土曜日, 1月 22, 2022

グールドの孤独


 









グールドの代表作はバッハのゴルトベルク変奏曲。その録音は、1954年、55年 Goldberg Variationen  、58年(バンクーバー)と59年(ザルツブルク)のライヴ盤およびその死の直前にリリースされた81年盤が知られている。しかし、生前、本人が公式に良しとしたのは本集の55年盤(旧盤)と81年盤(新盤)の二つである。

グールドのメジャー活動は、約四半世紀の膨大なるバッハ録音 Bach Box  に費やされたが、結果的に、旧盤が“劈頭”を、新盤が“掉尾”を飾るという象徴的なもの。

いま聴くと旧盤は、あえて抜群のテクニックを封印しているようなところもある一方、新盤では(衰えゆく)テクニックを超越しているような風情がある。その“差”は本人のみが知るところだろうが、リスナーにはどちらも、孤独と向かい合う最良の友という意味で等しく価値がある。それは、収録時グールド21才と死を意識した50才を前にした2時点の孤独の深さにはおそらくは本質的な“差”がないからかもしれない。
逆説的だが、若いリスナーは旧盤を、熟年のリスナーは新盤を聴くことによって、年令相応の共感があるだろう。そんなレトリカルな置き土産はいかにもグールドらしい。

グールド、レトリカルな置き土産 (amazon.co.jp)


1960年、華麗なメジャー・デビューから5年ののちグールドはブラームスの間奏曲を録音する。昇竜の勢いと反比例するかのように、グールドの孤独はさらに深まっている気がする。

グールド28才、1960年の録音。しかし、深く思索的なピアニズムは「弾き手」の年令を全く意識させない。クリアすぎるほどに研ぎ澄まされた<音>の連続、その一方、グールドのいつもの唸り声も背後で微かに響く。

 だが、「聴き手」の神経は、そこには止まらずブラームス還暦ちかくの深さをたたえた憂愁の<音楽>に自然に行きつく。そして、どうして倍以上も違う作曲家の心情を、20代の若者の「弾き手」がかくも豊かに表現できるのだろうとの驚きが次にくるだろう。

 しかも、半世紀前に録音されたいわば「歴史的」な音源のはずなのに、この稀有な演奏は今日ここで奏でられているかの如く生々しくも「現代的」に響く。グールドは健康上の理由で常備薬(サプリメント)を手放せなかったと言われるが、この音楽は逆に、グールドから「聴き手」の心に直接投与される最良の音楽サプリメントである。

聴き手の心への最良のサプリメント (amazon.co.jp)


バッハは、グールドにとって、その孤独を癒やす欠くべからざる友であった。その足跡は次のパルティータを聴くことによって追体験することができるように思う。

バッハが楽譜扉に記した「心の憂いを晴らし、喜びをもたらさんことを願って」を余すところなく表現したグールドの代表盤。パルティータ(partita)は、part(部分)に通じ、さまざまな変奏曲の一部という原義があるようだが、自由な感性で、一瞬の即興的な変奏に魂を注力するのはグールドのいわば御家芸。しかし、全曲の録音は1956年2月(5番)から1963年4月(4番)まで足掛け7年にわたって慎重になされている。納得のいく成果を時間をかけて求めていくところに、グールドのもう一つの顔、真摯な完成度へのこだわりも感じる。

真摯な完成度へのこだわり (amazon.co.jp)


1964年、グールドは一切のコンサート活動からの引退を表明する。普通のプレイヤーでいえば、やっとコンサートで食える年頃に退路を断って、スタジオ録音に集中するなど、真逆の対応、無謀の極みであったことだろう。あえて、それをやってのけた勇気を称賛することもできるが、実際は心気症、アスペルガーとの折り合いをつけざるをえなかったのかも知れない。

織工Ⅲ: グールド論 その周辺 (shokkou3.blogspot.com)


バッハ:インベンションとシンフォニアにおいて、グールドは、2声と3声の各15曲を[2声+3声]を1セットとして演奏。これによって一定の規則的な“波動”をつくりだしている。また、バッハ原曲の素材を徹底的に分析して、第1曲(第1番ハ長調)から第15曲(第9番へ短調)まで大胆に曲順をかえ、プログラム・ビルディングを再構築している。さらに、各曲のテンポは極めて可変的である。
録音記録は1963年12月6日、11日、19日、1964年1月2日、3月18、19日となっているが、実際の録音は1964年3月の両日に全30曲を一気呵成に収録。それまでは、ピアノの改造と調整に費やされ、いわば数ヶ月におよぶ周到な準備期間ともいえよう。

しかし、こうした隠された“仕掛け”は聴き手にとっては意識されない。聴き手が直接感じるのは、グールドの低い唸り声や椅子の摩擦音といった独特のライヴ感である。
そして30曲は、一個の長屏風のような連続性のもと、一体の世界観を示しているように感じる。しかもその世界は、外的な技巧的華やかさではなく、内面にどこまでも食い入っていくような心の深奥への誘いであるように思う。

ゴルトベルク変奏曲 
Goldberg Variationen  で幕開けし、パルティータ集 Glenn Gould Plays Bach: 6 Partitas  で拡張されたグールドのバッハ解釈は、10年の歳月をへて、一層、深められていることを実感する貴重なアルバムである。

グールド、周到に準備された中期の代表作 (amazon.co.jp)


グールドのバッハへの傾注は、上記のインベンションにつづき、平均律クラヴィア集の録音で頂点をむかえる。

グールドの平均律クラヴィーア曲集の収録は、1962年7月から1971年1月にかけて約10年を費やし、その録音順序は第1、2巻にのっとり、各第1~8番 、第9~16番、第17~24番に3分割して系統的、規則的に行われている。
ヴァルヒャ、リヒテル、グルダ、バレンボイム、シフから若手まで、いまや多くのピアニストが取り上げる本曲集だが、グールド盤はそのなかにあっていまも輝きを失わない。
一方、本曲集は、ピアノ就学者にとっては“バイブル”ともいわれる重要な教則本だが、一般リスナーへの“全曲版”での訴求はおそらくは念頭におかれてはいない。したがって、これを通常の作品のように順に聴くのには正直一定の忍耐を要する。
グールドもこの点は意識しており、選集 
平均律クラヴィーア曲集 第1巻、第2巻抜粋  ([第1巻]第1、2、4、9、15、17、20、24番、[第2巻]第1、2、5、6、14、18、20、24番)もだしている。そこにはグールドの“好み”も反映されていよう。


グールドの「平均律」には、バッハの多面的な要素が集約されていると思う。単純な旋律と複雑な旋律、嬉しき気分と哀しき気分、現世的な表現と世俗を超えた神聖な表現など本来対立的に捉えられているものが、グールドというフィルターを透過すると見事に統一的に響いてくる。いくど聴いても「音楽」という敬虔なものに触れる感動がここにはある。

バッハの多面的な要素を集約したグールドの「平均律」 (amazon.co.jp)


作家の場合、処女作にはすべての要素がはいっているともいわれるが、”グールドの孤独”は、デビュー作から最後の作品まで、一貫してかわることがなかったと思う。アスペルガーであったかどうかは専門家の分析如何にせよ、圧倒的な盛名とともに、奇人、変人、奇矯な振る舞いへの顰蹙・・・などについて、当人はさぞや辛かったことだろう。薬害が寿命を縮めたとの見方もある。しかし、一人孤独と向かいあい、バッハに全力集中することによって前人未踏の世界を築いてみせた、その一点において、グールドの音楽は、孤独に悩む多くのリスナーにとって福音になっていることも事実である。

グールド、孤独と思索ー創造的な成果 (amazon.co.jp)


最後に再度、ゴルトベルク変奏曲について。1932925日生まれのグールドの21、22才のときのデビュー盤(なお、さらに早い1954621日カナダCBC録音盤もあり)。孤独をかみしめたいときに、このCDに手が伸びる。主題アリアから終曲にいたるまで約40分、神経が釘付けになる演奏。その集中によって、グールドの内省的な深さと呼応し、聴きおわったときに、リスナーに孤独が何故かいとおしくなるような不思議な充足感が残る。

内省的、神経が釘付けになる演奏 (amazon.co.jp)


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