年まで、なんと15年をかけてのじっくりと構えた録音であり、ベルリン放送交響楽団(7、3、1、0番)に続けて、コンセルトヘボウ管弦楽団(4、5、2、9,6,8番)にバトンタッチしての録音。版もノヴァークを基軸としつつも、曲によっては、原典、ハース、ウイーンを採用するなど独自の解釈を覗かせている。

 今日は9番をかける。<波動>が伝わってくる。大きな波動、小さな波動、強い波動、ゆるい波動、そして見事な合成ーそのうねりがひたひたと迫ってくる。その目には見えない<波動>が心に浸潤してくるような演奏。第一楽章冒頭から「巧いなあ」と思う。いわゆる音楽への「没入型」ではなく、指揮者はあくまでも、どこか醒めた感覚は維持しながら、その見事な<波動>をつくっていく技倆は抜群である。
 次にこうなってほしい、こういう音を聞きたいとリスナーに期待させる実に巧みな誘導ののちに、それを凌駕するテクスチャーを次々に繰り出していくような感じ。意図的に嵌めていく、と言えば「えぐい」だろうが、<波動>がとても美しく、力強く連続していく快感のほうが先にきて、技法の妙は隠して意識させない。こんな演奏をできる指揮者はそうざらにいない。ブルックナーの聴かせどころ、ツボを研究し尽くしているからこそできる技だろうが、だからといってけっしてリスナーには安易に迎合はしていない。
たいしたものです。

火曜日, 7月 22, 2008

ヨッフム ブルックナー8番(ベルリン・フィル)

 ヨッフムの旧盤(ベルリン・フィル)を聴く。1964年の録音。ノヴァーク版を使用。この年の録音ということについての意味を少しく考えてみよう。8番については、クナッパーツブッシュ/ミュンヘン・フィル、シューリヒト/ウイーン・フィルの歴史的な名演がある。これらはいずれもこの前年1963年に録音されている。

           シューリヒト     クナッパーツブッシュ    ヨッフム
版           1890年      レーヴェ等の改訂版   ノヴァーク版
第1楽章      15´31"      15´51"           13’36”
第2楽章      13´58"      15´54"           13’54” 
第3楽章      21´42"      27´42"           26’35”
第4楽章      19´42"      26´00"           19’49”
録音        1963年12月    1963年1月         1964年

 版が違うのだから一概に比較はできないにせよ、第1、第2楽章はシューリヒトより早く、思わぬ快速感がある。一転、第3楽章はクナッパーツブッシュばりの急減速に驚く。そしていま一度、転じて第4楽章はほぼシューリヒト並の運行速度に戻る。
 ヨッフムが、この2人のブルックナーの<大家>の演奏をどこまで意識していたかどうかはわからないが、楽章別のアクセントの「付けかた」という観点からは実に興味深い。
 当時の東独の情報がこれまた、どこまで伝わっていたかどうかも不詳だが、ゲヴァント・ハウスでは、ブルックナーを十八番とするコンヴィチュニーが君臨していたことは既に「西側」にも音源が紹介されていたから、もちろん良く知っていたであろうし、海を渡った英国には彼の<怪物>クレンペラーが闊歩していた。
 なによりも、同じベルリン・フィルではカラヤンの8番の録音(1958年)は一世を風靡し、ベルリン・フィル自体が<カラヤン・マシン>に徐々に改造されつつあった。そういう時期の録音である。 

 なぜ、こうもくだくだと並べてみたかと言うと、ヨッフムの演奏の<アク>が、その後のドレスデンとの収録に比べて強いと感じるからである。ヨッフムの8番は、この他にも、ハンブルク国立歌劇場管弦楽団(1982 年)、 バンベルク響(1982年9月15日)ライヴ盤もあるが、ヨッフムの8番「正規盤」としては初のベルリン・フィルとの共演には、彼の並々ならぬ意気込みを感じることができる。
 それが、冒頭比較した演奏時間にもあらわれているように思うし、第1楽章の金管のやや過度に強調した鳴らせ方では、コンヴィチュニーを連想したりもする。

 ヨッフムは当時においても、自信に満ちたブルックナー演奏の第一人者であったのだから、そうそう他の指揮者のことを歯牙にかけていたわけではないよ、と言えるかも知れないが、前半と後半2楽章の演奏スタイルはかなり違っており、同じベルリン・フィルでもカラヤン盤の<遅さ>と<重さ>に比べて、全般に<早く>て<ほの明るい>サウンドを導出しているようにも聞こえる。

 ブルックネリアーナ指揮者にとって、8番は完成された最後の交響曲であり、その特異さから改訂の憂き目をみ、ブルックナーの生前、ほとんど演奏されなかったいわく付きの大曲である。演奏者にとっては、いまもブルックナー解釈の真価が問われる<ポレミークな作品>であることは間違いない。本盤は緊張感に満ち素晴らしい演奏だが、どうも、いつものヨッフムらしからぬ気負い、自意識を感じるのは自分の聴き方が穿ちすぎているからであろうか。

土曜日, 7月 19, 2008

コンヴィチュニー ブルックナー 5番

ブルックナー 交響曲第5番 変ロ長調 コンヴィチュニー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 録音:1960年DENON(国内盤 COCO-75402/3)  コンヴィチュニーのブルックナーの交響曲は、 第2番(1951年モノラル) ベルリン放送交響楽団 第4番(1961年ステレオ) ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団          他に、ウイーン・フィル、チェコ・フィルの録音もあり 第5番(1960年ステレオ) ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 第7番(1958年モノラル) ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 第8番(1959年モノラル) ベルリン放送交響楽団 第9番(1962年ステレオ) ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 などが知られている。 でも、この人は地味だから発売されていないだけで、ライヴを含め、優れた音源はもっとありそうにも思う。 http://shokkou3.blogspot.com/2008_05_01_archive.html

 ぼくは、コンヴィチュニーでは8番はよく聴くが、今日は最近入手した5番をかける。どっしりとした厚みある音響が満ちていく。テンポは第3楽章を除き、全般に鷹揚としており、ゲヴァントハウスの弦楽器のとても自然で滑らかなれど、どことなく淡くくすんだ音色が実に魅力的である。管楽器の音色も8番とは違ってけっして出すぎず、刺激的でなく安定しており、そして両者の融合は見事である。

 全体に、8番同様、意外性のないオーソドックスな解釈で、誰が演奏しているかを当てることは難しいような運行なのだが、個々の響きが重畳的に厚みをもって、徐々に迫ってきてだんだん感動へのエネルギーにこれが変換されていくように感じる。音楽の進行とともに、思わず引きこまれていく不思議な感興が湧いてくる。

 コンヴィチュニーのほかの演奏をあまり聴いていないので、その「流儀」について触れることはできないが、ことブルックナーに関する限り、(ほかの人の優れた演奏でも書いてきたとおり)「原曲のもつ良さを作為なく、あくまで自然に表現さえすれば、感動は自ずと随伴する」という確信に満ちているような演奏。そして、それを可能ならしめているのは、質量ともに「名器」と言うべき、歴史と伝統に培われた固有の音響をもったこの古きオーケストラを守り、育ててきた指揮者自らの強い自信があるからなのだろう。


👉  忘れられない名指揮者