火曜日, 9月 21, 2021

固陋の戯言

ここのところ、古いクラシック音源をなんども聴いている。オールド・ファンの回顧趣味と一蹴されそうだが、クラシック音楽自体、COVID-19の深刻な影響もあって危機にあるいま、なにが次の世代の成長ドライバーになるのかという関心もある。

責任の一端はベルリン・フィルの長期停滞にもあるだろう。カラヤンが甘やかしすぎたとの批判もあるが、カラヤンと袂をわかって以降、この楽団の地位低下は著しい。最優秀なプレイヤーを世界中から結集しつつ、その音楽的な成果では失われた○○年そのものである。歴代の常任指揮者の人選も疑問ながら、成果の乏しさを自己評価すること自体がすでにできなくなっているのではないか。他人事ではない、NHK交響楽団はそれ以上に酷い。強い憤りを感じるのは小生だけではないだろう。“双六社会”の上がり、エスタブリッシュメントの象徴になったがゆえの奢りの結果かも知れないが、しかし、頂点が駄目になるとその影響は、世界でも日本国内でも末端にまで及ぶ。












もっと根源的なのは、オーケストラというもの自体が深刻な存在の危機にあるのかも知れないということである。時代を牽引する立派な作品があってこそのオーケストラ。その作品のパイプラインがなければ、栄養補給のない園芸作物は枯れていく運命にある。しかし、どうもそれだけではなさそうだ。

日本でも同様ながら、伝統芸能(芸術)とその継承という視点に立っても、人々の関心とそれを前提とした「一定の市場規模」は本来あるはずである。そこに十分に訴求しているとも考えづらい。ここは固陋のファンのバイアスと思っていただいていいが、ネットでの売れ筋ランキングをみても、“昔の名前ででています”のオンパレードである。新手の投入が決定的に不足している。当初期待した新人が中堅になり、さらに大家の時代を迎えても、卓越した、時代を牽引するような巨匠はなかなか出てこない。たとえば、かつてウェルザー=メストに注目したがこの人は小心なのか正直伸び悩み、ゲルギエフはギラギラとした野望とともに大胆不敵に頑張っているがちょっと粗いところが直らない(メータ的かな?)。この二人は小生の同年代人として早くからの注目株であった。カラヤン、ベームとはいわずとも、ヨッフムもケンペもカイルベルトもホルスト・シュタインの後継もいま誰か、と問われても、あまり考えつかない。伝統芸能(芸術)とその継承者の不在は、業界の体質そのものにも課題があるのだろう。ことはオーケストラに限らず、これはソリストにも共通する。


 

もう一つ、オペラの現況の“ていたらく”とその将来も大きな課題。オーケストラにとって、交響曲や管弦楽曲とともに、オペラは主要な活動フィールドだからである。これも同様に、作品の新たな供給がない一方、経費節減で演出の“現代化”という名のもとに往時の華麗なる舞台芸術の世界はどんどん縮小し、再生産できなくなっている。この点では日本の歌舞伎や文楽のほうがまだ踏ん張っているといえるかも知れない。こちらはより課題が多いようにも思う。より一層の公的な助成なくしては、この大きな機構と歴史と伝統は継承していくことはできないだろう。

なによりも大切なのは、いでよ!若き、あるいは中堅のカリスマである。そしてその下で、粗製濫造を厳しく排する。いまのように安易にWebとNetに頼ることなく、相対、アナログの人的関係をより一層深めることが“急がば回れ”の道ではないかと思う。会員制、クラブ財のなかで、それこそ“聴きしに勝る”一期一会の凄演を積み重ねていく。それを同じく会員制、クラブ財のなかで、限定して発信していく。いわばほかのアート同様、芸術的な希少財づくりである。COVID-19を逆手にとれば、ピンチはチャンスに変わりうるかも知れない。新たなスポンサー探しも必要だろうが、まずは、とことん詰まってしまったパイプラインを作り直し、緩んだマーケット構造を改革しない限り、先行きは明るくはないだろう。いったんは非常に大胆なシュリンクという荒療治もいるのだろう。しかし、人々が求める限り、縮小均衡下ではあっても必ず復活のシナリオはあると思う


 

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