木曜日, 11月 18, 2021

小澤征爾 その若き偉業1 Seiji Ozawa



 









今日、もしも日本の20才台の若手指揮者がベルリン・フィルを振って成功し世界に向けてその情報を発信したとしたら、間違いなく大きなニュースになるだろう。それは、ウィーン・フィルでも全米トップの呼び声高きシカゴ交響楽団でも同じことと思う。

小澤征爾のベルリン・フィルへのデビューは、19612月20日、日独修好百年記念演奏会にて、モーツァルトの交響曲第28番を振ったが、これは弱冠25才のことであった。

1935年生まれの小澤征爾にとって、1970年はちょうど切りがよいことに35才だが、ニューヨーク・フィルの副指揮者をへて、サンフランシスコ響、シカゴ響、ボストン響、パリ管、フランス国立管、ベルリン・フィル、ウィーン・フィルなど多くのスーパー・オケと共演するのみならず、その後、各楽団といまに残る多くの名盤を残している。これは、まさに“ミラクルな快挙”である。

〔参考〕小澤征爾 初期の歩み

 1959年  ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。

1960年 カラヤン指揮者コンクールで優勝。ブザンソンの審査員ミュンシュに誘われて参加したタングルウッド音楽祭にて、クーセヴィツキー大賞を受賞。

1961年 日独修好100周年記念行事にて、初めてベルリン・フィルを指揮。

バーンスタインのもと、ニューヨーク・フィルの副指揮者を務める。

日本フィルを指揮して、日本のオーケストラの定期公演にデビュー。

1962年 N響と指揮契約、メシアン「トゥランガリラ交響曲」を日本初演。

著書「ボクの音楽武者修行」が出版される。

1963年 シカゴ響によるラヴィニア音楽祭に急遽代役で出演。

1964年 ラヴィニア音楽祭の音楽監督に就任(~68)。

1965年 トロント響の音楽監督に就任(~69)。

1966年 ウィーン響を指揮、ウィーンおよびムジークフェラインにデビュー。

ザルツブルク音楽祭並びにウィーン・フィルにデビュー。ベルリン・フィルの定期公演にデビュー。

1967年 ニューヨーク・フィルの定期公演で、武満徹「ノヴェンバー・ステップス」を世界初演。

1968年 ボストン響の定期公演にデビュー。

日本フィルの首席指揮者兼ミュージカル・アドヴァイザーに就任(~72)。

1969年 トロント響と日本公演を行う。

ザルツブルク音楽祭におけるモーツァルト《コジ・ファン・トゥッテ》で、オペラ指揮を本格的にスタート。ボストン響との初録音を行う。パリ管の定期公演にデビュー。

1970年 タングルウッド音楽祭の芸術監督に就任(~2002)。サンフランシスコ響の音楽監督に就任(~76)。

BIOGRAPHY - 小澤征爾 | Seiji Ozawa - UNIVERSAL MUSIC JAPAN (universal-music.co.jp)

音楽之友社からでている『指揮者のすべて』という雑誌がある。手元の2冊をみると1968年版では、小澤征爾は世界ランキング19位である。30人の音楽評論家が各10人を選んだ集計結果であるが、小澤は4票を獲得している。小澤に票を投じたのは、H.タークイ、R.デットマー、畑中良輔、平島正郎の各氏だが、海外の著名評論家と日本人各2名といった得票であった。

30年後の1996年版では9名の“国内だけ”の音楽評論家の“合議”によって、同様なランキングを試みているが、小澤の名前は上位17名までに出てこない。年代別では19811990年で朝比奈隆が8位に入っているが、小澤の名前はない。判官贔屓の逆、灯台もと暗しの典型であろう。日本の音楽評論家の“音痴”度が問われる。いま読み返しても19681996年で、その“見識眼”は旧態依然として著しく劣化しており、これは、よくある“世界の常識、日本の非常識”の典型とも思える。

 

小澤の1970年代の輝きは、1950年代のカラヤン、バーンスタインらを彷彿とさせる。それを日本のクラシック音楽界は当時もいまもあまりに過小評価しているように思えてならない。N響事件には、双方の言い分があるのかも知れないが、現在までの小澤のディスコグラフィーとN響の全録音について、その質量を比較すれば、彼我の圧倒的な差について、N響サイドはいまも猛省をすべきだろう。

余人はさておき、手元にあるこの時代の小澤のCDをひとつ一つ、丹念に聴き直しその印象を記す作業がいまはとても新鮮で楽しい。

👉 織工Ⅲ 拾遺集 小澤征爾の芸術1~25  目次 (fc2.com)

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