火曜日, 2月 09, 2021

マルケヴィッチ

 アルト・ラプソディ、ハンガリー詩篇、詩篇交響曲


以前、書いた拙文を再掲しながら、この巨匠の音楽を考えてみたい。

◆マルケヴィッチとの出会い

身近にいると、あたりまえに思えて、客観的に評価ができず、その実力を過小評価することがある。逆に、遠く離れているがゆえに、知らずに理想化し、崇敬するといったこともある。

現代のグローバル化時代、IT時代なら、各種評価が即時に飛び交うが、約40年前、クラシック音楽界での来日演奏家の評価は、「情報の非対称性」から上記の傾向があり、その一例がイーゴリ・マルケヴィッチではなかったかと思う。

当時、この指揮者とNHK交響楽団の名演を、いまは喪われた日比谷の旧NHKホールで聴いた。NHKシンフォニーホールの公開録画(抽選参加)として、無料だった。とんでもない贅沢をしていたものだ、といま思う。

マルケヴィッチで、ベルリオーズ「イタリアのハロルド」を聴きながらこのブログを書いている。ハインツ・キルヒナー(ヴィオラ)、スザンヌ・コテル(ハープ)、ベルリン・フィルの演奏で1955年12月の録音である。切れ味鋭い、迫力ある演奏である。

マルケヴィッチの名前は、①現代音楽の旗手としての系譜からも、②ベートーヴェンなどの総譜の研究者としても、③優れた20世紀の指揮者列伝からも、④さらに後世の指揮者を育てた指導者としても有名である。

 「イタリアのハロルド」(「幻想」も秀抜!)では①~③の彼の特質が如何なく発揮されていると思う。彼がもっと健康なら、その後半生はまったく別の航路だったかも知れない。

才能に満ちあふれた人であったのだろう。しかし、有り難いことにいまだ揺籃期にあった日本にもよく来てくれた。1960年、68年、70年、83年に来日しているが、ぼくが聴いたのは68年であった。中学生の素朴な感想として、長い指揮棒を丹念に刻みつつ、カラヤンなどに比べて、派手さのまったくない、格好を気にしない愚直さに特色があったように記憶している。

織工Ⅲ: クラシック音楽 聴きはじめ 3 マルケヴィッチ
マルケヴィチ Igor Markevitch
マルケヴィッチ Igor Markevitch 2

Symphonie Fantastique


マルケヴィッチといえば、幻想交響曲でダントツの名盤がある。

マルケヴィッチの「幻想」はどれも個性があって捨てがたい。マルケヴィッチ指揮RIAS交響楽団=ベルリン放送交響楽団(旧西) ベルリオーズ:幻想交響曲 はライヴならではの籠るような熱気があり、ベルリオーズ:幻想交響曲 はベルリン・フィルの巧緻さが光る。しかし、前二者が1950年代前半のモノラル録音であるの対して本盤は、1961年の初期ステレオ収録であり、本曲の色彩感の表出上は一番ふさわしい。

ラムルー管は技術的に見劣りすると一般には評されるが、管楽器がやや抑制気味ながら、どうして透明感と流麗感のある弦楽器の響きはけっして悪くない。むしろ、マルケヴィッチはオーケストラの特性を十分に計算に入れていると感じる。

第2楽章「舞踏会」の美しき躍動感は最良のバレエ音楽を聴いているようで楽しめる。第3楽章「野の風景」も弦楽器が伸び伸びと奏でながら、ニュアンスが徐々に交錯しつつ陰影を帯び、緊張感を増していくあたりの運行は絶妙。これをテンポの加減速で変化をより強調していく。後半は迫力に富むが、テンポの変化を逆に抑えた冷静な臨場であり一切の力押しを感じさせない。理知的な「幻想」でありながらその印象は鮮烈である。

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マルケヴィッチ指揮RIAS交響楽団=ベルリン放送交響楽団(旧西) ベルリオーズ:幻想交響曲

指揮棒の魔術師の異名をとったマルケヴィッチの「幻想」。本ベルリン放送響盤(1952年ライヴ)のほか、ベルリン・フィル盤 ベルリオーズ:幻想交響曲 (1953年セッション)、ラムルー管盤 Symphonie Fantastique(1961年セッション)、日本フィル盤(1965年ライヴ)の音源がありどれも名演の誉れが高い。

雑音もあり録音は落ちるが、それに余りあるライヴの緊張感は並々ならぬものがある。テンポを小刻みに動かしつつ、鋭角的にリズムをとり、ときに情感たっぷりにメロディをかぶせていく絶妙な運行。本来、ここまでオーケストラの音作りに介入すれば、ややうるさく神経質な演奏になっても不思議はないのだが、そこが「秘術」なのだろう。全体としてタイトルどおりの幻想的な雰囲気に終始包まれ、いささかも小ざかしくなく、むしろ、各楽器は伸び伸びと躍動し滔々たる音楽の流れは一瞬たりとも途切れない。はじめてマルケヴィッチを聴くリスナーは、飽きることなく一気呵成に終楽章までもっていかれる醍醐味あるライヴ感を味わうことだろう。

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ベルリオーズ:幻想交響曲

ベルリオーズ 幻想交響曲 名盤は?

織工 の選ぶ 幻想交響曲 10選

ブラームス:交響曲第1番&第4番/他
ブラームス:交響曲第1番&第4番/他

〇交響曲第1番
1956年、シンフォニー・オブ・ジ・エアを振ってのモノラル録音。はじめ音の貧しさにやや幻滅するかも知れないが、聴きすすめば、次第にその苛烈な演奏に呑み込まれて音はあまり気にならなくなるだろう。マルケヴィッチはオーケストラ操舵の魔術師の異名をもつ。早いテンポ、隈取りのはっきりした音響、深い造形美、そして非常なる集中力。ミュンシュを連想させるが、より直情的で熱っぽい。第2楽章は豊かで、切なく瑞々しい。第3楽章は切れ味の良いきびきびとした運行。終楽章、アルペンホルンの登場から朗々たる第九の主題で一息つくが、ここから一気に追い込みをかけ、畳み込むようにフィナーレに突き進む。圧倒的な迫力である。

〇交響曲第4番
1958年、気心の知れたラムルー管弦楽団とのステレオ録音。初期のステレオ盤特有の音の左右の分離が不自然だが、録音に恵まれなかったマルケヴィッチの音源のなかでは良い部類に属する。
オーケストラは、一瞬の弛みもなく全力で臨場し、そのハイテンションぶりが最後まで持続する。全ての音に、「定在感」がありこれがどの局面で輪切りしても、「完全融合」している。前者は指揮者としての見事な統率力を、後者は作曲家・音楽理論家としての高度な作品分析力を示しているのでないかと思う。
第2楽章のアダージョではラムルー管の柔らかな、抱擁感あるアンサンブルの良さを引き立たせ、一転、第3楽章は強烈な音量とリズミックさで迫る。終楽章も「枯淡の響き」はなく、ブラームス最後の交響曲の最終楽章を極力シンフォニックな世界で飾っている。本曲でのもっとも激烈にして線条的な名演かも知れない。

ワーグナー:管弦楽曲集
ワーグナー:管弦楽曲集

ワーグナーについてもマルケヴィッチの造詣は深い。二人はともにベートーヴェンの音楽理論の研究者であり、マルケヴィッチはワーグナー同様に作曲家でもあった。
この1枚は、マルケヴィッチがワーグナーのすぐれたメロディ創造力を描き出そうとした成果ともいえる。音楽が精妙であり弱音の長いフレーズの美しさをとくに際立たせている。ブラームスでみせた激烈な演奏スタイルの対極に立ち、静かな思索的な音楽が沈着に奏でられる。ローエングリン(第1幕への前奏曲)やジークフリート牧歌はその典型。もちろんローエングリン(第3幕への前奏曲)では盛り上げるところは外さないが、ワルキューレの騎行でもリズムは溌剌としているが、「爆演」とは程遠い冷静な処理である。
しかし、聴き終えたとき、独特の満ち足りた感がある。それは表層的ではなくワーグナーの最良な音楽の核心部分にいささかなりと触れられたような気になるからかも知れない。但し、後半のベルリン・フィルとの録音は古く実に残念である。

<収録情報 S:ステレオ録音>
・ローエングリン~第1幕への前奏曲 ラムルー管(1958年S)
・ローエングリン~第3幕への前奏曲 同上
・タンホイザー~序曲 同上
・タンホイザー~ヴェヌスベルクの音楽 ベルリン・フィル(1954年)
・ジークフリート牧歌 同上
・ワルキューレ~ワルキューレの騎行

ストラヴィンスキー:兵士の物語

ストラヴィンスキー:兵士の物語

ストラヴィンスキーの「兵士の物語」の決定版の一つ。その理由は全体の語り手が最晩年のフランスの詩人コクトーであり、彼がいわば全体を監修し、いまも使用されるコクトー版として世に送った、その貴重な音源だからである。
マルケヴィッチは全ての音を明確に表現しており、その音楽の息づきは至芸とでもいうべきもの。

本作は、現代音楽(バレエ音楽的な要素もある)と演劇の融合とでもいうべき作品で、音楽と独白(一部はレチタティーヴォ風)が「入れ子状」に展開する。場合によれば、一人芝居も可能な演目ながら、本作では、悪魔(ピーター・ユスティノフ)と主人公の兵士(ジャン・マリー=フェルテ)、そして王女(アンヌ・トニエッテ)の三人が登場し巧みな掛け合いをする。管弦楽のアンサンブル・ド・ソリスト(ヴァイオリン、コントラバス、ファゴット、クラリネット、コルネット、トロンボーンおよび打楽器の七重奏)は、フィルハーモニア管やスイス・ロマンド管の首席奏者などが務めている。

ストラヴィンスキー作曲によるいわば「ファウスト」物語の中身(荒唐無稽ながら風刺と諧謔に満ちている)は省略するが、あらかじめ各曲の内容とセリフを一定程度は理解しておかないと、アリアを楽しめるオペラとは違い70分を越える長丁場を聴き通すには、ちょっと忍耐がいるかも知れない(その難を補う意味で別に組曲もある)。
録音にはなかなか恵まれなったマルケヴィッチだが、本作は1962年10月、スイスでのセッション収録であり、音は極めてクリアである。

ストラヴィンスキー:ミューズの神を率いるアポロ
ストラヴィンスキー:ミューズの神を率いるアポロ

「ミューズをつかさどるアポロ」はバレエ音楽ながら、弦楽器のみの編成でかつコンパクトな曲なので、聴いているとストラヴィンスキー版の弦楽セレナードといった風情がある。鋭い管楽器や強烈な打楽器の使用がない分、落ち着いて、ストラヴィンスキーのメロディ創造力(ヴァイオリンのソロパートなど独特のエキゾチシズム)に浸れるだろう。小管弦楽組曲第1番、第2番も同様にメロディに注目すると、滑稽な、素朴な、象徴的な音の小品として楽しめる。

「4つのノルウェーの情緒」は 1. イントラーダ、2. 歌、3. 婚礼の踊り、4. 行列からなるが、古典的な設えでやや通俗的ながら北欧らしさを表現しようとしている。「サーカス・ポルカ」は喧噪と諧謔を感じさせる小品ながら、アンコール演目としてもよく取り上げられる作品。

さて、マルケヴィッチの演奏は一音一音、フレーズ毎に分析的ながら、むしろ、ストラヴィンスキーの持てる良さを最大限引き出せるのは自分だとの自信と愛情をもって臨んでいるようだ。明解なアプローチを感じさせ、かつ音楽が活魚のようにピチピチと生きている。

Warsaw Philharmonic Archive
Warsaw Philharmonic Archive

1962年1月にワルシャワでのライヴ盤。惜しむらくはあまり質のよくないモノラル音源である。マルケヴィッチは1912年7月27日キエフ生まれ。ロシア帝国によるウクライナ統治を嫌って両親は2歳のマルケヴィッチとともに一家で西欧に出国した。半世紀をへて、当時の東側での故国所縁のプログラム中心の演奏記録である。

得意の「春の祭典」では、その鋭いリズム感と思い切ったダイナミズムで鬼気迫る録音。ストラヴィンスキーの音楽から、一切の夾雑物をのぞいて、純粋に鋭利なリズムと強烈な管弦楽の響きのみを抽出したような演奏。その一方、ときおりのメローディアスな旋律では、ロシアの芳香が地から立ちあがってくるような感覚もある。
チャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」では劇的な表現が、ブリテンの「青少年のための管弦楽入門」では色彩的かつ明確なオーケストラの音色が際立つ。

ケルビーニ:レクイエム第2番、交響曲ニ長調
ケルビーニ:レクイエム第2番、交響曲ニ長調

ケルビーニ(1760~1842年)のレクイエム第2番は、通常、有名な「ハ短調」と区別して「ニ短調」レクイエムと呼ばれる。依頼者から、女声を一切排除するように要望されて男声合唱のみで構成されるが、晩年に近い1836年に完成、1838年に初演ということで、自身の葬儀のための作品とも言われている。

第1曲(入祭唱とキリエ)、2曲(グラドゥアーレ)の地味な荘重な合唱は、第3曲(怒りの日)の管弦楽の強烈な全奏で一変する(ここでのマルケヴィッチの激烈さは聴きもの)、第4曲(オッフェルトリウム)および第6曲(ピエ・イエズス)ではとても男声合唱とは思えない和やぎや優しさも垣間見せる。
全体として緊迫さが持続する名曲だが、諦観よりも現生を生き抜く意思をより感じさせる。第5曲(サンクトゥス)および終曲(アニュス・デイ)は静謐さとダイナミズムが交錯するが、最後は消え入るように閉じられる。

マルケヴィッチの指揮は冴えわたり、チェコ・フィルおよび合唱団の臨場感も音色をふくめ聴きごたえがある。1962年のステレオ収録で音の鮮度はほぼ問題ない。

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